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異界に浮かぶ町、ひまわり市 ー転移した山奥のまち、異世界対応中!ー  作者: ひまわり あおい


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1222/2053

第1222話 「研修旅行、まず“根回し”から」

◆午後 喫茶ひまわり


 喫茶ひまわりの午後は、いい意味で役所っぽくない。

 窓際の席に落ちる陽だまりは、書類の角を柔らかく照らし、焼き菓子の甘い香りは、頭の奥で固まっていた数字の列を少しだけほどいてくれる。ミルで豆を挽く音が、一定のリズムで店内を区切り、カップが受け皿に当たる乾いた音が、仕事の区切りを勝手につけてくれる。


 ただ、その空気に一枚だけ、どうしても混ざりきらないものがある。

 勇輝の膝の上に載った、分厚い資料の束だ。紙の束がもつ重量感は、喫茶店ののんびりとした時間を、物理的に引き戻してしまう。


「主任、ここで仕事する人、ほんとに初めて見たかも。ここの雰囲気、休みの日の顔してるのに」


 カウンター席でタブレットをいじっていた美月が、ストローでアイスコーヒーをくるくるかき混ぜながら、半分あきれて、半分感心した声を出した。氷が軽くぶつかり合い、カランと鳴る。


「庁舎に戻ると、席に着いた瞬間から『これもお願いします』が降ってくる。こっちは、降ってきても床に落ちるだけだ」


「それ、主任の特技じゃない? 案件引き寄せ」


「特技なら返品したい」


 言いながら、勇輝は資料の一枚をめくった。今日は軽い下処理だけのつもりだった。異界観光通りの案内看板更新、温泉街の混雑対策、異界住民向けのごみ分別の追記。ひとつひとつは小さい。小さいのに、全部が生活と直結していて、しかも異界仕様でひと癖ある。


 例えば看板ひとつにしても、通り名の表記が国ごとに違う。漢字を好む国、音写を好む国、文字を持たない種族。温泉街の混雑対策は、行列の概念を共有するところから始まる日がある。ごみ分別に至っては、燃える燃えないの基準が文化と信仰まで絡むこともある。


(……喫茶店でやる案件じゃないよな)


 そう思っても、ここに逃げてきたのには理由がある。庁舎だと、誰かが通りがかった拍子に追加の相談が連鎖する。課長席の隣にいると、声が聞こえる距離が、判断を要請する距離になる。今日は、思考の距離を確保したかった。


 ページをめくった、その端に、見慣れない封筒が挟まっていた。


「……ん?」


 封蝋の色が、いつもの市役所の赤じゃない。落ち着いた青。細い金の縁取りが、光を拾っている。紙質も違う。厚みがあって、手に取るだけで、送り主がきちんとした場所だと伝わってくる。


 見た瞬間、胸の奥が、すうっと静かに重くなる。

 だいたい封蝋は、普通の知らせに付いてこない。届いた時点で、もう手順が決まっている類のものだ。


「それ、開けない方がいいタイプ?」


 加奈がカウンターの奥から顔を出した。エプロン姿のまま、焼き上がったクッキーの天板を冷ましつつ、勇輝の手元を見ている。焼きたての香りが、ふわっと届いた。


「たぶん……いや、たぶんじゃないな。見るからに、そういうやつだ」


 封筒の端に、細い文字があった。


 Asreelia Kingdom Foreign Affairs


「……王国の外務省」


 口にした瞬間、喫茶ひまわりの空気が、ほんの少しだけ姿勢を正す。

 もちろん、店の椅子が会議室の椅子に変わるわけじゃない。それでも、言葉ひとつで場の輪郭が変わる。美月の目が、きらっと光った。


「えっ、外交案件? 封蝋つき? ちょっと待って、これ絶対絵になる……!」


「撮るな。まず、撮るな」


「でもさ、こういうのって、広報の素材になるじゃん。『ひまわり市、ついに異界外交の第一歩』って」


「第一歩で転ぶ素材にしかならないから、やめて」


 勇輝が封筒を戻そうとした、そのとき。


 入口のベルが、控えめに鳴った。


◆午後 喫茶ひまわり 奥の席


 入ってきたのは、背筋の伸びた女性だった。

 濃い色の外套を羽織り、肩から小さな鞄を下げている。装飾は控えめなのに、立ち姿だけで役職が伝わってくる。歩幅も、視線も、余計な迷いがない。店の空気を乱さずに、空気の使い方だけが上手い人の歩き方だ。


