第117話「多種族対応マニュアル、未完成」
マニュアル――それは、役所の命綱だ。
誰がやっても同じ対応。ミスを減らす。炎上を防ぐ。
つまり、“混乱の前に作るべきもの”。
ひまわり市役所は、それを知っている。
知っているけど――間に合わないことがある。
「主任……多種族対応マニュアル、まだ未完成です」
総務課の職員が、真顔で言った。
「未完成なのは知ってる。完成する日は来ない気がしてる」
「今日、住民説明会です」
「……最悪の組み合わせだな」
「しかも参加者、想定の三倍です」
「三倍!? なんでだよ!」
「“無料”って書いたからです」
「誰が書いた!!」
「……広報です」
「美月ぃぃ!!」
美月が胸を張る。
「無料は正義です!」
「正義が現場を殺す!」
加奈が心配そうに言った。
「マニュアルが未完成って、どの辺が?」
「“種族ごとの注意点”が穴だらけです。
エルフは大丈夫。ドワーフもまあ。
問題は……魔族と、ドラゴンと、スライムと、影の市街の人たち」
「主力が全部穴じゃねぇか!」
市長が通りかかり、さらっと言った。
「説明会は勢いだ」
「勢いで制度説明するな!」
説明会会場は、市役所の多目的ホール。
椅子が並び、前にはスクリーン。
入口には“受付”があり、資料が山積み。
そして壁には、貼り紙。
『本日の説明会:ひまわり市の暮らしルール(仮)』
(仮)って書くな!!
勇輝は心の中で叫んだ。
受付では、職員が資料を配っている。
だが、参加者の種類が多すぎる。
「こちら、配布資料です」
「読めぬ」
「……多言語版はこちら」
「我らは文字を使わぬ」
「……絵版はこちら」
「絵は侮辱だ」
「詰んだ!」
美月が小声で言った。
「課長、開始前にすでに炎上してます」
「開始前に鎮火しろ!」
加奈が、落ち着いた声で受付を手伝う。
「読むのが難しい人は、後で個別相談もできるよ」
「個別相談……」
「はい、順番にね」
加奈が言うと、列が少し落ち着く。
生活の声は強い。
いよいよ開始。
壇上に立つのは、市長。勇輝。美月(スライド担当)。
そして総務課(司会)。
司会が言った。
「本日は、ひまわり市での生活ルールについてご説明します。
“ごみ”“防災”“窓口手続き”“交通”など――」
スライドが出る。
① ごみ分別(スライムは容器)
② 夜間静穏(ドラゴンは小鳴き)
③ 住所(区域コード+補足)
④ 情報公開(表情は対象外)
「情報公開のスライドに“表情は対象外”って書くな!」
美月が小声で言う。
「書いとかないと増殖するんで」
「それはそう!」
説明は順調……に見えた。
だが、質疑応答で地獄が始まる。
魔族の住民が立ち上がる。
「窓口時間が短い。
我らは夜に活動する者もいる。
昼の開庁だけでは不公平だ」
「来た……夜行性問題」
ドワーフが立つ。
「工房の騒音は“生活音”か?
鍛冶は生業だ」
「騒音問題二周目!」
エルフが静かに言う。
「景観条例は森にも適用されるのか?」
「景観問題も来た!」
そして――スライムがぷるんと前に出た。
『ぷる(ゴミ袋、ない)』
「容器を使ってください! 次のページです!」
会場がざわつく。
質問が同時に飛ぶ。翻訳が追いつかない。
職員の額に汗が浮かぶ。
総務課が小声で言った。
「主任……マニュアル……どこ……」
「未完成だからない!」
勇輝は、一度“説明会の目的”に戻した。
「皆さん、今日は“全部を決める場”ではありません。
まずは“困ったときの窓口”と、“最低限の共通ルール”を共有する場です」
ざわつきが少し落ちる。
“全部決める”と思うと不満が爆発する。
“順番に決める”なら、人は耐えられる。
加奈が、客席側から補足する。
「困ったことがあったら、まず相談してね。
今日聞けなかった人も、ちゃんと順番に話を聞くから」
「そう。順番だ」
美月がスライドを切り替えた。
そして出したのは――
『多種族対応マニュアル(未完成)』
(穴:魔族/ドラゴン/影の市街/夜行性/呪い系/契約文化)
「穴を見せるな!!」
「正直が一番燃えにくいです!」
「理屈は分かるけど心が死ぬ!」
勇輝は、逆に“未完成”を武器にした。
「マニュアルは、皆さんと一緒に完成させます。
今日出た質問は全部記録し、次回までに“追記版”を出します。
そして、種族ごとに“代表者相談会”も作ります」
魔族が言う。
「代表者相談会……?
我らの意見は反映されるのか?」
「反映されます。
ただし、他の住民の生活も守る。
そのために調整が必要です」
ドワーフが頷く。
「調整は良い。
ルールがある方が作業できる」
「助かる」
エルフも頷いた。
「森も共に暮らす。
話し合いは必要だ」
会場の空気が、少しだけ“会議”になる。
怒号から、議論へ。
これだけでも前進だ。
終了後。
役所の廊下は、個別相談の列で埋まった。
「課長……個別相談、地獄です」
美月が青い顔で言う。
「無料って書いたの誰だっけ?」
加奈が苦笑する。
「でも、来てくれたのは良いことだよ。
不満があるって、住む気があるってことだもん」
「そうだな……住む気があるなら、行政も応えるしかない」
総務課職員が、ボロボロのメモを差し出す。
「主任、今日の質問一覧です……
マニュアルの追記、これ全部……」
「全部やる。
やらないと次回の説明会が爆発する」
市長が満足げに言った。
「未完成でも前に進む。これが行政だ」
「行政は未完成を誇らないでください!」
夜。
勇輝は机に戻り、メモを眺めた。
質問は山だ。穴は深い。
でも、“言葉”になった問題は、解ける。
窓口を開ける。説明する。調整する。
その繰り返しが、町を日常にする。
未完成のマニュアルの表紙に、勇輝はペンで書き足した。
『未完成(更新中)』
「……これが現実か」
ひまわり市役所は今日も、
未完成のまま、ちゃんと開庁している。
次回予告
迷子が増えすぎた。異界ルートが多すぎる。
ついに“異界迷子センター”を作ることになった。
「異界迷子センター、開設!」――迷子は制度で救う!




