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異界に浮かぶ町、ひまわり市 ー転移した山奥のまち、異世界対応中!ー  作者: ひまわり あおい


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第1255話「議会が熱を持つ:暫定合意書で温度を下げろ」

◆開会前・市議会棟の控室


 議会棟の廊下は、冬の体育館みたいに空気が乾いていた。歩くたびに靴底がきゅっと鳴り、誰かが咳をしただけで、視線がそちらへ寄ってしまう。音が少ないからじゃない。静かさの裏側に、言葉が刺さる余地がたくさん残っているからだと、勇輝は思う。


 今日はひまわり市議会の臨時説明会。名目は「異界研修の受入と実施に関する事前説明」……そして実態は、招待状に並んだ単語の不穏さを、現実の手続きで押し戻す時間だ。


 控室の机の上には、資料の束がきっちり積まれている。表紙はいつもの役所フォーマットで、紙の色も文字の大きさも、やけに“安心できる”仕様だ。けれど、束の一番上に挟まれた一枚だけは、紙が薄いくせに存在感が強い。


 暫定合意書(要約)。


(この一枚が、今日の空気を救う。救えなかったら、救える形に作り直す)


 勇輝が喉を整えようとしたとき、加奈が紙コップをそっと差し出した。湯気の香りが、議会棟の乾いた匂いに、ひとすじだけ柔らかさを混ぜる。


「これ。喫茶の“落ち着くやつ”。砂糖は控えめ、でも香りは強めにしておいたよ」


「……助かる。今日だけは、コーヒーが味方に見える」


「味方って言い方、ちょっと大げさ。今日の相手は、空気でしょ」


 加奈の声は軽いのに、ちゃんと芯がある。勇輝は紙コップを受け取り、熱で掌がほどける感覚に、ほんの少しだけ肩を落とした。


 隣では美月が、端末を胸に抱えたまま、まるで凍ったみたいに固まっている。画面は暗い。通知も切ってある。いつもの彼女なら「これ絶対みんな知りたいよ!」と目を輝かせている局面なのに、今日は目の光が“内側”に向いている。


「主任、私……今日、“観光っぽい言葉”が喉に上がってきたら、口の中で折りたたんで飲み込みます……」


「折りたたまなくていい。場所を選べばいいだけだ。議会は、まず白で要約。細部は灰。黒は出さない。そこだけ守れ」


「白、灰……黒。了解。呼吸みたいにする……」


 美月が自分の胸元に手を置いて、小さく息を吸う。いつもよりゆっくり。いつもより慎重。それだけで、今日の彼女はもう半分くらい前進している。


 そこへ、レフィアが資料の束を一度だけ、まっすぐに整えた。紙の角が揃う音が、妙に心地いい。彼女は顔を上げ、勇輝と加奈と美月を順番に見てから、淡々と言った。


「本日の順番は、盾になります。焦って言葉を先に出すと、相手の想像が走ります。想像が走ると、誤解が増えます」


「……ありがとう。今日はその盾を持って入る」


 勇輝が頷いた、その瞬間だった。


 廊下の向こうから軽快な足音。聞き慣れたテンポ。嫌な意味で、安心できるテンポ。


「おはよー! 臨時説明会? いいね、みんな来てる? 魔王領の温泉……」


「市長」


 勇輝が低く呼ぶと、市長の口がぴたりと止まった。止まっただけで、控室の空気が少しだけ落ち着く。


「……はい?」


「温泉は最後です。控えめに。ほんとに、控えめに」


「控えめ、ね……。うん、分かった。今日は“ボタン”押さない」


 市長はそう言いながら、ポケットを両手で押さえて見せた。押さえる場所が違う気もするけれど、今日はその努力を尊重したい。勇輝はコーヒーを一口飲み、熱で言葉を整え直した。


(よし。まずは紙。紙がある。順番もある。あとは……舞台に上がってからの自分だ)


