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異界に浮かぶ町、ひまわり市 ー転移した山奥のまち、異世界対応中!ー  作者: ひまわり あおい


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1180/2120

第1180話「余白が主役の展示会:写真に写る“空きスペース”が増える日」

◆朝の庁舎が静かすぎる時は、だいたい紙か電話のどちらかが面倒を連れてくる


 朝のひまわり市役所は、わりと平和だった。


 窓口の列は短い。電話も少ない。廊下を急ぐ足音も少なく、コピー機の稼働音までのんびりしている。こういう朝は、働く側の身体が先に戸惑う。役所という場所は、ほどよく雑音があって初めて「今日も回っている」と感じられるところがあるから、静かすぎる朝は、むしろ何かがまだ表へ出てきていないだけじゃないかと疑いたくなる。


 そういう嫌な勘は、経験を積むほど当たりやすくなる。


 受話器を肩で挟んだ美月が、机の向こうから顔だけを上げた。口元が笑っていない。声を落としているのに、面倒の温度だけはちゃんと伝わってくる。


「観光案内所からです。『展示の写真が、心霊写真みたいになって問い合わせが止まらない』って。広聴にも同じ件で二本入ってます。あと、観光課から担当がこっちへ走ってきてるみたいです」


 説明が終わるより先に、廊下の向こうで足音が近づいてきた。慌てているのに、庁舎の中だから全力疾走はしていない、その中途半端な速さの足音だ。扉が開き、観光課の若い担当が半泣きの顔で飛び込んでくる。


「写真です! 展示の写真に“空いてるはずのない空間”が写るんです! 市民から苦情も来てますし、観光客からも“ここ本当に入って大丈夫ですか”って。あと、SNSで“余白が怖い”ってハッシュタグまで……」


 勇輝は机の前の椅子を引きながら、まず息を整えさせるように言った。


「一回落ち着いて、順番に。何の展示で、どう写って、誰が困ってる?」


「温泉郷の特設ギャラリーです。幽界省との交流展示で、“余白の芸術”って企画で……写真を撮ると、作品の横に“空いてるはずのない空間”が増えるんです」


「余白って、空いてる部分?」


 加奈が紙袋を机へ置きながら首を傾げる。


「そうです。何もないんですけど、何もなさすぎるというか、そこだけ光の密度が違うというか。人によっては“何かがいる形”に見えるらしくて」


「人間の脳、意味を探すの得意だからなあ」


 勇輝が言うと、美月が端末を差し出した。


 画面には、昨日始まったばかりの企画展の投稿が並んでいる。写真自体は綺麗だ。作品も、照明も、立っている人の輪郭も、全部ちゃんと写っている。なのに、作品の横や奥の一角だけ、妙に丁寧に掃き清められたみたいな“きれいすぎる空き”がある。ノイズも少なく、陰影も薄く、まるでそこへ別の紙をそっと貼って余白だけ差し替えたような、不自然な整い方だ。


「これ、肉眼だとどう見える?」


 勇輝が尋ねる。


「現地の報告だと、肉眼では“少し落ち着く”“なんとなく静か”くらいです。スマホ越しになると急に余白がはっきりするらしいです」


 美月は別の投稿を開いた。


「こっちは“余白の中に顔がある気がする”ってコメント。たぶん、ないです。でも、探し始める人が出てます」


「最悪の方向だな」


 そこへ市長が、妙に上機嫌な顔で入ってきた。こういう時に限って顔色がいい。


「心霊写真って聞いたぞ!」


「聞いた瞬間に来ないでください」


 勇輝は反射で言い、それからすぐ言い直す。


「来てくれて助かりますが、まず“何が起きてるか”からです」


 市長は端末を覗き込んだ。意外なことに、第一声は大げさではなかった。


「……たしかに、空きすぎだな。写真なのに“余計に綺麗”」


「綺麗が怖いって、あんまり聞かないですけどね」


 加奈が苦笑すると、観光課の担当が小さく付け足す。


「地元紙のカメラマンからも連絡来てます。今日の夕方までに広報用の写真を押さえたいのに、“このままだと作品の周りが抜けすぎて紙面で使いにくい”って」


「それは困る」


 勇輝はそこで、苦情だけではなく実務の方も本格的にまずいと理解した。観光客が怖がるだけなら、見方の問題として整理できる。だが、公式記録写真や広報素材が成立しないとなると、イベント運営そのものへ響く。