 加奈が、ぱっと表情を明るくした。


「あっ……レフィアさん?」


 女性は、柔らかく微笑んだ。


「ご無沙汰しております。喫茶ひまわり……こちらで合っていますね」


 丁寧な日本語。けれど、言葉の端が少しだけ硬い。慣れているから自然、というより、正確であることを優先している響きだった。


 勇輝は椅子から半分立ち上がり、会釈をする。喫茶店の客としては少し堅い動きだと自分でも思うが、相手が相手だ。


「アスレリア王国の外交官、レフィア・ルーミエルさん……ですよね。こちらこそ。まさか、ここに」


「突然で失礼します。庁舎へ伺う前に、ひとつ確認したく」


 レフィアの視線が、勇輝の膝の上の青い封蝋の封筒へ、すっと落ちた。

 その一瞬で、勇輝は理解する。偶然ではない。封筒がここに挟まっていたのは、ここに人が揃っていることを見越している。


(……先手を打たれてる)


「それ、王国からの……?」


 美月が身を乗り出した瞬間、レフィアは極めて自然な動作で、美月のタブレットをそっと伏せた。指先は優しいのに、動きに一切のためらいがない。止めるべきものを止める人の手だ。


「記録は、後ほど正式に。ここは公開空間ですので」


 声は穏やかだ。だからこそ、美月が反射で飲み込んだ言葉が喉の奥で渋滞する。


「……う、うん。わかった。すごいな、手の動きが、ふつうに早い」


「こわい、って言いかけた顔だったぞ」


「言ってないし。言ってないけど、言葉にする前に止められると、ちょっと負けた感じする」


「負けるところじゃない」


 加奈がカウンターから出てきて、空いている奥の席へ案内する。店内でも一番視線が届きにくい場所。喫茶ひまわりには、こういう時の席がさりげなく用意されている。


「とりあえず、いつもの席でいいですか? 砂糖は……」


「ありがとうございます。砂糖は一つ。それと、可能であれば、ひまわりプリンを」


 言い終えたあと、レフィアは自分の言葉に気づいたみたいに、ほんの少しだけ頬を赤くした。


「以前、頂いて。忘れられなくて」


 勇輝は思わず口元が緩む。外交官でも、こういう弱点があるのか、と。

 それは安心でもあり、油断でもある。人間味が見える瞬間ほど、相手の本気が隠れやすいことも知っている。


 レフィアは椅子に座ると、鞄から手帳を取り出した。付箋がびっしり貼られ、色が違う。分類が一目で分かる。見ただけで背筋が伸びる。


「単刀直入に伺います。ひまわり市は、研修旅行の計画を進めていますか」


 その一言で、店の奥の席は完全に会議の顔をする。

 勇輝の指が、封筒の縁をなぞった。


「……どこから聞いた」


「外務省の連絡網です。正式に申請が来る前に、先に根回しが必要だと判断しました」


 遠慮がない。だが押し付けでもない。

 必要なことを、必要な順番で言う。外交官の話し方だ。


「研修旅行って、何の研修?」


 美月が目を輝かせる。止められた分だけ、別方向に好奇心が溢れている。


「各国の行政・通商・観光の運用を学ぶ研修です。ひまわり市が異界に転移してから、貴市の制度は……」


 レフィアは一拍置き、言い方を選んだ。


「独創的に進化しています。周辺国にとっては学ぶべき点も、警戒すべき点もある」


「独創的は、褒め言葉と警戒の間に橋が架かってる気がするんだけど」


「今、橋の手前まで寄せました」


 真顔で返されて、勇輝は笑いそうになるのをこらえた。

 加奈がプリンとコーヒーを置きながら、心配そうに聞く。


「研修旅行って、簡単に行けるんですか? 国境とか、手続きとか……」


「簡単ではありません。だから根回しが要ります」


 レフィアは手帳を開き、付箋の一枚を押さえた。


「まず、アスレリア王国。研修受け入れの打診は、すでに私の方で非公式に通しています。問題は、そこから先です」


「天空国アルセリアとか、魔王領とか……?」


 美月が言うと、レフィアの目がほんの少しだけ鋭くなる。


「名称を軽く口にしない方が良い国もあります。特に、魔王領は言い方で印象が変わる」


 言葉が、国の表情を決める。

 勇輝は小さく息を吐き、膝の封筒を手に取った。


「で、これが正式ルートの最初ってことか」


「はい。外務省から、貴市への研修受け入れに関する一次回答です」


 レフィアは封筒を指先で示した。指先の角度まで、儀礼として整っている。


「そして、もう一つ。案内役を付けること」


「案内役?」


「受け入れ先が安心します。誰が責任を持って説明し、誰が誤解を解くのかが明確になるからです」


 美月がぱっと手を挙げた。


「はい、私! 現地の魅力をリアルタイムで……!」


「いいえ」


 レフィアのいいえは、今までで一番速かった。反射に近い。慣れがある。


 美月の手が、空中で固まる。加奈が思わず笑いを噛み殺し、肩が小さく震えた。


「えっ、私の出番、ゼロ?」


「出番はあります。ただし順番を守りましょう」


 レフィアは優しく言い直した。優しいのに、後戻りできない言い直しだ。


 勇輝は、そこで腹を決める。こういう場で責任の座標を曖昧にすると、後で誰かが苦しくなる。たいていは現場だ。


「……わかった。俺が責任者になる。案内役は、レフィアさんが適任だ」


「主任」


 レフィアの目が、少しだけ柔らかくなった。


「それなら、私が案内役になります。外交ルートの調整と、現地の禁忌、儀礼、言い換え。担当します」


 言い終えたあと、レフィアはプリンに視線を落とし、ほんの少しだけ声を小さくした。


「それと、研修の見学先も、いくつか候補があります。文化施設も」


(そこだけ、目がきらっとするの、分かりやすすぎる)


