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異界に浮かぶ町、ひまわり市 ー転移した山奥のまち、異世界対応中!ー  作者: ひまわり あおい


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第1071話「水圧オルガン、音が“身体検査”になる」

◆朝・ひまわり市役所 異世界経済部


 朝いちばんに鳴る電話は、たいていろくでもない知らせを運んでくる。

 机に座って、まだ一口目のコーヒーも飲んでいない時間ならなおさらだ。役所の朝は早い。けれど、問題の方はもっと早い。人が「これ、もしかして困るのでは」と気づいた瞬間には、もう誰かが投稿していて、誰かが見に行っていて、誰かが問い合わせを始めている。そんな町で仕事をしていると、受話器の向こうの息づかいだけで、今日は静かな一日にはならないと分かることがある。


「異世界経済部です」


 勇輝が受話器を取ると、相手は小さく息を吸ってから名乗った。


『……すみません、保健センターです。いま、問い合わせが増えてまして』

「問い合わせ?」

『“市民ギャラリーで無料の健康診断が受けられる”って、そういう電話が続いてるんです』

「……誰がそんなことを」


 言い切る前に、相手が言葉を重ねる。


『“音で体調が分かる”って広まってます。血圧とか心臓とか、自律神経とか、いろんな言葉まで勝手に付いてきていて。こちらにも「予約はいりますか」とか「空腹で行った方がいいですか」とか……』

「分かりました。こちらで確認します。保健センターからは、現時点で医療行為ではないことだけ、統一で返してください。詳しい文言はすぐ送ります」


 受話器を置いた瞬間、美月の声が飛んできた。いつもの軽さではない。もう嫌な一致を見つけている声だ。


「主任、トレンド入りしてます」

「何が」

「#音で健康診断 #海底オルガン #ひまわり市役所やばい」

「“やばい”が付いたら、半分は苦情だな」


 美月は端末の画面を拡大した。そこには、昨夜の市長の投稿が大きく表示されていた。市長は笑顔だ。背景には、深海都市ナギルから持ち込まれた展示楽器《水圧オルガン》。青黒い管と、貝殻みたいな装飾が、照明の下でぬらりと光っている。


『深海都市ナギルの水圧オルガン!

触れると“体の潮”が音になるよ! 健康に良さそう! 気分も整う!』


 勇輝は数秒だけ黙った。怒鳴るのは簡単だ。けれど怒鳴ると、その怒鳴った空気が次の判断を雑にする。雑な判断は、こういう日はだいたい追加事故を呼ぶ。


「市長を呼んで」

「もう会議室にいます。たぶん自分でも“まずいかも”って思ってます」

「思っていてくれるなら助かる」


 その横で、加奈が差し入れの紙袋を机へ置いた。喫茶ひまわりから持ってきた焼き立てのスコーンの香りが、部屋の空気を少しだけ人間の生活へ戻す。


「……健康って言葉、強いね」

「強い。しかも“無料”“わかる”“良さそう”が並ぶと、勝手に歩く」

「歩いた先で転ぶ」

「そう。だから今のうちに、言葉を追いかけて捕まえる」


 勇輝は立ち上がった。今日は書類から始まる日ではない。現場から始めないといけない日だ。


◆同・会議室から市民ギャラリーへ向かう車内


 市長は、すでに反省の顔をしていた。反省の顔に早くなれるのは、この人の良いところでもあり、悪いところでもある。勢いで前へ出て、すぐに「しまった」と気づく。気づくのが遅いよりは良いが、気づいた時にはもう拡散が始まっているから厄介だ。