「主催は幽界省?」


「はい。“余白の芸術”がテーマだそうです」


「余白がテーマの展示で、余白のせいで実務が止まるの、筋が通りすぎてて嫌だな」


 美月が言い、加奈が「そういう嫌さあるね」と頷いた。


 勇輝は立ち上がった。


「現場見ます。写真の怖さだけじゃなくて、“撮る側の目的”まで切らないと対策がぶれる」


「案内所の問い合わせも、いったんこっちで預かっておきます」


 美月が言う。


「ただ、会場の説明が固まる前に断言はしません。“確認中”で流します」


「それでいい。否定を急ぐと、逆に“隠してる”ってなる」


 そう言って、勇輝たちは温泉郷の特設ギャラリーへ向かった。


◆展示室へ入ると、冷房より先に“静けさの温度”が肌へ触れた


 温泉郷の特設ギャラリーは、もともと小さな貸し展示室だった。木の床と白い壁、天井は高くないが照明の位置が素直で、作品の色を邪魔しない。写真展にも、工芸にも、湯治客向けの小さな企画にも使いやすい。その“使いやすさ”が、この町ではだいたい危険の入り口でもある。異界側の表現は、使いやすい箱へ入ると、なぜか箱の方まで自分たちの理屈に染めてしまう。


 入口をくぐった瞬間、空気が少しだけ冷たかった。冷房の温度設定というより、静けさそのものに温度がある感じだ。話し声を落とさせる種類の静けさで、実際、観客たちはみんな小さな声でしか喋っていない。作品は、写真と書が中心だった。どれも余白を多く取っていて、説明文は短い。短すぎると言ってもいい。


 美月が最初の説明札を読み上げる。


「『余白は、ここに居る』……居るって、何が」


「その時点で勝負を挑んでる説明だな」


 勇輝は言った。


「読む側へ“解釈してね”って投げてる」


 加奈は作品の前で一度息を吸ってから、そっと吐いた。


「でも、なんか……嫌じゃないんだよね。落ち着く感じはある」


「落ち着くのに苦情が来るって、相当だな」


 勇輝は周囲を見回す。


 そこには、同じ流れが何度も繰り返されていた。作品を見る。少し静かになる。スマホを構える。撮る。画面を見る。そこで初めて表情が変わる。隣の人へ見せる。ざわつく。説明札へ戻る。もう一枚撮る。余白はやはり増える。そんな一連の動きだ。


 会場スタッフが、同じ説明を何度もしていた。


「肉眼では普通に見えます」

「撮影時の見え方が変わる展示です」

「故障ではありません」


 だが、その三つでは足りないのだろう。“故障ではない”の次に“では何なのか”が欲しいから、人は何度も聞く。


 そこへ、幽界省の担当者が現れた。服装はきっちり、姿勢もきっちり、声もきっちりしている。きっちりしすぎて、逆に温度が薄い。


「ひまわり市のみなさま。ご足労、感謝いたします」


 丁寧なのに、空気が少し凍る言い方だった。


「こちらこそ」


 勇輝は挨拶を返して、すぐ本題へ入る。


「撮影すると余白が増える件、把握されていますか」


「把握しております」


 幽界省担当は一切動じずに頷いた。


「仕様です」


「仕様で苦情が来てます」


 勇輝が言うと、市長が横で「仕様なら安心だな!」と言いかけて、加奈に足を軽く踏まれて黙った。今日はそのくらいでちょうどいい。


 幽界省担当は淡々と続けた。


「余白は、幽界の“鑑賞者のための席”です。あなた方の世界は“写っているもの”を主役にします。我々は“写らないもの”にも席を用意する。撮影機器は、その席を真面目に拾う傾向があります」


「席」


 美月が繰り返す。


「つまり、空いてるんじゃなくて“誰かのために空けてる”」


「そうです」


「霊の席、みたいに見えるんですけど」


「霊ではありません」


 担当はそこだけ少し強く言った。


「幽界省としては、“霊と芸術の誤同一視”は不本意です」


 加奈が思わず言う。


「え、幽界省さんも困ってる?」


 担当は小さく頷いた。


「我々は行政です。誤解は、業務を増やします」


「そこだけ、すごく分かり合えるな」


 勇輝は内心で思った。


 だが、親近感で問題は片付かない。会場の奥では、地元紙のカメラマンが頭を抱えていた。広報パンフ用の写真を撮りたいのに、作品の横へ“抜け”が入りすぎて紙面で使いにくいらしい。さらに、市の記録班も困っていた。記録写真は作品を正確に残す必要があるのに、余白が勝手に主張してくると、後から「どこまでが作品の範囲か」が曖昧になる。