◆開会直前・議会棟の廊下


 控室を出ると、議会事務局の職員が廊下の端で待っていた。書類を抱える腕が少し固く、目の動きが忙しい。こちらも慣れている人だ。慣れている人ほど、今日は“異界”の単語が資料の上で暴れることを知っている。


「勇輝主任、説明の順番はこのとおりで。最初に概要、次に契約関係、そのあと予算。質疑はその都度、議長が振ります」


「了解です。こちらも発言順は決めてあります。混ざるとややこしいので」


 勇輝は小さな紙を一枚差し出した。そこには、手書きの短いメモがある。


 ①勇輝(概要・手続き・予算)

 ②レフィア(先方制度・交渉内容)

 ③加奈(現場運用・市民対応)

 ④美月(公開範囲・記録の扱い)

 ⑤市長(まとめ・市としての姿勢)


「……順番まで紙にしたんですね」


「紙にすると、口が勝手に走らないので」


 市長が横で「俺、順番五番ね!」と指を折って確認しているのが見えて、勇輝はそれだけで少し安心した。こういう日は、順番が守られるだけで勝ちに近づく。


 議会事務局の職員が、念のためといった顔で付け足す。


「マイクは録音されます。傍聴席に記者もいます。固有名詞は慎重に」


「はい。固有名詞は、必要最小限。危険物っぽい言葉ほど、まず定義から入ります」


 レフィアが淡々と頷き、加奈が「メニューみたいにね」と小声で言う。勇輝は苦笑しつつ、最後に美月へ視線を向けた。


「美月、端末は?」


「封印。今日の私は、紙の人です」


「よし。じゃあ行こう。紙のまま戦える」


◆議場・臨時説明会


 議場の空気は乾いているのに、どこか熱を持ちやすい。木の机、薄いマイク、傍聴席の視線、記者のペン先。全部が“ここから先、言い方を間違えると長く残る”と告げている。


 傍聴席はほどよく埋まっていた。研修旅行の話題は、いつだって市民の関心を引く。異界が絡むならなおさらだ。記者も数人いて、腕章が目立つ。職員席には分厚い資料の束が並び、委員会の机には、なぜか予備のコピー用紙まで置かれている。燃えやすいのは紙じゃない。紙が生む想像のほうだと分かっているからこそ、紙を増やして備えてしまうのが役所という生き物だ。


 議長が木槌を鳴らし、形式的な挨拶が続く。勇輝はその間に、手元の台帳と暫定合意書をもう一度だけ確認する。ページの角が揃っているか、要約の順番が飛んでいないか、説明の導線が“迷子”になっていないか。自分が落ち着くためでもあり、議場に「こちらは準備してきた」と伝えるためでもある。


 議長が議題を読み上げ、すぐに質問が飛んだ。いつもそうだ。議会は優しい顔をして、最初の一手でこちらの土台を叩く。


「魔王領研修の招待状に“血判”とあるが、事実か」


 空気が、ほんの少しだけ固まった。傍聴席がざわつく。記者のペン先が上がり、シャッター音が一つ鳴りそうで鳴らない。美月の肩が小さく跳ねるのが、視界の端で分かる。


(初手でそこ。分かってた。分かってたけど、やっぱり初手でそこ)


 勇輝は息を吸い、声の温度を下げてから答えた。


「事実として、招待状にはそのように記載されています。ただし、そのまま受け入れる予定はありません。すでに先方と交渉し、代替手段……魔導印による意思表示で“暫定合意”を得ています」


「暫定合意? その紙があるのか」


「あります。要約で、まず提示します」


 勇輝は合意書の要約を一枚だけ持ち上げ、議長の許可を得て、写しを机上に置く。紙を“見える形”にする。議会ではそれが一番効く。声よりも、紙が先に空気を整えることがある。


