第153話『羽根のトラブル、そして小さな来訪者』
◆朝・勇輝のアパート前
玄関を開けた瞬間、空気がざわついているのが分かった。
音があるわけではない。人の気配があるわけでもない。けれど、いつもの朝の「乾いた静けさ」が、玄関先だけ少し濁っている。濁りは湿り気のように皮膚に触れ、勇輝は無意識に首をかしげた。
「……いたた……」
声は小さく、壁の陰から漏れてきた。
続けて、こちらを確かめるような呼びかけが聞こえる。
「……おはよ」
玄関前の地べたに、フィリィが座り込んでいた。背中の羽はしゅんと垂れている。いつもなら光の薄膜みたいにふわりと広がるはずの翡翠色が、今日は目に見えて淡い。羽根だけが、朝の空気に負けている。
「……なんでここに」
問いの途中で、勇輝は「飛べていない」ことに気づく。
妖精が地べたに座り込む、ということがすでに異常だった。重力に慣れていない彼女が、重力に負けている。
フィリィは涙目で羽根をつまんだ。
つままれた羽は反応しない。反応しないことが、彼女自身をいっそう小さく見せる。
「……羽根が、動かない」
言い終えたあと、彼女は少しだけ唇を噛んだ。
痛みというより、悔しさの噛み方だった。
怪我か。魔力切れか。
勇輝の頭は即座に「分類」を探す。分類は助けになる。助けになるからこそ、分類が追いつかないときの恐怖がある。
「……“魔力のねじれ”だと思う」
フィリィはそう言った。ねじれ、という言葉の響きが、平穏な朝に馴染まない。
ねじれるのは布や針金だけではないのか、と勇輝は一瞬思う。魔力がねじれるなら、風も、境界も、日常も、同じようにねじれる。
危ないのか、と聞くと、彼女はうなずいた。
飛べない。悪化すると魔力酔いになる。喋るのもふらつく。
説明は冷静なのに、声の底に焦りが沈んでいる。自分の身体の内側で起きていることを、彼女は正確に言語化できる。それが余計に怖い。
「お前にしては、やばいな」
勇輝がそう言いかけたとき、フィリィは抗議の形で声を張ろうとした。
だが、張る前に身体がふらついた。
言葉が立ち上がろうとする瞬間に、身体がそれを裏切る。
勇輝は反射的に抱き止めた。
軽い。軽すぎる。軽いものを抱くとき、人はいつも「壊してしまう」恐怖を同時に抱く。
フィリィは彼の腕の中でくたっと収まった。抵抗する余力さえ、今はない。
「……ごめん」
謝る声は、羽根よりも弱く聞こえた。
「謝るな」
勇輝はそう言いながら、心のどこかで「困る」という言葉が浮かぶのを感じていた。
困る――それは実務の言葉であり、守りの言葉でもある。倒れられたら困る、という言い方でしか、いま彼は自分の焦りを表現できない。
フィリィの頬がほんのり赤くなる。
赤くなることすら、彼女の身体に残った「余裕」の印だった。
◆ひまわり市庁舎・広報室
広報室に入ると、フィリィは机の上に座らされた。
座らされる、という行為が妙に現実的で、妖精が「保護対象」に見えてしまう。
美月は彼女を見るなり息を飲んだ。
「……羽根の色が薄い」
加奈が静かに続ける。
魔力の循環が弱っているサイン。
循環という言葉は、町のインフラにも使う言葉だ。水、電気、物流。循環が止まると、町はすぐに「生活」を失う。妖精の身体でも同じことが起きるのだと知ると、勇輝は自分の胸の奥が冷えるのを感じた。
フィリィは情けない顔をした。
昨日、「森の息吹」を植えたときの風を吸い過ぎた、と言う。
吸い過ぎ。
勇輝には一瞬、意味が掴めない。風は吸うものではなく、受けるものだと彼は思っている。けれど妖精は、良い魔力を感じると深呼吸するみたいに取り込みすぎるのだという。
その説明を聞きながら、勇輝は「羨ましさ」と「恐ろしさ」が同時に湧くのを抑えられなかった。良いものほど、取り込みすぎれば毒になる。人間だって同じだ。幸福ですら過呼吸になる。
美月が言った。「幸せの過呼吸」みたいなもの。
フィリィはうなずく。
言葉が軽くなるほど、深刻さが見えにくくなる。軽さは救いでもあり、隠れ蓑でもある。
勇輝が「そんな感じで済ませていいのか」と言いかけた、そのとき。
コンコン、と窓が叩かれた。
誰も触っていないのに。
音は控えめで、礼儀正しい。だから余計に怖い。礼儀正しい異常は、日常の裏側に馴染みすぎる。
窓の外に、小さな光の粒子が漂っている。
粒子は風に流されているだけではなく、「訴え」に見えた。開けてほしい、と。
勇輝がそっと窓を開けた瞬間、空気が切り替わった。
ひゅんっ。
全長二十センチほどの、小さな妖精の子どもが飛び込んできた。
飛ぶというより、飛び込む。勢いがある。怖さを押し切る勢い。
「フィリィお姉ちゃん!」