 つまり、困っているのは怖がる観光客だけではない。

 怖がらない人間まで困っている。

 ここが、対策を単なる風評防止では終わらせられない理由だった。


◆試しに撮ると、余白は“独り占めしようとした画角”ほど大きく育った


 勇輝はそこで、説明を聞くだけで終わらせないことにした。肉眼と写真で差が出るなら、条件を切らないといけない。いつ増えるのか、どんな意図で撮ると育つのか、それが分かれば“怖いからやめよう”以外の対策が作れる。


「実験させてください」


 勇輝が言うと、幽界省担当はすぐ頷いた。


「どうぞ」


 美月は端末を構え、加奈は作品札を外さない位置へ立つ。市長は「実験って響き、いいな」と言いかけたが、今日は視線で止められて黙った。


 一枚目。作品だけを画面いっぱいに入れる。

 撮る。確認する。

 余白が増える。作品の横に、きれいな空きが広がる。


 二枚目。少し引いて、人の肩を入れる。

 撮る。確認する。

 余白はあるが、さっきより薄い。


 三枚目。説明札も一緒に入れる。

 撮る。確認する。

 余白は残るが、“作品の横の席”として理解しやすい形になる。


 四枚目。加奈に作品の手前へ立ってもらい、見る人の視線が存在する構図にする。

 撮る。確認する。

 余白はかなりおとなしい。


「……なるほど」


 美月が画面を見比べる。


「作品だけを“独り占めしようとする画角”ほど、余白が増える」


「独り占め、ですか」


 幽界省担当が少しだけ満足そうに言う。


「良い表現です」


「良くはないです。撮る側としてはかなり困る」


 勇輝が返すと、担当はごくわずかに口元を緩めた。たぶん、これがこの人なりの笑いだ。


 さらに試す。縦位置、横位置、広角、ズーム、照明の角度、人物の有無。結果はかなり一貫していた。

 “作品だけを正面から、きれいに切り取ろう”とするほど余白が増える。

 逆に、“作品と、その前にいる人、空間、説明、時間”を一緒に撮るほど、余白は席として静かになる。


「つまり、展示そのものが“空間ごと見ろ”って要求してるんですね」


 美月が言う。


「写真だけ奪っていくな、みたいな」


「奪うって言い方は好きじゃありません」


 幽界省担当が言い、少し間を置いてから付け足した。


「……ですが、近いです」


「なるほどな」


 勇輝は腕を組んだ。


「なら、対策は二つになる。展示の意図を守る鑑賞写真と、広報や記録のための実務写真。この二種類を最初から分ける」


 加奈がその整理に乗る。


「“こう撮ると余白が主役になります”“こう撮ると作品と一緒に記録できます”って、撮り方を案内するんだね」


「そう。見方と撮り方を、一回切る」


 勇輝が頷いた。


◆会議・否定しない、喧嘩しない、でも使える写真は確保する


 その日の午後、会場の隅で臨時の連絡会議が開かれた。

 観光課、広聴、広報、案内所、記録班、地元紙のカメラマン、そして幽界省担当。顔ぶれだけ見ると大げさだが、この件はもう“ちょっと変な展示でした”で済む段階を越えていた。


