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異界に浮かぶ町、ひまわり市 ー転移した山奥のまち、異世界対応中!ー  作者: ひまわり あおい


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1189/2008

第1189話「消えないのが優しさとは限らない:署名パンフの“消えないインク”で返品・交換が大混乱」

◆開庁前・市役所玄関ロビー(困っている人の列は、怒っているように見えて、その実かなりの割合で「どうしたらいいか分からない」に近い)


 市役所の朝は、だいたい静かな準備でできている。


 自動ドアが開く前のロビーには、掃除のあとに残るわずかな洗剤の匂いがあって、受付の卓上札はまだきちんと眠そうな顔で並び、窓口のシャッターも半分だけ光を返している。その静けさの中を、警備員の靴音が規則正しく往復していれば、「今日もいつもの一日が始まる」と身体の方が先に納得してくれる。役所にとって、その納得は案外大事だ。朝の手順が崩れないだけで、人はその日の面倒を少し引き受けやすくなる。


 けれど、その朝のロビーは、開庁前の時点でもう“待っている空気”に占領されていた。


 長蛇の列というほどではない。むしろ人数だけ数えれば、窓口の繁忙日よりずっと少ない。なのに、そこに立っている人たちが皆、手元を気にしながら落ち着かない呼吸をしているせいで、人数以上に空間が狭く見えた。視界の端に赤黒い色が何度も入る。最初は配布用の旗か何かかと思いかけて、すぐ違うと分かった。手だ。手の甲、指先、爪の根元、そのあたりに赤黒い染みが残っていて、列の人たちは申し合わせたようにそこを見せる形で立っている。


 インクの匂いもした。新しいペンの軽い匂いではない。紙へ染み込み、乾いたあとも少しだけ居座る、濃い色材の匂いだ。


 受付カウンターの陰から顔を出した美月は、いつもの勢いで飛び込んでくる時の明るさを意識的に抑えていた。そういう時は、だいたい状況が大きい。


「主任、もう来てます。しかも、怒鳴る手前というより、“このままだと仕事にも家事にも戻れないから、説明より先に手をどうにかしてほしい”って空気です。早めに窓口を分けた方がいいと思います」


 勇輝はロビーの様子を一度見渡してから、先頭へ歩み寄った。ここで最初に必要なのは、原因説明でも、制度整理でもない。今の困りごとが、ちゃんと困りごととして受け止められたと相手に伝わることだ。


「おはようございます。朝からお待たせして申し訳ありません。今日は、署名パンフの件で来られた方が多いという理解で合っていますか」


 先頭にいたスーツ姿の男性が、手の甲を前へ出した。怒っている顔ではあるが、怒りの奥に疲れがあった。会社へ行く前の人の顔だ。


「これです。昨日、温泉郷で“記念署名”って言われて書いたら、夜に洗っても落ちない。石鹸でも、アルコールでも、クレンジングでも薄くなるだけで消えないんです。朝、出勤したら同僚に『どうしたんですか、それ』って聞かれて、説明しても笑われるか引かれるかで、どっちにしても疲れる。面白かったで済ませられるならいいんですけど、今日みたいに客先へ行く予定がある日にこれは困るんです」


 勇輝は相手の手を見る。たしかに、表面へ付いた汚れというより、皮膚のきわへ薄く沈んだような残り方をしている。大きく痛々しいわけではないからこそ、余計に気持ちが悪い。派手な怪我なら手当ての方向は明確だが、こういう「生活にそのまま持ち込まれる違和感」は、説明の仕方を間違えると相手が急に置いていかれた気持ちになる。


「それは困りますよね」


 勇輝は急がず言った。


「仕事の前に手がこうなっていて、しかも落とし方が分からないとなれば、不安になるのは当然です。今日は、原因を止めるのと同時に、今もう困っている方の対応も進めます。まず、すぐ試せる方法をこちらで一緒に確認します。いまの段階で“気にしすぎです”とは絶対に言いません」