 別の議員が眉を寄せ、言葉を選ぶようにして聞いた。


「魔導印というのは、要するに呪いではないのか」


 ここでレフィアが、一歩だけ前に出た。マイクに近づく動きが控えめで、でも場の視線が自然に寄る。彼女の声は淡い。なのに、議場の端まで届く。届くというより、散らからない。


「呪いではありません。魔王領の行政手続きに用いられる“意思表示印”です。表示される内容は、研修の範囲、公開区分、暫定条件など、手続きに関わる要素のみ。ひまわり市側は同等の内容を、自治体の文書として担保します」


「担保、ね」


 議員の声が少し落ち着く。記者のペン先も、先ほどより滑らかに動き始めた。火種が消えたわけじゃない。けれど、炎が立つ前に、湿らせることはできた。


 議会は次の薪を探す。今度は、文字通り“宴”だ。


「歓迎の宴に参加“辞退不可”とある。公務として適切なのか。危険はないのか」


 勇輝の視線が、市長のほうへ一瞬だけ流れた。市長はにこやかなまま、口を閉じている。今日は本当にポケットのボタンを押していないらしい。そこに感謝しつつ、勇輝は先に言葉を差し込んだ。


「宴への参加は、研修の一部として位置づけます。ただし安全確認を条件にします。提供物の事前説明、体質差への配慮、危険がある場合は席次を下げても安全を優先する……ここまで先方と暫定合意済みです」


「席次を下げる、とは? 屈辱を受け入れるのか」


 議員の問いは鋭いが、真正面から刺してくるタイプだ。逆に助かる。曖昧にされるより、具体にできる。


 加奈が、マイクに近づきすぎない距離で補足した。喫茶の人の声は、議場でも変わらない。人の緊張をほどく角度を知っている。


「席が後ろになるだけです。たぶん、ですけど。うちが欲しいのは見栄じゃなくて、無事に戻ってくることなので。そこは遠慮なく、先に確認しておきたいんです」


 傍聴席から小さな笑いが漏れた。笑いが起きると、議場の空気の張りが一段ゆるむ。勇輝は内心で小さく頷く。加奈の「たぶん」は危ない言葉なのに、今日だけは“柔らかい逃げ道”として機能した。議会の人間も、人だ。


 次は現実の刃……予算。


「費用はどうする。旅費、通訳、警備、保険。概算は出ているのか。補正が必要なら、いつ、どの程度だ」


 勇輝は待ってましたと言わんばかりに、資料の一枚を出した。現実の数字は、言葉の熱を冷ます。夢の話を現実に降ろすための、もっとも強い梯子だ。


「概算は出しています。交通(ゲート通行含む)、宿泊、現地移動、通訳・補助、危機対応予備費。さらに、前回の研修で顕在化した“受領品管理”の準備費も含めています」


「受領品管理?」


 議員の目が鋭くなる。ロビーの雲騒動を覚えている顔だ。議場がざわりと、ほんの少しだけ熱を持つ。ここは逃げると危ない。だから、こちらから先に“形”を見せる。


 勇輝は台帳を開き、机の上に置いた。置いた瞬間、紙の匂いが少しだけ議場に混ざる気がした。現場の匂いだ。


「はい。贈答品は、誤解の火種になります。比喩ですが、実際に揉めます。だから今回は、受領しない選択肢も含め、先方と事前合意します。受領する場合は自治体受領、台帳管理、用途の明確化、公開範囲の設定。検疫手順も含めて、最初から段取りを組みます」


「台帳、台帳……さっきから台帳がよく出るな」


 その言い方には、半分呆れが混ざっている。けれど、半分は「それで本当に守れるのか」という確認だ。勇輝はそこを取り違えない。


「盾です。説明できないなら持ち帰らない。説明できるなら管理する。管理できるなら公開範囲を決める。ここまでをセットにして、予算化しています。紙を増やすのが目的じゃなく、誤解を増やさないのが目的です」