 勇輝はホワイトボードを借りて、最初に大きく二つ書いた。


「否定ではなく説明」

「撮り方を分ける」


「今夜中に出すものは四つです」


 勇輝は指を折った。


「一つ目、SNS用の短い説明文。二つ目、案内所と会場向けのFAQ。三つ目、現地のミニガイドツアー。四つ目、“写真の撮り方”そのものの案内」


 美月が即座に言う。


「SNSは短く、でも断言しすぎない。“心霊ではありません”だけだと喧嘩になるので、“幽界の芸術表現で、撮影時に見え方が変わることがあります”まで入れます」


「怖いと感じた人の感覚を否定しないでね」


 加奈が補う。


「“怖いと思った方はスタッフに声をかけて”ってあると、受け止めてもらえた感じがする」


「いい」


 勇輝が頷く。


 地元紙のカメラマンが手を挙げた。


「広報写真はどうしましょう。紙面で使う写真が欲しいんです。作品の横に余白が広がると、情報面では扱いづらい」


「専用の撮影位置を作ります」


 勇輝は答えた。


「“記録撮影ポイント”を設定して、そこからなら作品名札と展示全体の関係が一緒に入るようにする。作品単体を抜きすぎない」


 美月がすぐ図面へ起こした。


「床に印をつけます。ここから撮ると、余白が“席”として落ち着く位置」


「それ、助かります」


 カメラマンが心底ほっとした顔をした。


 案内所向けのFAQは、加奈が中心になって言い換えた。


「“心霊現象ですか?”には、“心霊ではなく、幽界の余白表現です。撮影で見え方が変わることがあります”」

「“怖くても見て大丈夫ですか?”には、“体調が悪くなるほど不安なら無理をせず、スタッフへ。短いガイドもあります”」


「“写真が下手になったんですか?”って聞かれたら?」


 美月が冗談めかして言うと、加奈は少し考えて笑った。


「“下手ではありません。撮り方によって、余白が主役になる展示です”かな」


「喧嘩にならなくていいですね」


 勇輝が言う。


 幽界省担当はその会話を静かに聞いていたが、そこで一つ提案した。


「我々からも、“余白を見るための短い言葉”を提供できます」


「つまり、解説文?」


 勇輝が聞くと、担当は頷く。


「長い説明は逆効果です。三行で十分です」


「三行、好きです」


 美月が言う。


「多いと読まれないので」


「好きで短くしてるわけじゃありません」


 勇輝が返し、会場の空気が少しだけほどけた。


◆現場・“余白の見方”を教えるガイドツアーが、怖さの置き場所を変えていく


 夕方から、十分間のミニガイドツアーが始まった。

 最初は勇輝が前に立ち、その横へ幽界省担当、少し後ろに加奈と美月がつく。人数が多すぎると威圧感が出るので、ガイドはあくまで小さく、声も低めにした。


「この展示は、写っている作品だけでなく、写らない“席”も一緒に見せる展示です」


 勇輝がそう言うと、参加者の顔が少しだけ引き締まる。説明があるだけで、人は構え方を変えられる。


 次に幽界省担当が、短く続ける。


「余白は、何かの痕跡ではありません。見る人が、作品の前で立ち止まるための静かな席です」


 言葉は難しくない。難しくないのに、ちゃんと展示の側へ引っ張る説明だった。


 加奈は、その後で視線の置き方を案内した。


「作品だけを追いかけずに、少し引いて、説明札や周りの空気も見てみてください。写真を撮る時も、“作品だけ持ち帰る”じゃなくて、“ここに居た時間ごと撮る”と思うと、余白の見え方が変わります」


 実際にやってみると、反応はかなり違った。

 ガイドの前は、余白を見て“何かいる?”とざわついていた人が、ガイドの後は“席ってこういう意味か”と納得していく。怖さが消えるわけではない。だが、“名前のない怖さ”から“説明の付いた不思議さ”へ変わる。その違いは大きい。


 美月は、ツアーの最後に“記録撮影ポイント”を示した。


「記録や広報用に撮る方は、この印の上からお願いします。作品だけでなく、展示全体の意図が一緒に入る位置です」


 地元紙のカメラマンが試しにそこから撮り、画面を見て頷いた。


「これなら使えます。余白が“事故”じゃなくて、“展示の一部”として入る」


「そこを作りたかったんです」


 勇輝が答えると、カメラマンは素直に頭を下げた。


「助かります。こっちも、“変だった”で終わらせたくないので」


 ツアーは一回目より二回目、二回目より三回目の方が、会場の空気を落ち着かせた。最初は“怖いらしいから見てみたい”で来ていた人が、後半には“余白ってこういう見方なんだ”と誰かへ説明し始める。人が人へ説明し始めると、風評は少しずつ別の名前へ変わる。


 夜の早い時間には、ハッシュタグの流れも変わっていた。

『余白が怖い』の代わりに、

『余白に座る感じが分かった』

『写真の撮り方で印象が変わるの面白い』

『ガイド聞いてから撮ると、怖いより静かだった』

 そんな投稿が増えている。


 市長はそれを見て、満足そうに言った。


「怖いを、観光に変えたな」


「変えたんじゃないです」


 勇輝は疲れた笑いで返した。


「怖さを、説明で受け止めただけです」


「その受け止めが大事なんだろう?」


「それは、そうです」


 美月が代わりに頷いた。


◆夕方・“記録用の写真”を救わないと、展示が終わったあとに残るものまで曖昧になる


 ガイドツアーで会場の空気が少し落ち着いたところで、別の実務が顔を出した。広報用の写真、記録保存用の写真、そして後日作る報告書の添付画像だ。展示は会期中だけそこにある。だから終わったあとに何が残るかといえば、案内文と写真しかない。その写真が全部“余白が増えた不思議な画像”になってしまうと、後から振り返る側が困る。