 男性の眉の力が、ほんの少しだけ下がる。その変化を見て、加奈が横から冷たいおしぼりを差し出した。押しつける感じではなく、置いておけば自分で選べる距離感で。


「手、熱を持ってると余計に嫌な感じがするので、もしよかったら冷やしてください。私も昨日うっすら付いたんですけど、“落ちるまで待つしかないのかな”って思うだけで気分が落ち着かなかったので」


 男性は意外そうに加奈を見た。


「そちらも?」


「はい。だから、他人事としては扱わないです。『そのくらい大丈夫』で済ませるの、いちばんきついですから」


 それを聞いて、男性はようやくおしぼりを受け取った。怒りが消えたわけではない。けれど、放っておかれないと分かった時、人は次の話を聞けるようになる。


 その後ろには、子どもの手を握った母親がいた。娘の右手の親指の付け根に、やはり赤黒い染みが薄く残っている。母親の顔は、怒りより恐さに近かった。


「子どもが触ったんです。本人は楽しかったって言ってるし、痛くも痒くもないって言うんですけど、こうやって色が残ると、親としてはやっぱり怖いんです。ネットでも変な言われ方をしてるでしょう。“呪いのパンフ”とか、ああいうのを見ちゃうと余計に」


 勇輝は母親の目線と、子どもの手元と、その両方を見る。


「不安になりますよね。いま分かっている範囲では、これは“体に害があるもの”というより、“紙に定着しすぎるインクが皮膚にも残ってしまった”問題です。ただ、それで安心しきれないのも当然なので、皮膚科の相談先を含めてこちらで案内を用意します。今日すぐできることとしては、目立ち方を抑える保護剤と、手入れの手順をお渡しできます」


 横で娘が、母親の袖を引いた。


「ママ、これ、かっこいい色だよ」


 母親は一瞬だけ困ったように笑い、それでもすぐ表情を戻す。


「本人はそう言うんですけどね……。学校があるので」


「そこも含めて考えます」


 勇輝は言った。


「楽しさがあることと、困ることは両立するので、片方だけ見ないようにします」


 美月はその間に端末を確認し、勇輝へ小声で伝える。


「SNS、もう“呪いのパンフ”が走り始めてます。まだ完全に燃えてはいませんけど、変な名前が固定されると回収が遅いです。短い告知を先に出して、“窓口と交換とケアが始まってます”まで一気に流した方がいい」


「お願い。怖い単語へ引っ張られない表現で」


「分かってます。強すぎる言葉で上書きすると、逆にその単語を広めるだけになるので」


 市長がロビーへ入ってきたのは、そのタイミングだった。普段なら最初に声を張る人が、今日は珍しく一言目の音量を落としている。もう電話を何本か受けてきた顔だ。


「……手、かなり残ってるな」


「残ってます。しかも、“面白い思い出”として持ち帰るにはちょっと重い残り方です」


 勇輝は、責めるためではなく優先順位を揃えるために言った。


「市長、今日は観光の盛り上がりより先に、生活の安心を守ります。それが守れれば、結果として観光も守れる。ここを逆にすると、回復が遅くなります」


「分かった」


 市長はすぐに頷いた。


「必要な手配は全部回す。生活相談、消費生活、保健師、観光課、全部つなぐ。そっちは現場を見てくれ」


「助かります」


 勇輝は窓口職員へ向き直った。


「臨時対応を組みます。受付に“署名パンフ対応窓口”の札を出してください。生活相談窓口と連携して、交換希望、手のケア相談、体調不安、問い合わせの四つに列を分けます。待っている人が“自分がどこへ行けばいいか分からない”時間を減らしたいので、案内役も一人付けてください」


 職員が走り出す。こういう時、役所の中で誰かが迷いなく走ってくれるのは本当にありがたい。手順ができれば、怒りは少しずつ並び替えられる。並び替えられれば、対処の順番も見える。


◆午前・温泉郷広場(楽しそうな空気のまま、慎重さだけが先に抜け落ちている状態がいちばん危ない)