「いや、ほら、良かれと思って……。深海の芸術って、ちょっと体の内側に響く感じあるじゃない? あれをさ、分かりやすく」

「“健康に良さそう”は分かりやすくないです。危ないです」


 美月が即座に切った。短いが、きつくはなりすぎない線をぎりぎりで保っている。


「良い言葉だと思ったんだよ!」

「良い言葉ほど燃えます」

「ええ……」

「“健康”“診断”“改善”“無料”は役所の地雷です。しかも今回は保健センターの近くの市民ギャラリー。導線まで最悪に噛み合ってます」


 加奈が、後部座席から静かに言った。


「今のうちに、言い方を変えよう。“体験型音楽”とか“深海音響”とか。“気分が整う”も、今日は危ないかもね。気分って言葉が悪いんじゃなくて、“整う”が効能っぽい」

「そうだな。効く感じの言葉を全部引く。医学に寄せない。寄せたら責任が生まれる」


 市長が、窓の外を見ながらぼそりと言う。


「でも昨日、俺が触った時、なんか胸のへんがきゅっとして、息がすっと通った感じがしたんだよ」

「それは健康に良いんじゃなくて、びっくりしたか、感動したかのどっちかです」

 美月が真顔で言い切った。

「もしくは深呼吸が入っただけです。たまたまです。個人の感想は展示の説明文にしてはいけません」

「言い方が広報担当のそれなんだよな……」

「広報担当だからです」


 車が市民ギャラリーの前へ滑り込む。朝の光の中、建物の前にはもう人がいた。スマホを持った若者、親子連れ、年配の夫婦、仕事前に寄ったらしいスーツ姿の男性までいる。展示を見に来た、というより、何かを確かめに来た顔だ。人は無料と健康に弱い。しかも“自分のことが分かるらしい”と聞くと、たいてい一度は足を止める。


「……もう歩いてるな、噂が」

「歩くの速すぎるんですよ、健康ワード」

「止めるよ」

「止めましょう」


◆午前・市民ギャラリー 展示室入口


 展示室へ入った瞬間、空気の密度が変わった。

 湿度と言ってしまうと、たぶん少し違う。もっと“圧”に近い。海の底の水がそのまま透明な膜になって、部屋じゅうを包んでいるような感じ。呼吸はできるのに、耳の奥が少しだけ自分の内側を意識する。深海都市ナギルの展示は、いつもこういう“環境ごと持ってくる”ところがある。


 部屋の中央に、《水圧オルガン》は立っていた。

 黒に近い藍色の管が天井へ伸び、管と管の間を細い水の膜がゆっくり上下している。貝殻の螺旋みたいな装飾。海草の影みたいな曲線。深海魚の眼を思わせる小さな発光点。楽器というより、生き物に近い。だからこそ、人はそこへ“意味”を見たくなる。


 その前に立っていたのが、ナギルの音匠官セルマだった。胸元の徽章に指を添え、きれいに一礼する。


「歓迎します。地上の皆さま。潮の響きを、どうぞ」


 “潮”という単語だけで、美月の眉が跳ねた。今日の彼女は学習速度が速い。えらいが、現場はその分だけ大変だ。


 勇輝はすぐに本題へ入った。


「確認させてください。この展示は医療行為ではありませんね。診断や治療、改善効果を示すものでもない」

 セルマは一瞬だけ首を傾げた。地上と深海の常識が擦れる時の顔だ。

「……ナギルでは、潮聴きは生活習慣です。音で今の波を知り、無理を避ける。それは診るというより、寄り添うに近い」

「その“知る”が、地上では診断に聞こえます」


 加奈が横から柔らかく補う。


「証明書が欲しい人も出ます。“私、元気ですか”“どこが悪いですか”って聞きたくなる人もいる。そういう言葉に見えた時点で、役所は慎重にならないといけないんです」


 セルマの表情が、少しだけ理解へ寄った。


「なるほど。言葉の水圧が違うのですね」

「そういうことです」

 美月が小声で呟く。

「言葉の水圧、ほんと怖い」


 その時、入口側で声が高くなった。


「ねえ、これで血圧もわかるってほんと?」

「無料検査って見た!」

「会社の健康診断の代わりになる?」


 噂がもう、展示の中へ入り込んでいる。

 市長が反射で一歩前へ出た。


「皆さん、違――」

「市長は一回黙っててください」

 美月が即座に止めた。雑な止め方だったので、セルマが一瞬だけ目を丸くした。

「すみません」

 加奈がすぐに空気を整える。

「今、案内を作り直します。展示は続けますが、言い方を整理します」


 勇輝は展示室全体を見回した。問題は二つある。

 ひとつは、健康に関する誤認。

 もうひとつは、それよりもっと厄介な、“音がその人を言い当てたように聞こえる”ことだった。


 オルガンは、触れた人の力、体温、呼吸の揺れ、水圧の変化に反応して音が変わるらしい。それ自体は芸術表現だ。だが、本人の状態が“音になって現れる”と聞けば、人はついそこへ意味を読み込む。疲れている音、不安な音、弱っている音。そういう言い方が始まると、展示は一気に“身体を勝手に読まれる場所”に変わる。