 地元紙のカメラマンだけでなく、市の記録班もそこを心配していた。


「今のままだと、作品そのものの寸法感が残りにくいんです」


 記録班の職員が言う。


「展示記録って、雰囲気を残す写真と、配置や大きさが分かる写真の二種類が要るんですけど、後者に余白が強く出ると、“実物の周りにどれだけ空間があったか”の事実が少しずれる」


「展示の意図としての余白と、記録のための基準って、別ですもんね」


 加奈が言う。


「見に来た人には“席”として伝わる方がいいけど、あとで報告書を読む人には、“どこに何が掛かっていたか”も必要だし」


「その通りです」


 勇輝は頷いた。


「ここを混ぜると、展示も記録も両方中途半端になる」


 そこで、会場の隅へ簡易の“記録撮影台”が組まれた。大げさな台ではない。床に小さな印を置き、レンズの高さの目安を壁へ貼り、作品名札と壁の端が同時に入る位置を示すだけの、かなり地味な仕掛けだ。

 だが、その地味さが効いた。


 美月が試しにその印の上から撮る。

 広すぎない。近すぎない。作品の横の余白は残るが、“作品を食う余白”ではなく、“作品がそこへ置かれていることを示す余白”に落ち着く。

 地元紙のカメラマンも、別の作品で同じ位置から撮り、画面を見てほっと息をついた。


「これなら使えます。見た人が“なにか変な写真だ”で止まらずに、展示の意図まで読みやすい」


「そこへ落としたかった」


 勇輝が言うと、カメラマンは素直に笑った。


「こういう時、役所って作品を平らにしてくるのかと思ってましたけど、今日はちゃんと作品の癖を残したまま整えてるんですね」


「癖ごと残さないと、交流展示の意味がなくなるので」


 美月が答えた。


 さらに幽界省担当は、撮影台の横へ短い札を一枚置いた。


『記録は、姿を残すために』

『鑑賞は、席を感じるために』

『どちらも同じ展示の見方です』


 言葉は短いが、そこで初めて“撮り方が違っていい”という空気が会場へ定着した。

 今までは、うまく撮れないのは自分の腕の問題ではないかと不安になる人が多かった。だが、“撮り方に種類がある”と最初から示されると、人は失敗ではなく選択として受け取れる。

 その違いはかなり大きかった。


 勇輝はその札を見て、ようやく肩の力が少し抜けた。

 展示の意図を守る写真と、実務で使える写真。その二つを喧嘩させずに並べられたなら、この日の役所の仕事はかなり正しい方向へ進んでいる。


◆夕方の後半・案内所と広聴は、会場より一歩遅れて“空気の変化”を受け取る


 会場でガイドツアーが回り始め、記録撮影台も落ち着き出した頃、案内所と広聴へ入る電話の質も少しずつ変わっていった。

 最初は「心霊現象ですか」「危険ですか」「子どもが見ても大丈夫ですか」といった、不安がまっすぐ飛んでくる問い合わせばかりだった。ところが説明文とガイドツアーの情報が広がるにつれて、質問の中身が少し変わる。