 議場の空気が、納得に寄る気配がした。完全な承認ではない。けれど、反射的な否定が減った。火が“育つ前”に水をかけられた感触がある。


 血判と宴を越えたところで、議場の熱は一度下がった。けれど、議会は“次に揺れるところ”を見逃さない。質問は、今度は少し角度を変えて飛んできた。


「そもそも、この研修は“協定”なのか。条約のようなものなら、議会の関与はどうなる」


 勇輝は頷いた。ここは誤解が生まれやすい。研修と協定と契約が、同じ棚に置かれがちだからだ。


「協定ではありません。研修招待に基づく参加です。先方の制度上“契約意思”という語が出ますが、ひまわり市側は行政研修として整理し、権限と範囲を明確化したうえで参加する形に落とします。議会には、条件と予算と公開範囲を事前に示し、委員会で確認を取ります」


 レフィアが補足する。


「魔王領における“契約”は、約束の形式が厳密という意味も含みます。地の国の条約や協定と同列ではなく、手続きの重さを表す語として理解すると、誤解が減ります」


 議員が頷き、別の議員が追い打ちをかけるように聞いた。


「情報公開区分の話が出たが、黒情報というのは何だ。隠し事に見える。市民の理解を得られるのか」


 ここで美月の番だ。勇輝は、彼女がさっき“扉”を口にしかけたことを思い出しつつも、今の彼女なら戻れると信じた。


 美月は端末ではなく、紙のメモを開いた。少しだけ唇を噛んでから、言葉をまっすぐに置く。


「黒情報は、“安全のために公開できない情報”です。具体で言うと、危機対応の連絡手段、関係者の個人情報、封印状態の詳細、検疫の手順の中で悪用される部分。公開すると、逆に危険が増える情報です」


 議場が静かになる。美月は続けた。


「ただし、黒にしたものは“見えなくする”だけにしません。黒で管理する責任者、閲覧できる範囲、閲覧した記録を残します。見せない代わりに、管理の形を見せます」


「閲覧記録?」


 議員が眉を上げると、勇輝が台帳のページを一枚めくって見せた。


「今回、暫定合意書とセットで“閲覧台帳”も作ります。誰がいつどの資料を見たか、黒情報は特にログを残す。市民に見せられない情報があるなら、その扱いを曖昧にしない。それが前回の研修で学んだことです」


 議員の表情が少し柔らぐ。隠すか見せるかの二択ではなく、管理の形を示すと伝わったのだろう。


 そして、案の定というべきか、贈答品の話に戻ってくる。


「前回の研修で“受領品”が問題になったと聞いている。今回はどうする。持ち帰る物が増えるほど、贈収賄の疑いも増える」


 勇輝は「はい」と短く返し、ここでも紙を使った。台帳の“受領しない”欄に付けたチェックと、その理由欄を見せる。


「受領しない選択肢を、最初から入れます。持ち帰る必要がない物、管理できない物、説明できない物は受けません。受ける場合でも、自治体受領、用途、公開範囲、封印状態、検疫の手順。さらに、先方にも“魂の結び”が含まれないことを文書で確認します。こちらだけで判断しません」


 加奈が穏やかに続けた。


「市民に見せるのは、外観と趣旨まで。危険が出ない運用ができるものだけを、ロビーの展示みたいに“説明できる形”で置きます。置けないなら、置きません」


 議員が小さく頷く。議場の温度が、また少し下がった。


 そこへ、別の議員が視線を傍聴席へ向けながら言った。


「市民向けの説明はどうする。魔王領と聞くだけで怖がる人もいる。誤解が広がれば、こちらの責任だ」


 責任。議会が本当に見ているのはそこだ。勇輝は頷きかけたが、その前に、美月が息を吸ったのが分かった。彼女は“観光っぽい言葉”を口の中で折りたたむと言っていたのに、いざとなると、良い方向へ走ろうとしてしまう癖がある。