 温泉郷の広場へ着くと、昨日までの賑わいがまだ残っていた。ただし、その賑わいの中に、今日の分だけ新しいぎこちなさが混じっている。


 列はある。写真を撮る人もいる。けれど、署名台へ近づく直前に、袖で指先を拭う人がいる。パンフを受け取ったあと、すぐには触れずに角だけを持つ人がいる。楽しい場所の空気は残っているのに、その楽しさへ全身で乗り切れない人が増えている。勇輝には、その半歩のためらいが昨日までと違って見えた。


「もう“イベントだからとりあえず参加しよう”一色じゃないですね」


 美月が周囲を観察しながら言う。


「みんな気にしてないふりはしてるけど、手元だけはかなり気にしてる。こうなると、ちょっとした失敗でも“やっぱり怖い”に引っ張られます」


「空気が二層になってるんだね」


 加奈が静かに続けた。


「表側は楽しそう。でも、手の動きだけは慎重。あれ、かなり嫌な状態だよ。人って、楽しい時に一回でも身構えさせられると、そのあと全部が半歩ずつ不安に寄るから」


 中央の羊皮紙の前では、契約美術家グラ=ヴァルドが、相変わらずいかにも芸術家らしいご満悦ぶりで立っていた。黒いローブは風をはらみ、角は朝日を受けて鈍く光り、署名用のペン先からは、赤黒い光がほんのり滲んでいる。本人に悪気がないのが見ただけで分かる。悪気がないまま徹底的にやる。そういう種類の厄介さだった。


「おお、線の管理者よ!」


 グラ=ヴァルドは勇輝たちを見つけるなり大きく腕を広げた。


「見よ、この誠実なるインクを。消えぬ、揺らがぬ、忘れぬ。旅の記憶を、皮膚の温度と共に刻むのだ」


「誠実なのは分かります」


 勇輝は最初にそこを受け止めた。頭ごなしに否定すれば、相手はすぐ防御へ入る。


「でも、手に残ると“誠実”より先に“困る”が来る人がいます。今、市役所に交換と相談の列ができています。仕事へ行く人、子どもの手を心配する親御さん、帰ってから洗っても落ちずに不安になった人。面白さの余韻としては強すぎるんです」


 グラ=ヴァルドは、少しだけ眉を上げた。


「消えぬのは善であろう。魔界では、消えぬ線こそ信用だ」


「信用って、相手が安心できることだよね」


 加奈が一歩前に出て、言葉を置く。


「いまは、“ずっと残る安心”じゃなくて、“いつまで残るか分からない不安”の方へ傾いてるの。そこがつらいんだと思う。好きで書いたはずなのに、翌朝起きても手に残ってて、仕事や学校で説明しなきゃいけなくなると、“昨日は楽しかったのに、今日になったら急にしんどい”へ変わっちゃうから」


 グラ=ヴァルドの視線が少し揺れた。“楽しかったのに、翌日しんどい”という言い方は、芸術家にも届くらしい。


 美月は端末を見せた。そこに並ぶのは、あまり嬉しくない単語ばかりだ。


『呪いっぽい』

『子どもが触って怖かった』

『会社で説明めんどい』

『楽しかったけど、消えないのは嫌』


「“呪い”が一回定着すると、楽しい側へ戻すのに時間がかかります」


 美月は感情を荒らげずに言う。


「しかも、広がる時は早いのに、戻る時は一人ずつです。だから今、すぐ変えたいです」


 グラ=ヴァルドは舌打ちこそしなかったが、「呪い」という言葉を嫌そうに吐き出した。


「下品だ。契約美術を呪い扱いするとは」


「じゃあ、下品じゃない形に整えましょう」


 勇輝はすぐに続ける。


「消えないのは“紙だけ”でいい。人の手には残らない。残っても、その日のうちに安心できる程度でいい。その代わり、紙にはあなたの誇りとして誠実に残る。つまり、“残り方”の場所を変えるんです」


