第152話『妖精の贈り物と、ひまわり市に吹く小さな奇跡』
◆ひまわり市庁舎・昼下がり
広報室は、午後の陽にゆるく温められていた。
蛍光灯の白さが勝つ時間帯でも、窓から差し込む光が机の端に薄い影を作るだけで、部屋の輪郭がやわらぐ。紙とインクと、ほんの少しの埃――役所の部屋はいつも同じ匂いを持っているはずなのに、今日はそこへ、わずかな風の気配が混ざっていた。
勇輝は書類を整えながら、昨日の遺跡を思い返していた。
風の門を仮に閉じた、と言えば処理は終わったことになる。だが、終わったはずのものほど、たいていは「終わり方」をこちらに選ばせない。境界は閉じられても、境界の話は閉じない。
――あの妖精の子は、大丈夫なのか。
問いは独り言になりきれず、唇の内側に留まった。
窓の外で木々が揺れた。
そよ風が、葉の擦れる音を連れてくる。音は規則ではなく、ためらいに似ている。
その瞬間、空気が一度だけ細かく震えた。
ぱたたたた。
小さな羽音が近づき、肩に軽い重さが落ちた。
落ちた、というほど重くない。それでも、確かに何かが「そこに居る」感触だけが、衣服越しに残る。
「やっほ……」
声は、部屋の空気を乱さないように小さかった。
勇輝は肩越しに視線を向ける。翡翠色の羽が、午後の光の中で一瞬だけ消えそうになり、次の瞬間には確かさを取り戻す。
「……もう飛べるのか」
フィリィは胸を張った。小さな身体が、張ることで大きく見えようとする。
妖精は回復力が売り――そう言いながらも、昨日の疲れを「本気で」と認めるところに、彼女の素直さが滲む。強がりは、いつも全部を隠しきれない。
背後で椅子がわずかに擦れた。
美月が振り返る。視線がフィリィを捉えた瞬間、その目の奥に火が灯る。可愛い、という熱。
熱は善意の形をしているくせに、相手の呼吸を奪うことがある。
「あ――――」
声になりかけたものを、美月は飲み込んだ。机に手をついて深呼吸をする。自分の中の暴走を、ぎりぎりのところで止めるための儀式。
フィリィは反射的に勇輝の反対側へ逃げ込み、肩の上の位置を変える。知らない女性が怖い、というより、女性の善意が持つ「圧」が怖いのだろう。
美月は落ち着いて接すると言った。
「たぶん」と付け足す声が、正直だった。
勇輝はその”たぶん”の頼りなさを笑う余裕が、今日はまだ残っていることに気づく。
加奈が茶を置いた。
湯気が立つ。湯気は音もなく、部屋を「人のいる場所」に戻す。
「それで、今日はどうしたの」
加奈の声は、境界の話を日常の高さへ引き戻す力を持っている。
フィリィは背筋を伸ばし、小さな包みを胸の前に差し出した。
礼を持ってきた、と言った。
礼――その言葉が、彼女の世界にも「贈与の作法」があることを示している。異界は異界で、暮らしの形を持っている。
◆市庁舎前
外へ出ると、空気は少し乾いていた。
庁舎前の広場は、いつも通りの舗装と、いつも通りの人の気配をまとっている。いつも通りであることが、今は逆に心許ない。何かが混ざり込む余地がある、という意味でもあるからだ。
フィリィは包みをほどいた。
布の中から現れたのは、親指ほどの小さな蕾だった。淡い緑に光り、見ているだけで呼吸が整うような錯覚を起こす。香りは強くない。けれど、鼻腔の奥に「森」という単語の影を残す。
勇輝はそれを掌に受ける。
軽い。軽すぎる。軽いものほど、扱いを誤ると簡単に壊れる。
蕾は壊れる気配を持ちながら、同時に「ここに根を下ろせる」というしぶとさも抱えている。
妖精界の花だとフィリィは言った。森の息吹。
見習いでも触れないほど貴重で、普段は王族の庭園にしか置かれない。
その価値を語るほど、なぜ自分たちに渡すのかが重くなる。
「……もらっていいのか」
問いに対して、フィリィはうなずいた。
ひまわり市の風が気に入ったから。守ってくれたから。
守った――その言葉は、昨日の「仮閉鎖」の作業を、彼女の中でちゃんと意味に変えている。作業が意味になって初めて、礼は成立する。
蕾を植えると、その土地に小さな守りが宿る。
悪い魔力や負の気配を吸い取り、穏やかな風を流す。
守り、という言葉がまた出る。守る力は、いつも二面性を持つ。何を守り、何を通さないか。その選別が、やがて境界になる。
美月は「癒しフィールド」と言った。
言葉は現代的で、軽い。しかし軽い言葉があるからこそ、人は不思議を恐れずに受け取れるのかもしれない。
加奈は素敵だと言った。町も喜ぶ、と。喜ぶという予感が、まだ未来にあるうちから、空気の中で形になり始める。
フィリィは照れたように指先をもじもじさせた。
帰りたくなる場所――彼女は言った。妖精界にもあまりない、と。
帰りたくなる、という言い方が、訪問者の言い方だった。彼女の中にも「帰るべき場所」がある。その上で、ここがもうひとつの「帰りたくなる場所」になりかけている。
勇輝は蕾を見つめ、ふっと笑った。
笑いは、ありがたさを軽くするためではなく、ありがたさに耐えるためのものだった。
フィリィは注意をひとつ告げる。
植えた瞬間、森の匂いが町に広がる。落ち葉と魔力の混じった匂い。木の実の香り。
秋の森の空気みたいな、と勇輝が言うと、フィリィは「そんな感じ」と頷いた。
秋の森――その比喩が、急に町を静かにさせる。森は都市の反対ではない。都市の中にも、森は潜んでいる。忘れたふりをしているだけで。
◆その日の夕方──ひまわり公園
公園のガゼボの近くに、蕾を植えた。
土は思ったより柔らかく、指が沈む。土の冷たさは、役所の机の冷たさとは違う。生き物の冷たさだった。
埋めた瞬間、風が通った。
ふわぁっ、と言うしかないほど柔らかい風。広場を包み、空気の底に沈んでいた匂いを一度掻き上げる。森の匂いが町に広がる。落ち葉の乾いた甘さと、湿り気のある木の影。その中に、説明できない「力」の匂いが混じる。
すれ違った市民が足を止め、鼻先を動かした。
いい匂い。落ち着く。眠くなる。
言葉はそれぞれ違うのに、表情は似ている。肩が下がり、目の焦点が少し遠くなる。人が「自分の内側へ戻る」ときの顔だ。
美月が端末を確認して、また世界に名前を付ける。
癒しの風。トレンド入り。
速さに笑ってしまいそうになる。現象より速く言葉が走り、言葉より遅れて感覚がやってくる。それでも、感覚が最後にちゃんと残るなら、言葉が先に走ることは悪いことばかりではないのかもしれない。
勇輝は肩の上を見上げた。
フィリィがにこっと笑う。笑みは、誇らしさというより、安堵に近い。
贈り物は受け取られた。拒まれなかった。
その事実だけで、彼女の羽は少しだけ軽く見えた。
「……小さな奇跡だな」
勇輝が言うと、フィリィはただ頷いた。
妖精の贈り物だから――その言い方には、誇りと、責任と、少しの祈りが混じっている。
夕方の風が、植えたばかりの土の上を撫でた。
ひまわり市の日常に、森の息吹が混ざる。混ざったものは、やがて見えなくなる。見えなくなるのに、ふとした瞬間に鼻の奥で思い出してしまう。
そういう仕方で、町の記憶は増えていく。