「はい! 市民向けには“異界交流の新しい扉”として……」


(扉、まずい。今は扉じゃない。今は手すりだ)


 勇輝が止める前に、議員が眉をひそめた。


「扉? 観光PRみたいだな。税金だぞ」


 美月が固まる。端末を抱える指に、ぎゅっと力が入ったのが見える。けれど、ここで彼女を責めると、場が余計に尖る。加奈が小さく肩を叩き、レフィアが一拍置いて、淡い声で助け舟を出した。


「言い換えます。市民向けは、まず“安全確認と手続きの説明”が先です。交流は目的ではなく、結果として生じるもの。恐怖を煽らないためにも、言葉より段取りを示す必要があります」


 美月は、ハッとして自分の言葉を拾い直した。拾い直せるのが、彼女の強さだ。しかも今日は、拾い直しが早い。


「……具体で言うと、“何を学び、何を持ち帰り、何が変わるか”を先に書きます。観光っぽい言葉は最後に、雰囲気として別枠にします。見出しは『安全』『費用』『公開範囲』『持ち帰る成果』で、順番を固定します」


 議員が、少しだけ笑った。


「雰囲気は別枠……変な言い回しだが、筋は通ってるな。まあ、それなら市民にも伝わるだろう」


 美月の肩から、見えない重さがすっと抜ける。勇輝は内心で(今のは助かった)と呟きつつ、彼女の“具体”がちゃんと議場に届いたことを確認した。


 議会は終盤に入る。議長がまとめに向けて視線を巡らせた、その瞬間、市長が手を挙げた。妙に勢いよく、しかし今日は目が真面目だ。


「はい! 一言!」


(ここで余計な例えが飛ぶと、今日の積み上げが崩れる。頼む、紙の言葉でいってくれ)


 市長は立ち上がり、珍しく議場の空気を読んだ声で言った。


「魔王領研修は、怖いって印象もあると思います。でも、ひまわり市はこれまで、異界対応を現場で積み上げてきました。今回も、段取りと記録で、ちゃんと持ち帰ります。議会のみなさんに、条件と予算と公開範囲を示して進めます」


 いい。ちゃんと“段取りと記録”と言っている。いつもより二割くらい役所の言葉だ。


 市長はそこで、いったん息を吸った。危ない息だ。ここで例えが出る。


「例えるなら……温泉に入る前の、かけ湯みたいなもんで……」


(出た。温泉)


 勇輝が視線で止める。加奈が湯飲みをカチンと置く。美月が筆記の速度を一瞬上げて“書かない準備”をする。レフィアは無言で、自分の資料の端に小さく書いた「控えめに」の文字を指でトンと叩く。


 市長は、奇跡的に踏みとどまった。口を閉じ、少しだけ笑って、言い直す。


「……いや、例えはやめます。具体で言うと、段取りです。段取り。安全と予算と情報管理、その三つを先に整える。それが今回の方針です」


 議場に笑いが起きた。市長が例えを引っ込めたことに対する笑いだ。ひどい気もするけれど、空気をほどく笑いでもある。議長が木槌を鳴らし、まとめに入った。


「よろしい。委員会で条件付き承認に向け、詳細を整理する。ただし、安全確認と情報管理、予算の透明性は必須だ。暫定合意は正式文書に整え、こちらにも提出してもらう」


 勇輝は深く頭を下げた。背筋の力が抜けると同時に、次の仕事が増える感覚がやってくる。それでも、今日はまず“議場を荒れさせなかった”ことが大きい。


「承知しました。暫定合意を正式化し、文書を整えます。議会向けの要約は白、委員会と関係職員には灰、黒情報は管理責任者を限定し、閲覧記録も残します」


 レフィアが静かに頷く。加奈が小さく息を吐く。美月が端末を抱え直し、今度は“投稿しない”という意味で胸に抱えたまま、目だけを前へ向ける。市長は、どこか誇らしげに、でも控えめに、椅子に座った。