 診断ではなくても、身体検査のように感じられる。そこが今日の核心だった。


「列を一度止めます」

 勇輝は係員へ言った。

「体験の前に“立ち止まる場所”を作る。説明を聞いて、鑑賞だけにするか、体験するか、自分で選べるようにしてください」


 係員が急いで導線を動かし始める。展示の前に立ち止まる“間”が入るだけで、人は少し冷静になれる。冷静になれれば、役所は助かる。


◆同・展示室脇 運用の組み直し


 勇輝たちは、展示室脇の小さな案内机に集まった。机の上には、今日のチラシ、ギャラリー案内、ナギルから届いた解説文、それに市長の問題の投稿を印刷した紙まで並んでいる。

 紙を見れば、どこで言葉が滑ったかが分かる。


「“体の潮”が、まず強い」

 勇輝が言う。

「比喩としては綺麗です。でも地上では、自律神経とか血流とか、そっちへ聞こえる」

「“健康に良さそう”も消します」

 美月が端末へ打ち込む。

「感想としてもだめです。効能に見えます。“深海音響体験”“鑑賞型インスタレーション”“触れると音が変化します”くらいまで落とします」

「“気分が整う”もだめ?」

 市長が弱く聞く。

「だめです」

 美月はきっぱりと言った。

「整うって、今のネット文脈だと効く側です」

「難しいな……」

「難しいんじゃなくて、軽く言いやすいだけです」


 加奈は、チラシの余白に小さく線を引きながら言う。


「言葉を弱くするだけじゃ足りないかも。体験の仕方も変えよう。今って、鍵盤の前に立ったらいきなり周りの人に見られながら音が鳴るでしょ。それだと“結果が出た”みたいに感じやすい」

「そうだな。本人だけの体験に寄せる」

「え?」

 セルマが少し驚いた顔をする。

「ナギルでは、潮は皆で聴くこともあります」

「ここでは分けましょう」

 勇輝ははっきり言った。

「“みんなで聞く音”と“その人の反応で変わる音”は、地上では扱いが違う。本人が“見られている”“読まれている”と感じたら、もう展示じゃなくなります」


 セルマはしばらく黙り、やがて頷いた。


「……ならば、個の潮は個へ返す」

「そうです。いい言い方だ」


 そこから一気に運用が組み直された。

 展示の入口に、三枚の札を立てる。


【鑑賞のみ】

【体験する】

【解説を聞く】


 まず“見るだけ”を正式な選択肢にする。

 展示は、参加しないと損、ではない。見て帰っていいと最初から書く。それだけで、無理に触ろうとする人が減る。


 次に、“体験する”人には、周囲から半歩だけ離れた位置に立ってもらう。音は天井の大きいスピーカーではなく、前方の細い共鳴板へ寄せる。完全な個別にはできなくても、“部屋全体へ公開される感じ”を薄めることはできる。