「紙だけに残す……」


 グラ=ヴァルドは、そこで初めて少し真面目に考え込んだ。


「だが、インクの誠実は触れたもの全てへ及ぶ。そこを削れば、線の威厳が痩せるのではないか」


「威厳は、別の場所へ移せます」


 勇輝は言った。


「手に残すことで強さを見せるんじゃなく、紙の中で定着する強さにする。しかも、署名した人が“ちゃんと変化した”と感じられるなら、体験は痩せない。たとえば、ペンの定着を紙側へ寄せて、書いた直後に紋様や封印が浮くようにすれば、“書いた感”は残りますよね。人へ残る重さを、紙の演出へ移すんです」


 美月が即座に補った。


「それと、導線も変えたいです。いまは署名したあと、すぐ自分の手でパンフを持つ流れだから触れます。署名台へ透明の保護板を置いて、手が紙へ直接触れないようにしたい。乾燥待ちの台も置きます。『いま物語が定着しています』って見せ方にすれば、待ち時間もイベントになります」


 加奈も、実際に書く人の動きを見ていたぶん、具体を足す。


「小さい子って、書いたらすぐ親に見せるし、大人も写真撮りたくて角を持ち替えるよね。そういう自然な動きが悪いわけじゃないから、触っちゃう側を責めるんじゃなくて、触らなくて済む流れを最初から作った方がいい」


「ふむ……」


 グラ=ヴァルドは顎に手を当てたまま、しばらく沈黙した。その沈黙を、勇輝は急かさなかった。急かすと、相手が“譲らされた”と感じることがある。自分で面白がって乗ったと思ってもらった方が、後の協力が安定する。


「よかろう」


 やがてグラ=ヴァルドは指を鳴らした。ペン先の赤黒い光が一度揺れて、それから少しだけ沈む。


「紙に誠実、皮膚に優しさ。両立してみせよう。ただし、誠実が薄すぎれば、契約美術はただの記念文具に落ちる。それは許さぬ」


「落としません」


 勇輝はすぐに返した。


「紙に残る強さと、人に残る不安は違います。その違いを、今日はちゃんと分けたいんです」


◆広場脇・臨時調整テーブル(怒りや不安を、ひとつずつ“手順”へ変えていくと、空気は少しずつ落ち着く)


 そこからの作業は、芸術イベントというより臨時の製版所だった。


 署名台の横に透明保護板を立て、パンフの差し込み位置を固定する。ペンは、魔界の補助員と観光課の職員、美月が並んで試し書きをしながら、紙への吸い込みが強く、皮膚への移りが少ない配合へ調整していく。乾燥台には小さな立札を立て、『物語定着中』と書く。字面は魔界寄りだが、役割としては完全に乾燥工程の見える化だ。


 さらに、広場の隅へ相談とケアのブースが設けられた。そこには交換用の新品パンフ、手の拭き取り手順の案内、低刺激の洗浄剤、保護クリーム、皮膚科相談先の一覧が並べられる。役所の対応としては地味だ。だが、この地味さがなければ、人の不安はどこにも着地しない。


 加奈はそのブースで、最初に来た親子へ声をかけていた。


「完全にすぐ消えるって約束はまだできないんだけど、今日のうちに目立ち方をかなり抑えることはできそう。あと、これから書く人には、前みたいに手へ残りにくい形へ変えてるから、そこもちゃんと直していくね」


 母親は保護クリームを受け取りながら、ようやく少しだけ笑った。


「“今困ってる人の分”と、“これから困る人を増やさない分”を両方やってくれてるのが分かると、だいぶ違います」


「そこ、いちばん大事にしてます」


 勇輝が横から言う。


「今の困りごとだけ見ても足りないし、これから先だけ見ても置いていかれますから」


 美月は、その様子を見ながら広報をさらに整えていた。


『署名パンフのインクが落ちにくい件:現地・市役所で交換と相談を実施中』

『仕様が強すぎたため調整しています』

『手についた方へケア案内あり/今後の署名方法は変更済み』


 言い切りすぎると角が立つ。曖昧すぎると不安が広がる。その真ん中を、彼女は短い文で取っていく。


 相談に来る人の顔もさまざまだった。会社帰りの服に似合わない赤黒い指先を見せる男性。子どもの制服の袖へ少し色が移ったと言って不安がる母親。むしろ「残るなら思い出になっていい」と笑う若者もいたが、その横で「私はそうは思えない」と小さく言う人もいる。その差を、一つの気分でまとめないことが、今日の窓口の仕事だった。