『怖いのが苦手ですが、短時間なら見られますか』

『写真を撮るコツはありますか』

『余白が強く出る作品と、そうでもない作品の違いは何ですか』

『ガイドツアーの時間はいつですか』


「質問が、だいぶ人間らしくなってきました」


 観光案内所からの連絡を受けながら、美月が言う。


「怖いから行かない、じゃなくて、どう見ればいいかを聞いてきてる」


「理解しようとする方へ動いたんだな」


 勇輝が答えると、加奈も頷いた。


「“知らないから怖い”と、“分かった上でちょっと怖い”って、だいぶ違うもんね。後者なら、自分で距離を決められるから」


 広聴の職員からも、珍しく少し明るい声が返ってきた。


『さっきまで“何なんですかあれ”の一本調子でしたけど、今は“案内文を読んだんですが”って前置きが付き始めました。説明が通ってきてると思います』


 役所にとって、問い合わせの前置きが変わるのはかなり大きい。“なんとかしろ”から“読んだ上で聞きたい”へ移ると、こちらも会話として返せるからだ。


 加奈は、その流れを聞きながらぽつりと言った。


「会場で見方を案内して、案内所で言葉を受け止めて、広聴で最後に噛み砕く。こういうのって、結局、通り道がいるんだね」


「うん」


 勇輝は頷く。


「怖さそのものをなくすより、“怖い”がどこを通って説明になるかを作る方が早いんだと思う」


 市長は、その整理に妙に納得した顔をした。


「風評対策って、消すことじゃないんだな」


「消そうとすると、余計に増えます」


 美月が言う。


「今日は特に、“余白”がテーマですし。消したいと思った瞬間に負ける」


「その言い方、少し悔しいけど正しいな」


 勇輝は苦笑した。


◆夜の手前・“余白が主役”という題名そのものを、会場の外でも支えないと展示は持たない


 もう一つ、地味だが大きかったのは、題名の扱いだった。

 『余白が主役の展示会』という言葉は、分かりやすいようでいて、そのままだと誤解も招く。主役と聞くと、人はどうしても“作品より空白が大事なのか”“じゃあ撮った写真で余白が増えるのは当然か”という方へ一気に飛びやすい。題名は展示の顔だが、顔が強いほど誤読も強くなる。


 そこで勇輝は、会場入口のサブコピーを加えた。


『写るものだけでなく、立ち止まるための静かな席も味わう展示です』


 たった一文だが、これがかなり効いた。

 “余白が主役”だけを見た時の、抽象的で少し尖った印象が、その一文で少し生活の側へ寄る。主役、という強い語を、“立ち止まるための席”という具体へ受け渡せるようになるからだ。


 幽界省担当も、その修正にはすぐ同意した。


「題は変えたくありません」


「変えません」


 勇輝は答える。


「ただ、入口で足を止めた人が、そのまま崖の方へ行かないように、手すりは足します」


「手すり」


 担当は少し考え、それから頷いた。


「良い比喩です。幽界にも、崖の前には柵があります」


「役所はだいたい柵を作る仕事です」


 美月が真顔で言い、加奈が思わず笑った。


 そのサブコピーが出てから、会場前で写真だけ撮って帰りかけていた人の足が、少しだけ中へ向き直る場面も増えた。怖いもの見たさだけで寄った人が、説明の言葉をひとつ拾うと、それだけで視線の置き場が変わるのだ。展示って、案内文の一行でこんなに体温が変わるものなのかと、勇輝は少し驚いていた。


◆夜・閉館の少し前、余白は“怖がらせる空白”から“置き場のある静けさ”へ変わっていた


 最後のガイドツアーが終わる頃には、会場の空気は昼とはかなり違っていた。

 最初にざわつきを起こした“きれいすぎる空き”は、まだちゃんとそこにある。写真を撮れば相変わらず出る。けれど、その空きに対して人が置く言葉が変わった。

 “何かいる気がする”ではなく、“ここが席なんだ”

 “怖い”ではなく、“静かすぎて緊張する”

 “変な写真”ではなく、“余白が主役になる撮り方だった”

 たったそれだけの違いなのに、空気は見違えるほど落ち着いた。


 加奈は最後に展示室を一周してから、静かに言った。


「同じ展示なのに、見方が決まるだけで、こんなに人の顔って変わるんだね」


「決まるというより、“選べる”の方が近いかもしれない」


 勇輝が答える。


「怖いと思うことも、静かだと思うことも、そのままでいい。でも、その先にどう置くかの言葉があるだけで、人は自分で足を決められる」


「それ、案内所の矢印と似てる」


 美月が言った。


「選べる導線があると、迷いが減る。展示も同じなんですね」


 市長は、その整理がかなり気に入ったらしく、大きく頷いた。


「ひまわり市、最近ずっとそれだな。異界のものを止めるんじゃなくて、町の中で迷わない置き方に変える」


「置き方でだいぶ世界が変わりますから」


 勇輝はそう返した。


 会場の灯りが少しずつ落ちていく。余白の周りの静けさも、昼間よりやわらかい。最初に見た時の“意味のない怖さ”は、もうだいぶ薄れていた。代わりに残ったのは、“説明を受けた不思議”と、“まだ少しだけ分からないところがある面白さ”だった。