◆議会棟・囲み取材


 散会の合図が出ると、廊下に出た瞬間、記者が数人近づいてきた。マイク、メモ帳、カメラ。議場の外にも“舞台”があるのを、役所は知っている。知っているからこそ、ここも順番で生きる。


「勇輝主任、確認です。血判の件、どうなりました?」


「宴は辞退不可なんですか? 市民の安全は?」


 質問が重なる。重なると、言葉が短くなりがちだ。短くなると、角が立ちやすい。勇輝は息を吸い、白版の要約を一枚だけ取り出した。手元で見せると、相手の想像が走りにくい。


「白の範囲でお答えします。血判は受けません。代替の意思表示方式で暫定合意を得ています。宴は研修の一部として参加を検討していますが、安全確認を条件にしています。詳細は委員会で整理し、正式に文書で示します」


「魔王領との契約、という表現は?」


 その問いには、レフィアが一歩だけ前へ出た。囲み取材でも、彼女の声は散らからない。


「先方の制度用語として“契約意思”が出ますが、ひまわり市側は行政研修として整理します。範囲と責任線を文書化し、議会手続きを経る。そこが重要です」


 記者が「なるほど」と頷き、次の質問を探す間に、市長が口を開きかけた。


「それで温泉……」


 勇輝が目だけで止める。加奈が小さく笑って、市長の袖を軽く引く。市長は「控えめ、控えめ」と自分に言い聞かせるように呟き、口を閉じた。


 美月は端末を取り出さない。その代わり、メモ帳に一言だけ書いている。『囲み=白/要約のみ/言い切りは慎重』。自分用のルールだ。作れるようになったのが、今日の成果でもある。


「市民向けの説明は、いつ出ますか?」


「準備します。安全と費用と公開範囲、成果の順で、分かりやすく出します」


 勇輝がそう答えると、記者の一人が「観光PRみたいにならない?」と笑った。勇輝は笑い返さず、でも硬くしすぎずに言う。


「観光の言葉は最後です。雰囲気は別枠。まずは安心が先。それが役所の順番です」


 囲み取材の空気が、ほんの少しだけ柔らかくなった。議場の火を消したあとも、外の火種を拾って歩かない。今日の彼らは、そこまでできていた。


◆終了後・議会棟の廊下


 議会棟の廊下に出ると、同じ乾きがあるのに、空気が少しだけ軽い。肩に乗っていた見えない荷物が、ひとつだけ下ろされたみたいな感覚だ。


 加奈が勇輝の横に並び、歩幅を合わせる。


「思ったより、熱くならなかったね」


「熱くなりかけた。火種はちゃんとあった。でも、薪になる前に濡らせた」


「濡らすって言い方、いまの市長が聞いたらまた温泉例えに繋げそう」


「だから聞かせない」


 勇輝がそう言うと、少し後ろから市長が「え、聞こえた!」と抗議する声を出した。抗議できる余裕があるなら、今日の議会は勝ちだ。加奈が笑い、勇輝も小さく口元を緩めてしまう。


 美月は歩きながら、さっきの自分の発言を思い出したのか、小声で言った。


「主任、私、“扉”って言っちゃった……」


「言った。でも戻した。次は最初から具体でいける。今日の議会は、言い直せるかも見てた」


「いける。いきます。……次は、最初の一文から安全って書く」


 レフィアが穏やかに頷く。


「今日の議会は、あなた方の“姿勢”を見ていました。言葉が美しいかどうかではなく、段取りが整っているか。逃げないか。責任線が引けているか」


 市長が胸を張る。


「つまり、俺の“例えをやめた判断”が効いたってことだね!」


「そこだけ切り取るな」


 勇輝が即座に返すと、市長は口を尖らせたが、すぐに笑ってしまった。


「でもさ、褒めてもいいでしょ? 今日、我慢したよ? ボタン押さなかったよ?」


 勇輝は一瞬迷った。こういうところで真正面から褒めると、次の現場でテンションが上がって事故ることもある。けれど、今日は“我慢してくれた”のが本当に助けになったのも事実だ。