呼びかけの声は、泣きそうで、泣きながらも走ってきた声だった。
フィリィの顔色が変わる。驚きと、責任と、焦りが一度に押し寄せる。
「……エル?」
彼女は頭を抱えた。
やばい、来ちゃった。
その「やばい」は、叱りたい気持ちと、来てくれたことへの安堵が混ざった色をしていた。
◆広報室・混乱
知り合いなのか、と勇輝が問うと、フィリィはうなずく。
幼生寮で見ている子。見ている――保育の言葉だ。妖精界にも「預けられる子ども」がいて、「見守る役割」がある。世界が違っても、暮らしの骨組みは似ている。
エルはフィリィの羽根を見て、涙目で叫んだ。
倒れたと、風が教えてくれた。森の門のすき間から頑張ってきた。
すき間――仮閉鎖の「仮」が、こんな形で残っていたのだと、勇輝は腹の底が冷える。境界は閉じたはずだった。閉じたはずのものは、閉じきれていなかった。
美月は驚き、加奈は小さく息を吐く。
妖精は恐るべし、と誰かが言う。言葉は冗談の形をしているが、冗談にできるうちはまだ良い。
フィリィはエルを抱きとめる。
小さな腕が、小さな背を包む。
「来ちゃダメでしょう」と叱りながら、抱きしめる力は強い。叱るのは危険を知っているからで、抱くのは危険を越えて来てしまった事実を受け止めるためだ。
「だって……心配だった」
エルの涙が落ちる。
涙は水で、風とは相性が悪いはずなのに、この部屋では不思議と馴染む。
勇輝たちの胸が少し痛むのは、涙が「正しい」からだ。心配は正しい。正しいものが、しばしば危ない。
勇輝はエルに問いかける。
何ができるのか、と。
問いは冷たく聞こえるかもしれないが、今この場で必要なのは「できること」だった。役所の現実は、いつもそうだ。
エルは涙をぬぐい、拳を握った。
羽根の魔力ほぐしができる。幼生だけど得意。
得意、という言葉が出た瞬間、子どもらしさが戻る。役に立ちたい。褒められたい。
フィリィに褒められたくて練習していた――その一言で、フィリィの顔が真っ赤になる。
真っ赤になるのは照れであり、同時に、救われた証拠でもある。救いが「技術」から来るということが、どれほどありがたいか。
「……やれるなら、やってくれ」
勇輝はため息をつきながら言った。ため息は諦めではなく、肩の力を抜くためのものだった。
エルはフィリィの背に小さな手を当てた。
触れる、というより、位置を確かめるように。
そして、緑の光がじわりと広がる。
光は派手ではない。
あたたかさが先に来る。
フィリィが「風が戻ってくる」と呟いたとき、勇輝は胸の奥でようやく呼吸が戻るのを感じた。
羽根が色を取り戻し、ふわっと広がった。
羽根の広がりは、世界の広がりに似ている。閉じていたものが、また開ける。
「飛べるか」
フィリィはそっと羽根を動かした。
ぱた、と小さく音がして、床から数センチ浮いた。
数センチ――その距離の小ささが、どれほど大きな意味を持つか。落ちない、という事実。戻れる、という事実。
「……飛べた」
エルが抱きつく。
「よかった」と泣き笑いの声。
勇輝たちも胸をなで下ろす。なで下ろす、という仕草そのものが、人間の儀式みたいだ。
◆夕方・ひまわり公園
軽い祝いの場が設けられた。
祝いと言っても、派手なものではない。回復を確かめるための時間。誰かの無事を共有するための時間。日常が戻ってきたことを、皆で確かめる時間。
エルは町を見回し、風のことを言った。
この町の風は優しい。妖精界みたいに、話してくれる風がいる。
話してくれる、という言い方は比喩ではなく、彼にとっての現実なのだろう。風は、ただ吹くのではなく、誰かの声を運ぶ。
フィリィは照れくさそうに笑い、言った。
この町は勇輝たちが守っているから、と。
勇輝は大袈裟だと言う。
大袈裟ではない、とフィリィが返す。
言い合いは子どもっぽい。子どもっぽいからこそ、救いがある。守る、という言葉の重さを、ほんの少しだけ軽くできる。
エルが勇輝の手を引っ張った。
「ありがとう」
そして「お兄ちゃん」と呼んだ。
呼び名は、距離を決める。距離は壁ではなく、関係の形だ。
美月が面白がり、加奈が笑う。
勇輝は「やめろ」と言いながら、内心でその呼び方を拒みきれていない。拒みきれないのは、手を引く小さな力が、思ったより強いからだ。
フィリィが礼を言う。
勇輝に。ひまわり市のみんなに。
礼は、贈り物と同じように、受け取られたときに完了する。
ひまわり公園を包む風は、いつもより優しかった。
フィリィの羽根は光を反射しながら、しなやかに揺れている。
揺れは、昨日のねじれとは違う。
揺れているのは、戻ってきた風の呼吸だった。