 さらに、スタッフは音の意味を解釈しない。“今の音は疲れてますね”“呼吸が浅いですね”のような言葉を禁じる。説明は楽器の仕組みに限定する。


「合言葉も入れましょう」

 勇輝が言う。

「不安になったら、途中でやめられるってはっきり示す。しかも、本人が言いやすい短い言葉で」

 セルマがすぐに返した。

「減圧、でしょうか」

「いいですね。それでいきましょう」


 止める言葉は、短いほどいい。迷っている間に不安が大きくなるからだ。

 加奈がその言葉を紙へ大きく書く。


【不安を感じたら「減圧、ここまで」で中止できます】


「これ、“やめてもいい”が自然に入るから良いね」

「そう。途中離脱を失敗に見せない」


 美月は、さらに別の問題へ触れた。


「撮影、どうします? 今日の感じだと、“この音、やばくない?”みたいな動画が上がりそうです」

 セルマが先に答えた。

「体験中の録音は避けてください。音が、本人の潮に似る。それは尊厳です」

 加奈が、言い方を少し柔らかくする。

「“音はその人のものです”って表現にしよう。禁止のためじゃなく、守るために」

「いい」

 美月の指が走る。

「“撮影・録音はご遠慮ください(音はその人のものです)”。これなら強すぎない」


◆午前後半・入口掲示の貼り替え


 ギャラリーの入口に、新しい掲示が並んだ。地味だ。けれど、今日はその地味さが盾になる。


『水圧オルガンは医療行為ではありません(音楽体験です)』

『診断・証明・結果の発行はできません』

『参加は任意です:鑑賞のみでもお楽しみいただけます』

『不安を感じたら合言葉「減圧、ここまで」で中止できます』

『体験中の撮影・録音はご遠慮ください(音はその人のものです)』


 紙が貼り替わるだけで、人の列は目に見えて変わった。

 さっきまで“無料の検査”を期待して前のめりだった人たちの一部が、そこで立ち止まり、「じゃあ見るだけでいいか」と自然に分かれる。

 この“分かれる”が大事だ。全員を同じ体験へ押し込まない。押し込まないだけで、事故はかなり減る。


 市長が、貼り替えられた掲示を見ながら言った。


「……俺の投稿も直す」

「お願いします。削除だけじゃなくて、訂正もしてください」

「“健康”は撤回。“音楽体験”に直す。“誤解を招く表現だった”も入れる」

「それがいいです。変に言い訳しないで」


 市長は、その場でスマホを操作し始めた。勢いで広げたなら、勢いで引いてもらうしかない。

 美月は横から画面を覗き込み、表現が滑らないようチェックしている。


「“体の潮”も消します」

「でも、あれ綺麗だったんだけど」

「綺麗でも今日はだめです」

「わかったよ……」


◆同・ロビー 減圧席と、結果を求める来場者


 通話を切ったあと、勇輝はロビーの隅を見た。そこには、観覧用の長椅子が二脚と、自動販売機、それからイベント用の小さな観葉植物が置かれているだけだった。展示に圧があるなら、そこで息を戻す場所も必要になる。今日はそれが足りない。