 ある年配の女性は、交換ブースの前で少しためらってから、こう言った。


「怒ってるわけじゃないのよ。ただ、洗っても消えないと、自分の体が自分のものじゃなくなったみたいで、ちょっと嫌だったの。大げさかもしれないけど」


「大げさじゃありません」


 勇輝は首を横に振った。


「自分で選んだはずのものが、自分の生活の速度より長く残ると、誰だって違和感が出ます。そういう違和感のために交換窓口を置いているので、遠慮なく使ってください」


 女性はその言葉にほっとしたようだった。“大げさじゃない”と先に言われるだけで、人はだいぶ自分を責めずに済む。


 役所の仕事は、時々そういう地味な一言に支えられている。


◆昼過ぎ・温泉通りの石鹸店と薬局(落とすことは、否定ではなく、安心して持ち帰るための手当てになる)


 現地の運用が回り始めたところで、勇輝はもう一つ気になっていた部分へ手を伸ばした。窓口で説明と交換を用意しても、「じゃあ、どうやって今日の手を落ち着かせればいいのか」が弱いままだと、人の不安は家へ帰るまで続いてしまう。役所だけで洗浄剤を並べても限界はある。だったら、町の中に元々ある“手を整える知恵”へ借りる方が早い。


 温泉郷の裏手に、小さな石鹸店がある。湯花と薬草を使った手作り石鹸で、観光客にも地元の人にもそこそこ名前が通っている店だ。隣には、昔からある薬局があり、温泉街の軽い湯あたりや切り傷、靴擦れの相談ならたいていまずそこへ持ち込まれる。その二軒へ、勇輝と加奈、美月が揃って顔を出した。


 石鹸店の女主人は、事情を聞くなり、美月の指先をじっと見てから言った。


「これ、汚れとして浮かせるより、“皮膚の表面へ乗った色だけをやわらかくほぐして、無理にこすらない”方がいいね。強く擦ると、色より先に手が荒れる。荒れた手は、そのあと何日も気になるから」


 隣の薬局の店主も、保護剤の成分表を見ながら頷く。


「焦ってアルコールを何度も使う人がいるけど、あれは逆効果だ。乾燥すると赤黒さだけが余計に目立って見えることがある。安心させるつもりの手当てで、見た目がひどくなったら気持ちが落ちる」


 勇輝は二人の言葉を聞いて、やはり町の現場は生活へ近いぶん説明が具体だと思った。役所が「皮膚に強い刺激を与えないよう」と書くところを、彼らは「焦ってこすると、夕方の食器洗いまで嫌になる」と言える。そういう説明の方が、人にはずっと届く。


「今日、窓口と広場で配れるものを一緒に作れませんか」


 勇輝が率直に頼むと、石鹸店の女主人はすぐ腕をまくった。


「できるよ。石鹸そのものを配るんじゃなくて、湯花を少し入れた拭き取り布にしよう。香りは強すぎない方がいいね。『落とすための布』っていうより、『手をいたわる布』にした方が、使う方も気持ちが楽だ」


 薬局の店主も続ける。


「それと、説明文には“すぐ消えないことがあります”も正直に書いた方がいい。ただし、そのあとへ“多くは時間と共に薄れます”“気になる時は相談を”を続ける。楽観だけでも、脅しだけでもだめだ。人は、自分で見通しを持てる時に一番落ち着く」


