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異界に浮かぶ町、ひまわり市 ー転移した山奥のまち、異世界対応中!ー  作者: ひまわり あおい


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第150話『風の裂け目──ひまわり市に迷い込んだ小さな訪問者』

◆ひまわり市・中央公園──早朝


朝露が芝生の先に残っていた。光を抱えたままの水滴が、風に揺れるたびに細い針みたいに瞬いて、まだ人の少ない公園の空気を少しだけ冷やしている。

勇輝はベンチに腰を下ろし、市役所の書類に目を落としていた。紙の白は、朝の光にさらされると急に現実味を帯びる。文字の列が、今の生活を支えているのだと否応なく思い知らされる。


コーヒーの苦味は、眠りの浅さを誤魔化すためのものだった。

天界の後始末。終わったはずのものが、終わらない形で残っている。特に「光の種」という呼び名のせいで、問題が妙に優しい顔をしてしまう。市長と美月が、誰にも聞かれないように会議を重ねているのも、その優しさの裏側に、手を触れたくない硬さがあるからだろう。


仕事が増えた、という言い方は簡単だった。

増えたのは、紙の束だけではない。気づけば、眠りの深さも、呼吸の速度も、以前の自分から少しずつズレている。


そのとき、風が変わった。


ふわり、と感じたのは気のせいではなかった。風は線ではなく、円を描くように回り始め、公園の中心に「透明な膜」が生まれた。膜は見えないのに、見える。空気の密度が変わったのだと皮膚が先に理解する。

勇輝は立ち上がった。紙が膝から落ちて、芝生に貼りつく。


――また、か。


異界、という言葉は便利だ。

便利すぎて、便利である分だけ、恐ろしい。


膜が、ぱちん、と鳴った。

破れたというより、張っていた緊張が解けた音だった。そこから転がり出てきたものを、勇輝の目は一瞬「落ち葉」と見間違えた。軽く、細く、色が淡い。けれど次の瞬間、それは手のひらほどの少女の形を取った。


翡翠色の羽が透けている。薄い金髪は朝の光と溶け合い、花びらを編んだ小さなスカートは、触れれば崩れてしまいそうに見えた。存在が軽い、という感覚がある。重さはあるはずなのに、重さが現実に届く前に、光の方が先にこの子を消してしまいそうだった。


「……いったぁ……」


声は小さかったが、確かに人の声だった。

少女は芝生の上で転がり、羽をばたつかせて起き上がろうとしたが、うまくいかず、またごろりと回る。その動きが滑稽というより、世界の重力に慣れていない生き物のぎこちなさに見えた。


勇輝は駆け寄った。

駆け寄りながら、自分の動きがこの少女にとっては「脅威」に見えるのだということを、遅れて理解する。


「大丈夫か」


言った瞬間、少女の目が開く。瞳がこちらを捉える。

その「捉え方」が、理解ではなく警戒だった。


「ひ、ひゃぁぁ……巨大生物……!」


巨大生物。

その言葉が、勇輝の身体感覚を一瞬だけずらした。自分の体が突然、遠い惑星の生物みたいに感じられる。


「……人間だよ」


声を落として言ってみたが、落としたところで言葉は届かない。届かないのではなく、届く前に恐怖が彼女の中で増幅されている。


「近寄らないでっ。私、戦闘魔法とか、全然……」


戦闘魔法。

ひまわり市の朝に似つかわしくない単語が、芝生に落ちた紙の白さと並んで浮く。少女は逃げようとして転び、また転んで、同じ場所で小さく輪を描いた。羽ばたきは必死で、その必死さが、かえって羽の透明さを際立たせる。


勇輝は、手を上げないようにしてポケットを探り、市役所のIDを取り出した。

カードの硬さは、この町の現実を象徴している。役所という制度が、異界のものにどれほど通じるかは分からない。それでも、彼に残されている「示せるもの」はそれしかなかった。