◆閉館後・余白が役に立つと分かった瞬間から、役所の頭の中では“どこまで許すか”が始まっていた


 閉館作業が始まったあとも、勇輝はすぐに帰れなかった。掲示板の周りへ勝手にできた読みやすい枠のことが、どうにも引っかかっていたからだ。

 会場の仕事を助ける現象は歓迎したい。けれど、“役に立ったから今後も自由にどうぞ”と言った瞬間、別の場所で別の余白が勝手に働き始める未来も見える。役に立つものほど、境界を決めないと増え方が荒くなる。壁画も、矢印も、音の瓶も、結局そこだった。


 幽界省担当は、帰り支度の途中で足を止めた勇輝の視線を追い、何を考えているかすぐに分かったらしい。


「公共掲示への応用を警戒していますか」


「かなり」


 勇輝は正直に答えた。


「今日は会場の掲示板だから助かりました。でもこれが、避難経路の矢印や、税の納期限の掲示や、病院の案内まで勝手に“読みやすく”し始めたら、誰がどこまで責任を持つのかが一気に曖昧になる」


 担当は少しだけ顎を引いた。


「理にかなっています」


「理にかなってるなら、たぶん次の会議で形にします」


 美月が即座に言う。


「“余白の公共利用は申請制”とか、“公的掲示への付与は担当課承認後”とか、そのへんですね」


「言葉の時点で重い」


 加奈が苦笑する。


「でも重くしないと、きれいなものってすぐ増えちゃうもんね」


「増えるのが早いんですよね、異界側の“良かれと思って”って」


 勇輝は額を押さえたくなるのをこらえつつ言った。


 そこで幽界省担当が、珍しく先回りして提案した。


「ならば、“余白の付与申請”を作りましょう」


「申請?」


 市長が聞き返すと、担当は静かに続ける。


「展示会場、案内掲示、注意喚起、静かな閲覧を要する文書。そのような場所に限り、余白を付与する。勝手に増やさない。増やしたい時は、地上の担当課へ申し出る」


「……それ、役所の人間みたいな提案ですね」


 美月が思わず言うと、担当は淡く頷いた。


「我々も行政です。誤解は、業務を増やします」


 その言い方に、会場のスタッフが思わず笑い、空気がふっと緩んだ。


 勇輝は、その場で小さなメモを取った。

 余白の公共利用。

 対象は展示・掲示・案内に限定。

 災害情報や法定掲示への無断付与は禁止。

 公開前に試写確認。

 説明札の同時設置。

 ――こうして書き始めると、結局いつも通り、異界の芸術は役所の新しい仕事へ姿を変える。

 けれど、それでいいのだと思えた。勝手に広がるまま放っておくより、置き場所を決めて残した方が、町の中ではずっと長く生きられる。


 加奈が帰り際、展示室の入口を振り返って言った。


「今日の展示、あとで思い出す時、“怖かった”より“説明を聞いて見方が変わった”で残る気がする」


「そうだといい」


 勇輝が答えると、美月も小さく頷いた。


「少なくとも、昼の“心霊写真っぽい”だけで終わらなかったのは大きいです。会場も、案内所も、広聴も、全部ちょっとずつ噛み合いました」


「怖さを消したんじゃなくて、置き場を作ったんだな」


 市長が言う。


「たぶん、そうです」


 勇輝はそう答え、最後にもう一度だけ掲示板の周りの余白を見た。

 空白は空白のままだ。何かが増えたわけでも、文字が派手になったわけでもない。

 でも、その空白があるだけで、人の目は落ち着いて文字を読める。

 異界の芸術は、派手なものばかりではない。静かに人の注意の置き方を変えるものもある。そのことを、今日はかなり身にしみて理解した。


 ひまわり市の夜は、今日も少しだけ異界寄りだった。

 けれど、その少しだけを“変なもの”で終わらせずに、“説明できる不思議”として残せたなら、役所としてはかなり良い一日だったのだと思える。


 役所の仕事は、だいたい紙で終わる。

 けれど、紙へ落とす前の一日がちゃんとあった案件だけが、あとで町の役に立つ。今日の余白も、きっとそうなる。怖がられて終わるのではなく、席として、枠として、読みやすさとして、少しずつ置き場所を増やしていく。その最初の置き方を間違えなかったことだけは、帰り道の足を少し軽くした。

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