 加奈はそのやり取りを聞きながら、嬉しそうに微笑んだ。


「こういうの、いいね。怖かった人に“ほら、町の方でもちゃんと受け止めてるよ”って伝わる。役所の窓口だけだと、どうしても制度の顔になるから」


「制度の顔も大事だけど、生活に戻る手ざわりが要るからね」


 石鹸店の女主人はそう言って、湯花と薄い油分を含ませた布を手早く試作し始めた。布そのものは白いが、封を開けるとごく淡い香りがして、冷たさより先に安心が手へ乗る感じがする。加奈が試しに自分の指先へ当ててみると、色が劇的に消えるわけではない。けれど、赤黒さの縁がやわらぎ、何より「どうしようもないものを抱えている」感じが少し薄くなる。


「うん、これ、いい」


 加奈は率直に言った。


「完全に落ちなくても、“手当てされてる感じ”があるだけで気持ちが全然違う。今の人たちに必要なの、たぶんそこだと思う」


 美月も試しながら頷く。


「写真で見ると、赤の圧が少し弱くなります。SNSの不安にも効きそう。“もうどうにもならない感じ”が抜けるので」


 その場で、『手をいたわる布』と簡単な説明札が作られた。説明は硬すぎず、軽すぎず、『強くこすらず、やさしく拭いてください』『気になる時は窓口へ』『時間と共に薄れることがあります』という三本柱に絞られる。役所と店と薬局が一緒に作ると、文章まで町の速度に合ってくるのが不思議だった。


◆午後・署名イベント再開後の広場(直したあとの空気を見届けないと、本当に直ったかどうかは分からない)


 改良版の署名台が動き始めてから一時間ほど経つと、広場の空気は午前中とはかなり違っていた。


 昨日までのように、書いたあとすぐパンフを抱えてはしゃぐ姿は少し減った。その代わり、乾燥台の前で紋様が出るのを眺める人や、説明札を読んでから「じゃあ私は見るだけにする」と選ぶ人が自然に混ざっている。参加する人としない人の温度差が、前みたいに不自然ではない。そこが大きかった。


 ある若い会社員風の男性は、相談ブースで手をいたわる布を受け取りながら、少し苦笑していた。


「正直、朝はかなり腹が立ってたんです。こっちは旅行のテンションで書いただけなのに、翌朝いきなり生活へ持ち込まれるのは違うだろうって。でも、ここまで説明と対処が揃ってるなら、“無かったことにしろ”とまでは思わなくなりました。面白かったのも事実なので」


 勇輝はその言葉を丁寧に受け取った。


「ありがとうございます。そう言ってもらえるなら助かります。こっちも、面白さそのものを消したいわけじゃないんです。ただ、生活へ入り込みすぎる分だけは引き直したかったので」


「その違い、今日来てようやく分かりました。怒る前に相談机が見えたのが、たぶん大きかったです」


 別のところでは、観光で来た大学生三人組が、説明札を見ながらわいわい話していた。


「“法的契約ではありません”って、わざわざ書いてあるの逆に面白い」


「でも書いてないと、怖い人は怖いよね。私はたぶん書くけど」


「私は見るだけでいいかな。こうやって選べるなら、それで十分楽しい」


 その会話を聞いて、美月が小さく言った。


「“全員参加が前提じゃない”って空気ができると、イベントってだいぶ健全になるんですね」


「同調圧力が一段下がるからね」


 加奈が答える。


「楽しい場所って、放っておくと“みんなやってるから”が強くなりがちだけど、やらない選択がちゃんと見えるだけで息がしやすくなる」


 さらに、手をいたわる布の存在も効いていた。広場の片隅で、若い母親が子どもの指をそっと拭きながら、「落とすというより、落ち着くね」と笑っている。その笑い方は、朝の不安そうな顔とは別物だった。完全解決ではない。けれど、“もうどうしようもない”から“一応やることはある”へ変わるだけで、人の表情はかなり違ってくる。