 勇輝が内心でそう思った瞬間、入口のベルが今度は勢いよく鳴った。


「おっ、いるいる。やっぱりここだ!」


 市長だった。上着を肩にかけたまま、軽い足取りで店に入ってくる。レフィアを見つけるなり、顔を明るくして手を振った。


「レフィアさん! お久しぶり! いやぁ、ちょうど良かった。研修旅行、行こうよ!」


「……市長、勢いが先行してます!」


 勇輝が反射で言うと、市長は悪びれずに笑った。


「勢いがあると、止まってるものも動くからね。止まってるものは、主任の資料みたいに重たいんだ」


「重たいのを持ち歩いてるの、俺のせいじゃないです」


 市長は椅子を引いて座ると、机の上の封筒に目を留めた。


「ほう。封蝋。いいねぇ。旅の始まり感がある」


「雰囲気で行政を動かすの、やめてください」


 レフィアが礼儀正しく頭を下げる。


「市長閣下。研修旅行について、まず庁内の整理が必要です。目的、成果物、予算、そして広報」


 広報のところで、レフィアの目が美月に一瞬だけ移った。

 美月はにこっと笑い、今度はちゃんと手を挙げない。


「届けるの、得意です。だからこそ、ちゃんと枠を作ってからにします」


 レフィアは微笑んだまま、ゆっくり首を横に振る。


「届け方を、選びましょう」


 市長が楽しそうに手を叩いた。


「いいね。じゃあ、場所を移そう。庁舎で、ちゃんと会議室の顔をしよう。喫茶ひまわりに会議室を押し付けるのは、さすがに失礼だ」


 加奈が苦笑しつつ頷いた。


「じゃ、私も行くよ。手土産とか、住民説明とか、手伝えることあるよね」


「……ある。びっくりするくらいある」


 勇輝は封筒を内ポケットにしまい、椅子を引いた。資料の束を抱えると、喫茶店の柔らかい時間が、ふっと遠ざかる。


◆夕方 ひまわり市役所 総務フロア


 庁舎の自動ドアをくぐると、空気の密度が変わる。

 コーヒーの匂いが、紙とインクと清掃用洗剤の匂いに置き換わる。廊下を歩く職員の足音は、急いでいないようで、全員が締切に追われている音だ。


 勇輝が先に総務フロアへ電話を入れると、応対した職員が一瞬だけ息を飲んだ。研修旅行。外交官同席。市長出席。ここまで揃うと、会議室の予約ひとつが、イベントになる。


「会議室A、今なら空きがある? あるなら、今から押さえる。そう、急ぎ。いや、走らなくていい。転ぶから」


 電話を切って振り返ると、市長が廊下の案内板を見上げながら、いつもの調子で言った。


「研修旅行ってさ、やるなら早い方がいいよね。勢いがあるうちに」


「勢いは大事ですけど、勢いだけで出発すると、帰ってくる前に報告書が崩壊します」


「主任、崩壊は止められる?」


「止められます。そのために、今ここにいます」


 レフィアは歩きながら周囲を観察していた。庁舎の掲示板、窓口の案内表示、廊下の掲示物。すべてが、ひまわり市の行政の癖を映している。異界仕様の案内文が混ざっているのを見つけると、目がほんの少しだけ真剣になる。


