第110話「ひまわり市の新しい“日常”――役所は今日も開庁中」
朝七時半。
ひまわり市役所の裏口が開く。
職員が一人、また一人と吸い込まれていく。
異界に転移しても、役所は役所だ。
定時はある。朝礼はある。書類は増える。胃は減る。
ただ一つ違うのは――
出勤途中に、ドラゴンとすれ違うことぐらいだ。
「おはようございます、主任」
警備員が、何事もない顔で言った。
「おはよう。……今日も平和?」
「はい。河川敷のドラゴン停留所は順調です。
昨夜は宴会スペースも静かでした」
「静かな宴会スペースって矛盾してるな」
「慣れました」
慣れるな。
勇輝が階段を上がると、廊下で美月が走ってきた。
「課長! おはようございます! 今日の広報、三本立てです!」
「朝から三本立て!? 映画か!?」
「①スライム向け『鍵にならないで』ポスター
②異界住民向け情報公開FAQ(市長の笑み注意)
③翼は畳む学校ルールの絵掲示!」
「全部重いのに絵で軽くしてるのが腹立つ!」
加奈は、いつものように喫茶ひまわりの前で手を振った。
湯気とコーヒーの匂い。
あれがあるだけで、町が“日常”に見える。
「勇輝、朝の差し入れ。コーヒーと、温泉まんじゅう」
「……市長の笑みが増殖する原因を作るな」
「作ってないよ!」
その背後で、市長が笑っていた。
「まんじゅうは偉大だ」
「まただよ!!」
午前九時。開庁。
窓口のシャッターが上がると、列ができる。
人間の住民。
異界の住民。
ドラゴンの“代理”として来る獣人。
スライム(なぜか)も、ぷるんと並んでいる。
「今日は何の用だ、スライム」
『ぷる(届ける)』
「また何か拾ったか」
『ぷる(落とし物)』
「威厳じゃないだろうな」
『ぷる(威厳、落とさない)』
「言うな!」
市民課の窓口では、係長が新しい申請書を配っている。
住所欄は、二層になった。
「行政住所は、こちらの区域コードでお願いします」
「H-03……大樹の上……三層目……」
「補足はこっちで大丈夫です」
職員の声が落ち着いている。
昨日までの地獄が、少しずつ“手順”に変わっている。
福祉窓口では、相談がある。
「申請理由は……“呪いで働けません”」
「はい、診断書は……」
「診断書は呪い師が……」
「……なるほど。では“呪い証明”の様式を」
様式が増えてる。
でも、様式があるだけマシだ。
ないと、毎回地獄になる。
建設課では、道路占用の区画台帳が更新されている。
「A-7はスライム屋台。動かない、って誓約が……」
「誓約って言うな、また呪印になる!」
消防は、講習の資料を直している。
「火は友達、でも距離感。
……この一文、資料に入れていいですか」
「入れるな! でも分かりやすい……」
教育委員会では、翼ルールの絵掲示が完成していた。
(絵:翼を畳む)
(絵:壁側を歩く)
(絵:飛行OKゾーン)
「……学校が空港みたいだな」
昼過ぎ。
勇輝は会議を一つ終え、机に戻った。
机の上には、いつもの山。
露店区画の更新申請
情報公開の相談記録
スライム拾得物報告(鍵ではない)
住民票補足情報の入力依頼
ドラゴン停留所の岩ベンチ設置要望
宴会スペースの騒音計測(静かな宴会とは)
美月が椅子に崩れ落ちる。
「課長……異界、タスクが多すぎます……」
「現代日本でも多い。異界で増えただけだ」
加奈が差し入れを置きながら言う。
「でも、前より回ってる気がするよ」
「……回ってる。
回ってるってことは、“日常”だ」
市長が窓の外を見て言った。
「ひまわり市は、異界でも生きている」
「生きてる。
でも生きるって、毎日手続きだな」
市長は笑った。
まんじゅうの笑みではなく、少しだけ真面目な笑みだった。
「手続きは、人を守る」
「……そうですね」
夕方。
窓口が閉まり、シャッターが下りる。
職員たちは疲れた顔で椅子に沈む。
今日も誰かが怒った。
今日も誰かが笑った。
今日も誰かが助かった。
異界の町で、役所が開いている。
それは、奇跡じゃない。
ただの毎日だ。
美月が小声で言った。
「課長、締めっぽいこと言っていいですか」
「言ってみろ」
「ひまわり市役所、今日も開庁中。
異界でも、たぶん、なんとかなる」
「……なんとかするんだよ」
加奈が笑う。
「じゃあ明日も、コーヒー入れるね」
「助かる」
外では、河川敷の方角にドラゴンの影が見える。
遠くで、子どもたちの笑い声。
温泉通りの灯り。
商店街のシール。
学校の翼。
住民票の多次元。
全部が、まだ混ざっている。
でも、混ざったままでも、生活は続く。
勇輝は机の上の書類をそっとまとめ、深呼吸した。
「……よし。明日も開庁だ」
ひまわり市役所は、今日も。
異界でも。
ちゃんと開いている。
次回予告
異界住民の転入が一気に!
異界特有の前住所、種族も多岐にわたって対応が大変!
「異界転入届、書式が多すぎる」