 グラ=ヴァルドも、最初こそその布を半信半疑で眺めていたが、実際に広場の空気が持ち直していくと、さすがに理解したらしい。


「地上の者は、痕跡そのものより、“痕跡に対してどう接してもらえるか”で安心するのだな」


「たぶん、そうです」


 勇輝は答えた。


「残ること自体を完全に嫌うわけじゃない人もいます。でも、残った時に『相談できる』『手入れできる』『交換できる』が見えているかどうかで、印象が真逆になります」


「ふむ。魔界では、残ればそれで誠意が証明されると考えがちだ。だが地上では、残ったあとへも礼儀がいるわけか」


「礼儀って言い方、すごく近いと思います」


 加奈が微笑んだ。


「相手が困った時に“好きで書いたんだから我慢して”じゃなくて、“困ったなら一緒に整えよう”って言えるの、かなり大事だから」


 グラ=ヴァルドは、その言葉には本気で納得したようだった。芸術家としての矜持は強いが、相手の感情を完全に無視したいわけではない。その余地がある限り、まだ町は付き合っていける。


◆午後・市役所側の窓口(“どうすればいいか分からない”を先に片づけるだけで、怒りはかなり軽くなる)


 広場の運用変更と並行して、市役所の臨時窓口も本格的に回り始めていた。


 窓口の札は『署名パンフ対応』と大きく出され、交換希望、手のケア相談、体調不安、問い合わせの四本に列が分かれている。分かれているだけで、ロビーのざわつきは朝とは見違えるほど落ち着く。人は、自分がどこへ並べばいいか分かるだけで、かなり安心する。


 生活相談の職員は説明文を統一し、消費生活センターは「不安になった経路」を整理し、保健師は皮膚への刺激がないかを確認しつつ、必要なら医療機関の案内をする。観光課は交換パンフの在庫を確保し、回収分には番号札と預かり証を付ける。魔界の品は“勝手に戻る”とか“夜中に文面が変わる”とか、普通の紙では考えなくていいことまでありえるので、保管箱は封印仕様の箱へまとめて入れた。


 そこまでやって、ようやく対応が“その場しのぎ”から“運用”へ変わる。


 市長が夕方前に窓口を見に来た時、ロビーの空気はもう朝ほど刺立っていなかった。疲れている人はいる。染みが完全に消えたわけでもない。けれど、“今のところ自分は何をすればいいか分からない”状態の人はかなり減っている。


「列、短くなったな」


 市長が言うと、勇輝は頷いた。


「困りごとそのものが消えたわけじゃないです。でも、怒りとか不安って、“どうすればいいか分からない時間”が長いほど膨らむので。そこを先に削れれば、だいぶ違います」


「観光の問題が、完全に生活相談になったな」


「最初からそうでした」


 勇輝は少しだけ笑った。


「手に残る時点で、もう“イベントどうでしたか”じゃなくて、“明日どう過ごせますか”の話なので」


 市長はその言葉を聞いて、真面目な顔で窓口を見回した。


「地上だと、誠実って“消えないこと”だけじゃないんだな。消えてほしいところからは、ちゃんと引いてくれることも含めて誠実なんだろう」


「たぶん、そうです。残る場所を選べることも信用なんだと思います」


 その会話のあと、回収箱の整理をしていた職員が、美月を呼んだ。声の調子が、嫌な予感というより、妙に現実的な面倒を見つけた時のそれだった。


「美月さん、この回収分なんですけど……」


「どうしました?」


「今朝預かった時と、書いてある条項が少し違います。整理番号は同じです。箱から出したあと、別の紙にすり替わった感じはありません。でも、文章だけが変わってる」


 美月は一冊を開き、もう一冊と見比べる。たしかに違う。午前中に預かった時には『第十八条 ご当地ソフトを美味いと言ってしまう宿命を負う』だったものが、今見ると『第十八条 ご当地ソフトを勧めた者の情熱を無下にしないこと』へ変わっている。意味合いは少し丸いが、変更された事実そのものが面倒だ。


 彼女はすぐ勇輝を呼んだ。


「主任、これ……条項、毎朝じゃなくて、保管中にも少し動いてるかもしれません」


 勇輝はページをめくり、預かり証の控えと照合し、それから静かに息を吐いた。怒る案件ではない。手間の案件だ。そして、手間は増え方を間違えると、町全体の説明が毎回初回に戻る。