「庁舎内の表記も、研修の対象になり得ますね。例えば、この掲示」


 レフィアが指したのは、外国語と記号が併記された「転入届の記入例」だった。説明は丁寧だが、異界向けに注釈が増えすぎて、最初に読む人ほど迷う構造になっている。


「見せるのか、隠すのか、ってやつだね」


 市長が言うと、勇輝は首を横に振る。


「見せます。隠すと、後で余計に誤解が増えます。見せ方を整えます」


 美月が、タブレットを抱えたまま小声で聞いた。


「見せ方って、具体的に何するの?」


「具体的に、まず見せないものを決める。あと、見せるなら説明の順番を決める。説明は、どの順番で出すかが八割だ」


「主任、急に先生っぽい」


「先生じゃなくて、事故防止係だ」


 会議室Aのドアの前で、加奈が手提げ袋を持ち上げた。喫茶ひまわりの紙袋だ。


「とりあえず、これ。手土産用の試作品。ひまわりクッキーと、小さいプリン。見た目はかわいいけど、食べるとちゃんと真面目」


「真面目においしい、って意味だよね」


「うん。あと、渡す時の説明文も添える。異界の人って、贈り物の意味を重く受け取ることもあるから」


 レフィアが、そこで少しだけ表情を和らげた。


「助かります。贈答の儀礼は、国によって避けるべき点が違います。うまく言語化して添えれば、好意として受け取られます」


「避けるべき点って言い方、急に現実が来ますね」


「危険箇所、です」


 レフィアはさらりと言い換えた。こういうところが、外交官だ。


◆夕方 ひまわり市役所 会議室A


 長机の上には、レフィアが持参した資料、勇輝が急いでまとめたメモ、市長の手書きの矢印が混在している。矢印は多い。矢印だけで未来へ行けそうなくらい多い。

 美月はタブレットを机の端に置き、画面を伏せたまま、指だけで画面の外枠を撫でている。封じられた好奇心が、指先に溜まっている。


 市長はあくまで楽しそうだ。楽しそうなまま、まっすぐに言う。


「研修旅行は、いい。異界の各国と顔を繋げる。ひまわり市の存在を、ちゃんと普通の都市として理解してもらう。あと」


「あと、ですか」


 勇輝が聞き返すと、市長は即答した。


「観光の信頼」


「研修の副産物としてなら、賛成です。主目的にすると、各国の表情が変わる」


 レフィアが小さく頷く。市長の勢いを止めず、輪郭だけを整える頷きだった。


「市長閣下。方向性は良いです。ただし、受け入れ側に伝える言葉は慎重に。研修は研修。交流は交流。観光は、相手が納得した後に生まれる結果として扱うのが安全です」


「安全って言われると、急に現実が来るね」


「現実は、先に来ていて、私たちが追いかけているだけです」


 レフィアは静かに資料を一枚差し出した。


「アスレリア王国の一次回答です。研修の受け入れ自体は前向き。ただし条件があります」


 条件、という言葉で、会議室の音が少しだけ沈む。勇輝はメモのペン先を、ほんのわずかに強く握った。


「機密事項の取り扱い。写真撮影の範囲。発言の引用。映像の二次利用。訪問先の事前登録。そして」


 レフィアは美月を見て、やわらかく言った。


「発信」


 美月が小さく息を吸った。吸ってから、すぐに吐く。自分を落ち着かせる呼吸だ。


「禁止じゃない、ですよね。私、そこだけは知りたい」


「禁止とは言いません。ただし事前確認です」


「事前確認……うん。これ、うっかりすると、文章が骨だけになるやつ」


「骨だけにならない方法を、今から作ります」


 勇輝がペンを走らせる。


(広報ガイドライン。旅先で困る前に、ここで形だけでも作る)


