第151話『ひまわり古道遺跡、風を結ぶ鍵』
◆ひまわり古道遺跡──午前
森を抜けると、道の記憶だけが残っていた。
石畳は途切れ途切れに現れ、苔と土に呑まれながらも、かつて人がここを歩いたという事実だけは手放していない。ひまわり古道遺跡――名前は軽いのに、空気は重かった。木々の影が地面に落ちる角度まで、何かを守るように慎重に見える。
勇輝の肩の上で、フィリィが小刻みに震えていた。
震えは寒さではなく、場所の「大きさ」に対するものだった。空間のスケールが、彼女の身体感覚を追い越してしまう。妖精が恐れるのは敵ではなく、境界の厚みなのだと、勇輝はふと思った。
「……怖いのか」
問いは確認というより、息を合わせるための言葉だった。
フィリィはすぐに否定した。否定の声が少し上ずる。
怖くない。只是――大きい。妖精界にもこんな遺跡はない。見ているだけで、胸の奥が押される。
強がりは、弱さの反対ではなく、弱さを守るための薄い膜だ。彼女はその膜を必死で張っている。
遺跡の入り口に、人影があった。
美月と加奈が待っていた。二人の姿は「日常側」の印だ。市役所の職員がここに立つことで、場所が異界になり切るのをわずかに食い止めている。
美月はフィリィを見るなり、息を呑んだ。
「可愛い」という感情が、言葉になるより先に身体を前へ押す。だが一歩踏み出した瞬間、フィリィは勇輝の背に隠れた。羽が縮む。知らない女性の存在が、彼女にとっては「未知の大きさ」なのだろう。
美月は両手を胸の前で止めた。
深呼吸をする。自分の熱量を落ち着かせるための呼吸。歓迎という言葉を、相手に届く温度まで冷ます。
名乗る声は丁寧だった。市役所の藤堂美月。あなたを歓迎します。
その丁寧さの裏側で、彼女は必死に「抱きしめたい」を抑えている。抑えるほど、指先が震える。
フィリィは小さく礼を返した。礼の仕方だけは、どこの世界でも似ている。
そして、ぽつりと「目が怖い」と言った。怖いのは目そのものではなく、目に宿った熱だ。熱は触れなくても届く。
怖くない――美月は言う。可愛い子を見るとバフがかかるだけ。
バフという単語が、この遺跡の冷たい空気に浮いて、妙に現代的な軽さを残す。その軽さにフィリィはますます怯える。
勇輝は、ここでもまた「説明の届かなさ」を感じた。世界が違えば、善意の形も違う。
加奈が「まぁまぁ」と笑って間をつなぐ。
笑みは場を丸めるための道具ではなく、彼女自身の呼吸のように自然だった。彼女の笑みがあると、言葉にならない緊張が少しだけほどける。
三人と一妖精は、遺跡の中心へ進んだ。
◆◆◆
中心は円形の広場だった。
地面には巨大な紋章が刻まれている。風の紋章――そう呼べば分かった気になるが、実際は「刻まれた線」が、空気の流れを変えている。線が線であるだけで、風の向きを決めてしまう場所があるのだと、勇輝は足裏で感じた。
フィリィは紋章の中央に降り立ち、そっと手を当てた。
手が触れた瞬間、遺跡全体がひとつ息を吸ったように見えた。
ふわり。
そよ風が走り、紋章が淡く緑に光り始める。光は派手ではない。むしろ、古い木々の葉脈が透けるときの色に近い。生き物の中にある色。
フィリィが言った。
ここは昔むかし、妖精界と人間界を結ぶ古い風の門だった、と。ウィンドゲート。
その名を口にしたとき、彼女の声は少しだけ大人びた。見習い案内士としての知識が、恐怖を一瞬だけ押し返す。
「そんなものが……ひまわり市に」
勇輝は息を呑んだ。
町の地図の上にはないものが、町の地面の下にある。地図が現実を説明し尽くせないことを、彼はもう知っている。それでも、知っているだけでは足りない種類の事実が、ここにはあった。
加奈は資料を開き、静かに説明した。
記録には出てこない。けれど、魔力の痕跡から古代の交流があった可能性は考えられていた。
学術的な語りは、この場では祈りに似て聞こえた。言葉で確かめることで、足元の不確かさに耐える。
フィリィは深呼吸し、ふわりと宙に浮いた。
その浮き方が、軽さではなく「適切さ」に見える。彼女は風の中に位置を作るのが上手い。体が風に従うのではなく、風が彼女の周りで形を整える。