「なるほど。今度は“消えないインク”の次に、“消えないはずなのに文面は落ち着かない”が来るわけか」


 加奈が、そのページを覗き込みながら小さく言う。


「紙に残るのは誠実でも、文面が毎回揺れると、持ってる人はずっと落ち着かないよね。しかも、昨日説明したことが今日の紙には通じないなら、相談のたびに最初からになる」


「そうなんです」


 美月が頷く。


「主任、これ、窓口側の説明が毎日初回になると持たないです。固定版を作らないと」


◆夕方・封印箱の前(落ち着いたあとの細かい異変ほど、明日の仕事を静かに増やす)


 勇輝は回収箱の蓋を閉め、しばらく箱の上へ手を置いた。今日一日で、“消えないのが優しさとは限らない”ということは、かなり町の側へ馴染んだ。だが、魔界の契約美術は、どうやら“残る”ことと“揺らがない”ことを同じにしていないらしい。そこを次に切り分けなければ、また説明が生活の後ろから追いかける形になる。


 それでも、少なくとも今日の窓口は回っている。困っている人の列は朝より短く、広場の空気も朝ほどぎこちなくない。そのことだけは確かだった。


「毎日初回説明になるのは、きついな」


 勇輝の言葉は、疲れたというより、計算の顔に近かった。


「窓口で一番消耗するの、怒鳴られることより、“昨日まで通じた説明が今日は半分だけズレる”ことだから。しかも相手が魔界の芸術だと、完全に壊れてるんじゃなくて、妙に理屈の通る方向へ変わる分、説明が余計に難しい」


 加奈は、箱の縁を見ながら静かに言う。


「でも、変わる理由は分かる気がする。向こうなりに“もっと納得しやすくしよう”として、紙の方が勝手に調整してるんだよね。善意の自動運転って、一番止めづらい」


「ほんとにそう」


 美月も肩を落とした。


「悪意で改ざんしてるなら止め方も見えるんですけど、これ、たぶん“より親切にしよう”として丸くなってる。だから否定すると、“何が悪いの”って顔されるやつです」


 その時、封印箱の中から、ごく小さく紙の擦れる音がした。三人とも反射で箱を見る。勝手に開いたわけではない。飛び出してきたわけでもない。ただ、中で紙がわずかに位置を変えたような音だった。


 加奈が、思わず肩をすくめる。


「今のは、聞かなかったことにできるかな」


「できればしたいですけど、たぶん明日の自分が困ります」


 美月が真顔で返し、勇輝も同じ顔で頷いた。


「うん。今日はここまでで十分働いたけど、明日は“消えないインク”じゃなく、“消えないはずなのに落ち着かない契約文”を止める仕事になるな」


 箱の中は静かだ。けれど、その静けさがもう普通の静けさではないことは、三人とも分かっていた。


 それでも、少なくとも今日の赤い手の列は、朝よりずっと落ち着いた。紙に振り回される一日はまだ続くらしいが、人の不安へ先に椅子を用意できたなら、それだけで町はかなり助かる。


 面倒の種類が変わるたびに、受け止める手順も変わる。その繰り返しが、ひまわり市の異界対応を少しずつ上手くしているのだと、勇輝は封印箱を見ながら思った。


 市役所の夕方は、朝より少し音が増える。閉庁前の問い合わせ、コピー機の最後の唸り、窓口札を引き上げる音、誰かが明日のための付箋を貼る指先の乾いた気配。その日も、ロビーにはまだ少しインクの匂いが残っていた。けれど朝のようなざわつきではなく、ちゃんと今日の仕事として扱われたあとの匂いだった。


 ひまわり市はまた一つ、異界の“善意の強さ”を、そのまま人へ押しつけないための手つきを増やした。


 残ることが誠実でも、残り方まで相手の生活へ勝手に入ってしまえば、それはもう優しさではない。どこへ残すのか、どこからは引くのか、その線を引き直すことの方が、たぶん地上ではずっと信用に近い。


 今日一日でそこまで辿り着けたのなら、窓口に並んだ手の赤さも、少しは報われる気がした。

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