 市長が机を軽く叩いた。音は軽いのに、決定の音だ。


「決めよう。研修旅行、やる。条件は守る。根回しはレフィアさんが主導。主任は庁内の整備。美月は発信の枠組み。加奈は手土産と住民対応」


「振り分けが速い」


「速い方が、後で焦らない」


「焦らないための速度なら、まあ」


 勇輝は苦笑しつつ、議事録の形でタスクを切り分ける。誰が、いつまでに、何を、どの形式で。曖昧な部分は、その場で言葉にする。言葉にした時点で、責任の置き場ができる。


 レフィアは、その作業を遮らない。遮らずに、必要な補助線だけ引く。


「市長閣下。出発までに必要なものは三つです」


 指を一本立てる。


「第一に、研修の目的と成果物。報告書の形式まで決めてください。受け入れ側は、何が持ち帰られるのかを知りたがります」


 二本目。


「第二に、渡航のための携行証明の整備。貴市の住民票は、異界では誤解されやすい。書式と説明文が要ります。特に氏名の表記、住所の概念、所属の扱い」


 三本目。


「第三に、広報の運用。これは最も誤解が生まれやすい。情報を出す速度、言葉の選び方、出す前の確認者。その順番を決めましょう」


 美月が、ちゃんと頷いた。


「……わかった。私、勢いだけで出さない。出す前に、まず見せる」


「素晴らしい」


 レフィアは褒める時、飾らない。だから褒められた側が照れにくい。


 加奈が手元のメモを見ながら、少しだけ現場の声を足す。


「住民説明は、先にやった方がいいよね。研修旅行って聞くと、税金の話になりがちだし。何を学んで、どう戻すのかまで言えた方が安心する」


「その通りです」


 レフィアが頷く。


「行って終わりに見える計画は、どの国でも反発を生みます。成果物の形があるだけで、印象が変わる」


 市長が、机の上の矢印を追加で描いた。今度は矢印の先に、小さく「報告会」と書いた。


「じゃあ、帰ってきたら市民向け報告会もやろう。役所だけじゃなくて、喫茶ひまわりでも。町が見える場所で」


「場所は良いですけど、段取りが増えますよ」


「段取りは、主任が得意」


「得意じゃなくて、必要だからやってるだけです」


 会議室に、小さく笑いが落ちた。笑いは、緊張を切るだけじゃない。これから始まる手間を、みんなで引き受ける合図でもある。


 レフィアが手帳を閉じた。付箋が、ぱたんと揺れる。


「それと、研修先の文化施設について、いくつか提案が。工芸、食文化、温泉の礼節」


「そこ、急に声が明るいですね」


 勇輝がぽつりと言うと、レフィアは一瞬だけ目を丸くし、すぐに咳払いをした。


「業務です」


「業務にしては、楽しそうに見えるのが問題じゃない?」


 美月が小声で茶化すと、加奈がすかさずフォローする。


「好きなものがある人は、説明が上手くなるよ。研修だって、結局は説明が勝負だし」


 レフィアは、少しだけ肩の力を抜いた。


「……そう言っていただけると、助かります」


 窓の外は、もう夕方で、異界の空が少し赤い。ひまわり市がここに来てから、赤い空は何度も見た。そのたびに町は、慣れないものを慣らしてきた。