「……今日は、えらい」


 市長の顔が、ぱっと明るくなる。まるで市役所のロビー展示の札が増えたときみたいに、嬉しさが分かりやすい。


「よし! じゃあ魔王領に返信……」


「まだ」


 勇輝、加奈、美月、レフィア、四人の声が重なった。重なったのに刺さらない。こういう一致は、場を柔らかくする。


 レフィアが淡々と締める。


「返信は台本どおり。敬意、条件、ユーモア。ユーモアは最後。控えめに」


「控えめ……」


 市長がしょんぼりする。けれど、そのしょんぼりは、今日の議会を生き残った人の余裕でもある。


◆異世界経済部・執務室


 市役所に戻ると、廊下の匂いが変わる。コピー機の熱、紙の匂い、電話の着信音、誰かの「決裁どこですか!」。いつもの日常だ。議会棟の乾きとは違う。こちらは“動く湿度”がある。


 勇輝は台帳を机に置き、ページを一枚めくって、新しい見出しを書いた。太線で囲む。期限を入れる。担当を仮で置く。暫定を、現実のタスクに落とす。


『魔王領研修:正式化タスク(期限付き)』


 その下に、箇条書きが増える。


・暫定合意書の正式文書化(白版/灰版の二種)

・研修参加誓約書(内部決裁ルート確定)

・宴の提供物説明書の事前入手と確認フロー

・公開範囲運用(白灰黒)と閲覧記録の仕組み

・受領品「受けない」選択肢を含む事前合意案

・危機対応予備費の根拠整理(議会提出用)

・市民向け説明文(安全→費用→公開→成果→雰囲気の順)


「……書くこと、多いね」


 加奈が机の横から覗き込み、苦笑する。


「多い。でも、書けば進む。書かなきゃ、想像が走る」


 美月が椅子に座り、端末を机の引き出しにしまった。自分からしまうのは、彼女にとって結構な決意だ。


「主任。市民向け説明、私にやらせて。今日、議会で分かった。先に安全って書けば、変な言葉に逃げなくて済む」


「頼む。ただし、最初の見出しは“安全”。その次が“費用”。その次が“公開範囲”。そこは固定だ」


「固定、了解。具体で書く。雰囲気は最後に、別枠」


 レフィアが、白紙を一枚取り、さらさらと書き始めた。見出しが強い。けれど強すぎない。角がない。


『魔王領研修 返信文(対外用)』

一、敬意(招待への謝意)

二、条件(暫定合意の確認と提案)

三、内部手続き(議会・予算・決裁)

四、ユーモア(控えめ、最後)


 市長がそれを覗き込み、むむっと唸る。


「硬い……。硬いよレフィアさん。魔王領ってさ、もっとこう、黒い炎が揺らめく感じで……」


「炎は比喩でも熱を持ちます」


 レフィアの返しが淡々としていて、市長は一瞬黙る。黙ったあとで、ふっと笑う。


「じゃあ、控えめに、黒い湯気くらいで……」


「湯気も、控えめに」


「湯気まで!?」


 加奈がくすくす笑い、美月も笑ってしまう。勇輝はその笑いが、今日の議会で張り詰めた部分をほどいていくのを感じた。


(よし。今日は荒れなかった。明日から荒れさせないための仕事が始まる。だけど、今の笑いが残るなら、現場はきっと回る)


 勇輝はタスクの最後に、ひとつだけ小さく丸を付けた。


・温泉の話は、最後(控えめ)


 自分で書いて、自分で笑いそうになって、咳払いはせずに、コーヒーを一口飲んだ。熱が、喉の奥でゆっくり落ち着く。



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