第122話「エルフ、ハンコを信用しない」
ハンコ――それは、日本の役所の“常識”だ。
書類には押す。契約にも押す。申請にも押す。
押せば通る。押さなきゃ戻る。
そして、押したくない日は胃が痛い。
だが、異界には異界の常識がある。
今日は、それが真正面からぶつかってきた。
「主任……また契約の相談です」
総務課が疲れた声で言った。
「昨日、魔法契約で胃が死んだばかりだぞ」
「今日は“森のエルフ商会”です」
「もっと胃が死ぬやつだ!」
美月が目を輝かせる。
「ハンコ文化衝突、第二ラウンド!」
「実況するな!」
加奈が心配そうに言う。
「エルフ商会って、商店街の出店の?」
「そう。あの“葉っぱ3枚”の値札の人たちだ」
市長が通りかかり、さらっと言った。
「葉っぱは通貨だ。判子も通貨だ」
「市長、どっちも違います!」
相談内容は、こうだった。
森のエルフ商会が、ひまわり市と“出店協定”を結びたい。
商店街の空き区画を使って、定期的に露店を出す。
観光客も増える。税も動く。
……話としては、良い。
問題は――手続きの最後。
「協定書に、こちらの署名と押印をお願いします」
総務が丁寧に差し出した書面を、エルフ代表が見た。
そして、眉一つ動かさず言った。
「……押印? 印鑑?
そんなものは信用できない」
「来たぁぁ!!」
勇輝は心の中で叫んだ。
そして表情は真面目に保つ。役所は顔が命だ。
「信用できない、とは?」
「印は、本人の意思を示さぬ。
印は盗める。偽造できる。押せる。
誠実は、手で書く署名に宿る」
「正論が刺さる!!」
美月が小声で言う。
「課長、日本社会へのクリティカルヒットです」
「黙れ! 今、文化調整中だ!」
総務が困った顔で言った。
「でも、市の文書規程では、協定書には押印が必要で……」
「規程が敵になる日」
加奈が柔らかく言った。
「エルフさんは、署名ならOKなんだね?」
「署名は誠実だ。
署名は、その者の時間と意思が染みる」
「時間が染みるって表現、強いな……」
勇輝は、昨日の“魔法紋併記”を思い出した。
同じ構造だ。意思表示の方法が違うだけ。
「エルフさん、押印は“本人確認と意思表示”のためです。
あなた方が署名を重視するなら、うちは署名を補強に使えます」
「補強?」
「署名だけだと、市の内部手続き上、通らない。
だから、押印と同等の“確からしさ”を別の方法で補う」
エルフ代表が静かに聞く。
「方法を言え」
「二つ案がある」
勇輝はホワイトボードに書いた。
代替案(押印を補う)
A) 署名+本人確認(対面)+記録
対面で署名してもらう
署名の様子を立会人(職員)2名が確認
署名サンプルを添付(以後の照合用)
B) 署名+魔法的真正性(エルフ側の手段)
エルフ商会が持つ“樹紋(森の証)”を添付
ただし呪い禁止、改ざん防止のみ
市の公印は市側の意思表示として押す
「つまり、あなた方の誠実(署名)を、制度に落とす」
勇輝が言うと、総務が少し顔を上げた。
「立会署名なら、規程の“特例”として処理できる可能性があります。
押印は市側だけでも……」
「市側だけ押す?」
エルフ代表が眉をひそめる。
「印が信用できぬと言っただろう」
「市側が自分に責任を持つための印です。
あなた方に押せと言っているわけではない」
「……なるほど。
印は“お前たちの鎖”か」
「鎖って言い方こわいけど、責任の印です」
加奈が補足する。
「お互いが、相手に合わせすぎない形で、
ちゃんと約束できるようにするってことだよ」
「……人間は回りくどいが、筋は通る」
しかし、エルフ代表は最後に釘を刺した。
「だが、条件がある」
「何でしょう」
「我らの署名を、印鑑の下位に置くな。
署名は飾りではない」
「分かりました。配置で示します」
勇輝は、協定書の署名欄を作り替えた。
先に 双方署名(大きく、同列)
その下に 市の公印(市の内部責任として)
エルフ側は 押印なし(代わりに立会記録+樹紋添付)
「これなら、“署名が主”で、“印は市の責任”になる」
「……よい」
美月が小声で言う。
「課長、署名欄、映えますね」
「映えとか言うな!」
当日、立会署名が行われた。
エルフ代表は、細いペンで流れるように名を書いた。
文字が美しい。書く動作がゆっくりで、確かに“時間”が染みている。
職員二名が立会い、確認書に署名する。
総務が淡々と記録し、添付する。
最後に、市長が公印を押した。
ぽん、と重い音。
市側の責任が、紙に乗る。
エルフ代表が言った。
「印は信用せぬ。
だが、お前たちが“責任を持つ”なら、その印は意味を持つ」
「ありがとうございます。
うちも、署名の重みを軽く扱いません」
加奈が微笑む。
「これで、商店街の出店、安心してできるね」
「うん。……葉っぱ3枚の値札も、制度に落とすんだろうな」
「そこは税務が死ぬから今日は考えない!」
協定が結ばれた日、商店街の掲示板には小さなポスターが貼られた。
『森のエルフ商会:出店開始(試行)
価格表示は“円”でも併記してください』
その横に、小さく手書きで追記がある。
『葉っぱ3枚=300円(目安)』
「目安って何だよ……」
勇輝は笑ってため息をついた。
美月が言う。
「課長、次は消費者相談窓口ですよね」
「絶対来る……」
加奈がコーヒーを差し出す。
「でも今日、ひとつ“共存の形”ができたよ」
「そうだな。
ハンコを押させるんじゃなくて、
約束を成立させる方法を一緒に作った」
ひまわり市役所は今日も、
文化の壁に、判子じゃなく“手順”を押して開庁している。
次回予告
異界商人の取引トラブルが増え、消費者相談窓口が悲鳴。
「葉っぱ3枚」の返品はできるのか?
「異界商人と消費者相談窓口」――相談員、胃が減る!