「……ひまわり市役所の者だ。危害は加えない」


少女はカードを凝視した。

文字を読むというより、文字が発する「意味の匂い」を嗅いでいるみたいだった。


「……やくしょ……?」


彼女は呟いて、言葉を確かめる。

そして突然、ぴょこんと起き上がり、両手を胸の前で合わせて深く頭を下げた。切り替えが早すぎて、勇輝の方が追いつけない。


「私は妖精界“緑風領”の見習い案内士、フィリィ=グリーンフィアと申します!」


名乗りは丁寧だった。丁寧すぎて、さっきまでの怯えと同じ人物の声に聞こえない。

それでも、声の芯には気の強さがある。怖がりながら、負けたくないという意地。


勇輝は額を押さえた。

驚きよりも、妙な疲労が先に来る。異界の来訪者が、いつも「ややこしさ」を連れてくることを、身体が覚えてしまっている。


「……どうしてここに?」


フィリィはしょんぼりと視線を落とした。羽が少しだけしぼむ。

境界風――エッジウィンド。観測中に裂け目へ吸い込まれて、気づいたら落ちていた。事故だ、と彼は理解した。事故は起きる。だが、この町では事故が「接続」に変わってしまう。


答えが終わる前に、空気が震えた。

ピィン、と音がした。音は耳ではなく、歯の裏に響く。昨日の光とは別種の振動。風が、見えない糸を弾いたみたいに張り詰める。


勇輝は、嫌な予感を先に言葉にした。


境界が揺れている。

妖精界とひまわり市が、接続され始めているのか。


フィリィの顔色が変わった。怯えが戻るのではなく、責任が戻る。

妖精界は人間界より魔力が濃い。接続が続けば、環境負荷でどちらかが壊れる――彼女は言った。壊れる、という言葉が、芝生の上に落ちて、濡れた紙より重く響いた。


「専門の場所に行って切断しないと……」


専門の場所。

この町には、そういう「専門」が増えすぎている。


フィリィは勇輝の手を掴んだ。掴む指は小さいのに、力がある。

「ひまわり古道遺跡」へ案内してほしい、と彼女は言った。そこに古い境界装置の気配がある、と。気配という言い方が、彼女にとっての確信なのだと分かる。妖精は、目に見えないものを「気配」として掴む。それが日常なのだ。


遺跡。境界装置。切断。

単語が並ぶほど、勇輝の胸の奥が重くなる。町はまた異界と関わるのか。関わらない、という選択肢はないのか。

放置すればもっと大変になる――その計算だけが、現実として彼を押す。


勇輝は深く息を吐いた。

覚悟という言葉は大げさかもしれない。けれど、今の彼に必要なのは、正しさよりも「動くための決断」だった。


「……分かった。案内する」


フィリィの顔が、ぱっと明るくなった。明るさが、光ではなく体温のように見える。

彼女は勇輝の肩のあたりまで飛び上がって、ちょこんと乗った。肩に乗る重さはほとんどないはずなのに、勇輝は「何かを預かった」感じがした。預かったのは命か、境界か、あるいはこの町の次の一日か。


「高い……人間界の肩って、こんな高いの……」


言いながら、フィリィは笑う。

笑いの中に、怖さも混じっている。怖さが混じっているから、笑いが本物になる。


勇輝はスマホを取り出し、美月に連絡した。

重大な迷子を保護した。これから遺跡へ行く。準備を頼む――。


通話の向こうで、美月の声が一瞬止まってから、驚きが遅れて爆ぜた。

驚きは、いつもこの町に遅れてやってくる。現象の方が先に到着してしまうからだ。


ひまわり市の平穏は、今日も来ない。

来ないのに、庁舎の壁は相変わらず乾いていて、芝生は朝露を抱え、コーヒーは苦い。

そういう「いつも通り」の中に、肩の上の小さな重さが、確かに乗っている。


こうして勇輝は、妖精を肩に乗せたまま、新しい異界へ向かうことになった。

幕が上がる、というより、すでに裂け目は開いていて、彼はそこへ歩かされている。風のせいで。あるいは、町のせいで。

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