 今度は、町が外へ出る番だ。

 外へ出るなら、根回しは避けて通れない。根回しという言葉がややこしいのは、見えないところで人を動かすからだ。でも、見えないところで動くものほど、あとから大きく響く。だから、最初に丁寧に線を引く必要がある。


 勇輝は封筒を開けた。封蝋を割る音は、会議室の空気をもう一段だけ締める。


「……条件、細かいな」


「細かいのは、悪意ではありません。安心のための細かさです」


 レフィアが言うと、市長が頷いた。


「安心を買うための条件なら、払う価値があるね。主任、払える?」


「払えるように、予算と手順を作ります」


 勇輝は、一次回答の条件を読みながら、すぐに作業を決めた。読んでから考えると遅い。読んだ瞬間に、次の紙に形を移す。


「よし。研修目的書、今夜中に叩く。明日の朝には庁内回覧に乗せる。成果物の形は、報告書と、住民向けの要点資料。それから、研修先ごとの学びを整理するチェックシート」


 美月が目を丸くする。


「チェックシートまで?」


「チェックシートがないと、現地でメモが感想になる。感想も大事だけど、それだけだと研修にならない」


 加奈が頷いた。


「ちゃんと持ち帰る形があると、住民説明もしやすいよね」


 レフィアが少しだけ嬉しそうに言った。


「素晴らしい。形式が整えば、受け入れ側も安心します。こちらも調整が進めやすい」


 市長は立ち上がり、会議室のホワイトボードに大きく書いた。


「研修旅行 準備開始」


 続けて、箇条書きで、今日決まった担当が並ぶ。

 その字は、きれいではない。でも迷いがない。迷いがない字は、案外人を動かす。


「じゃあ、決まり。ひまわり市、研修旅行へ向けて出発準備開始。主任、心の準備はできてる?」


「……できてます。というか、準備は心じゃなくて書類で作ります」


「いいね。書類は裏切らない」


「裏切りますよ。たまに勝手に増えます」


 美月がふっと笑った。


「主任、それ言うと、また案件を引き寄せそう」


「引き寄せたくて言ってない」


 会議室に、もう一度だけ笑いが落ちる。


 レフィアは小さく手帳を開き、付箋に何かを書き足した。きっと、こういう内容だろう。


 ひまわり市。想定外は、手順の中で飼いならす。


 勇輝はホワイトボードの文字を見上げ、ペンを持ち直した。

 根回しは、始まったばかりだ。けれど今日の会議で、少なくとも「誰が何を背負うのか」は見える形になった。

 見える形になれば、走れる。走れるなら、迷いも減る。


 そして何より、喫茶ひまわりのプリンを口にしたレフィアの表情を思い出すと、少しだけ肩の力が抜けた。

 旅は、危険だけじゃない。学びだけでもない。人が人として接する時間があるからこそ、制度も、言葉も、つながっていく。


 勇輝は、机の上の一次回答を丁寧に揃えた。

 明日の朝には、庁内回覧に乗る。乗せた瞬間から、研修旅行はもう計画じゃなくなる。役所の言葉で言えば、実施に向けた案件になる。


 案件になったら、走るだけだ。


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