彼女がやるのは仮閉鎖。
放っておけば境界のズレが固定され、妖精界の濃い魔力がひまわり市に流れ込む。天気は荒れる。植物は暴走する。
そして、妖精の家が勝手に生える、と彼女は言った。
家が生える、という奇妙な言い回しが、ここでは比喩ではない。
生える――植物と同じ動詞で語られる住居。生活が自然現象の一部になっている世界。
勇輝は、困るという感想の中に、なぜか少しの羨ましさが混じるのを感じた。家が生えるほど自然が近いなら、その世界の人は孤独をどう扱うのだろう、と。
フィリィは「しょうがない」と言った。妖精の家は気まぐれで建つ。
気まぐれ、という言葉が出たとき、彼女の声は少しだけ柔らかくなる。彼女もまた、その気まぐれに生かされてきたのだろう。
フィリィは両手を広げ、紋章の中央で小さな魔法陣を描いた。
円が描かれるたびに、空気の密度が変わる。目に見えないはずの境界が、ここでは触れられるもののように立ち上がってくる。
ふわっ──。
風が渦になり、緑の光が天へ伸びる。
光柱は派手な演出ではなく、道しるべだった。風が、自分の通り道を示している。
フィリィの身体は風そのもののように軽い。
宙でひと回転し、指先で何かをつまむ仕草をした。つまんだのは糸ではない。だが、糸と呼ぶ以外に表現できない「境界の線」だ。
世界と世界を縫い合わせている縫い目に、彼女は指をかけた。
「よいしょ」
その小さな掛け声が、妙に現実的だった。
そして、ぴん、と何かが弾けた。音は軽い。軽いのに、胸の奥に響く。
弾けたのは、風か、緊張か、接続そのものか。
光柱はゆっくりと消え、紋章は沈黙した。
沈黙は終わりではなく、一時停止に近い。止まったものは、いつでもまた動き出せる。
フィリィはふらふらと戻ってきた。
肩で息をしている。小さな身体に、さっきまでの風の圧が残っている。
勇輝は手を差し出し、フィリィはそこにちょこんと座った。掌の上の重さはほとんどないのに、今は「確かにいる」と分かる重さだった。
「……終わった、はず」
言葉の端に、恐れが残る。完了ではない。仮、という世界。
勇輝は小さく言った。よくやった、助かった。
誉め言葉は簡単に出せるのに、心から言うときには慎重になる。彼女の仕事は、ただの作業ではない。二つの世界の綻びを、ひとまず縫い止めたのだ。
フィリィは照れくさそうに羽をぱたぱた動かした。
そして、ぽつりと「ひまわり市は変だ」と言った。
どこが、と訊くと、彼女は「優しい魔力が自然に満ちている」と答えた。
天界とも違う。魔王領とも違う。懐かしい森の匂いがする、と。
匂い――。
勇輝は一瞬、朝露の芝生を思い出した。地面が持つ古い湿り気。木の影の冷たさ。
この町の空気には、確かに「古さ」がある。それは寂れた古さではなく、忘れられずに残った古さだ。
美月が目を丸くし、加奈が静かに頷く。
ひまわり市は想像以上に特別な土地なのかもしれない――。
その言葉が出た途端、特別という語が持つ危うさが、皆の間に薄く漂う。特別な土地は、特別な事件を呼ぶ。事件は、日常の形を変える。
フィリィは掌の上で、ふわりと横になった。
疲れたから少し寝ていいか、と訊く声は、見習い案内士ではなく、ただの小さな訪問者のものだった。
勇輝はポケットティッシュを取り出し、即席のベッドを作った。
それは手当てのようで、儀式のようでもある。守るべきものがあるとき、人は薄い紙を敷くだけで安心してしまう。
「……寝ろ」
言いながら、彼は小さく笑った。
美月の熱量に捕まる前に、と。
フィリィが「それが一番怖い」と言い返す。美月が抗議し、加奈がまた間を丸める。
笑いが起きる。
笑いは異界を消さない。ただ、異界の中で呼吸するための隙間を作る。
こうして、遺跡の仮閉鎖は成功した。
だが、成功という言葉がこの出来事を閉じてしまうのは、どこか違う気がした。閉じたはずのものの向こうで、風はまだ動いている。
その日、妖精界の風は確かに、ひまわり市へ「道」を作った。
道はいつだって、行き来のためにある。行き来は、戻れることを保証しない。