「加奈、ここ、“減圧席”にできる?」

「できるよ。椅子の向き変えて、案内札を置けばいい。水も少しある方がいいね。あと、話しかけられすぎないように、半歩だけ離す」

「お願いします。“休んでいい場所”は、見えるだけで違うから」


 加奈はすぐに椅子を斜めに置き直し、小さな札を手書きした。


【減圧席 ここで少し休めます】

【展示を途中でやめた方も、そのまま座れます】


 たった二行なのに、ロビーの景色が変わる。

 椅子は前からそこにあった。けれど、ただの椅子と“座ってよいと明言された場所”はまるで違う。役所の仕事は、ときどきこういうラベル一枚の差を扱う。


 その直後、スーツ姿の男性が受付へ来た。年齢は四十代くらい。スマホの画面を見せながら、かなり困った顔をしている。


「すみません。“体の状態が音で分かる”って見て来たんですけど、何か結果はもらえますか。いや、正式なものでなくても、会社に提出できるメモみたいな……」


 美月が、ほんのわずかに目を閉じた。来ると思っていた種類の相談だ。来ると分かっていても、実際に来るとやはり重い。


「申し訳ありません。これは医療や検査ではなく、音楽体験なので、結果や証明は出ません」

「でも、市の展示ですよね?」

「市の展示ですが、医療制度の中には入っていません。ご心配があるなら、健康診断や保健センターの相談をご案内します」


 男性は納得しきれない顔のまま、入口の掲示とスマホを見比べた。


「昨日の投稿だと、かなりそれっぽかったので……」

「そこは誤解を招く表現でした。訂正を出しています。すみません」

 勇輝が前へ出て、はっきり頭を下げる。

「ただ、ここで曖昧に“参考になります”と言うと、次に困るのは来場者の方です。なので、線はきちんと引きます」


 男性は少し間を置いてから、肩の力を抜いた。


「……いや、そこまで言い切ってもらった方が逆に助かります。変に期待したまま帰るのが一番困るので」

「そう言っていただけるとありがたいです。展示は展示として楽しんでいただけますし、もし体調面で気になることがあるなら、別の窓口へちゃんと繋ぎます」


 男性は最終的に“鑑賞のみ”を選び、オルガンの前に立った。触れずに帰ったが、帰り際に減圧席の札を見て小さく笑った。


「こういう札、いいですね。やめた人のための席って、なんか正直で」


◆同・ロビー 地元取材と、高校生たち


 午後の後半には、地元のケーブルテレビの取材も入った。小さなカメラを担いだ記者が、ロビーで勇輝にマイクを向ける。


「“音で身体が分かる”という表現が広がりましたが、今回の展示の位置づけを一言で言うと?」

「深海都市ナギルの音響芸術を体験する展示です。医療行為や診断ではありません」

「では、なぜ誤解が広がったと?」

「音が人の内側に触れるように感じられる展示だからです。だからこそ、今日は“やめられること”“見ているだけでもよいこと”“結果は出ないこと”をはっきり示しました」


 記者は頷き、さらに聞く。


「展示としては面白い。でも役所としては慎重でないといけない。その両立が難しそうです」

「難しいです。ただ、両立しないと次がなくなる。面白いから何でも許されるわけではないし、慎重だから何でも止めるわけでもない。その間に通れる道を作るのが、今日の仕事でした」


 その短いやり取りは、あとで夕方の地域ニュースで流れた。

 “誤情報でした”だけを流すのではなく、“どう整え直したか”まで伝わると、見た人の受け取り方が変わる。美月はその映像をすぐに確認して、ほっと肩を落とした。


「主任、これなら保健センターも守れます。展示も守れます」

「よかった。訂正だけだと“やらかした話”で終わるからな。整え直した方まで出ると、次に繋がる」


 さらに夕方、近くの高校の音楽部が見学に来た。顧問の先生が事前に連絡を入れてくれていたらしい。本来なら延期にしてもよかったが、勇輝は受け入れることにした。若い子たちほど、“感じたこと”をすぐ意味にしない場合がある。むしろ大人の方が、“役に立つか”“わかるか”へ急ぎやすい。


 部員たちは入口の札を読み、ほとんどが“鑑賞のみ”を選んだ。解説を聞き、共鳴板へ耳を寄せ、音の揺れに「うわ、倍音すごい」「水の動きでこんなふうに変わるんだ」と素直に反応する。

 その様子を見て、セルマが静かに言った。


「若い耳は、意味を急ぎませんね」

「そうかもな」

 勇輝が答える。

「大人は“説明”を持ち帰りたがる。若い人は、今日はまだ“体験”のまま置いて帰れる」


 加奈が、その言葉に頷く。


「だから大人には、余計に境界線が必要なんだね。意味を付ける力が強い分、間違った意味にも早く辿り着いちゃうから」


 その時、音楽部の一人が減圧席の札を見て、友人に笑いながら言った。


「これ、いいね。展示で疲れても座っていいって、ちゃんと書いてある」

「“疲れてもいい”って、ちょっと珍しい」

「珍しいけど、親切」


 勇輝は、その会話を聞いて少し安心した。

 今日作った運用は、“やめてもいい”を守るためのものだった。けれど、それは同時に“感じすぎても大丈夫”を支える運用でもある。芸術の展示は、わからないまま帰ってもいいし、疲れてもいい。そこが見えると、展示は押しつけから離れられる。


◆午後・展示体験の再開


 列が落ち着いたところで、展示体験が再開された。

 今度は、係員が最初に選択を聞く。


「鑑賞のみでも楽しめます。体験される方は、途中で“減圧、ここまで”と言っていただければいつでも止められます。音に意味づけはいたしませんので、安心してお楽しみください」


 言い方が整うと、体験はかなり違って見える。

 最初の体験者は、大学生くらいの女性だった。友人と二人で来たらしい。さっきなら、周りに煽られてそのまま前へ出ただろう。けれど今は、入口で少し考えてから言った。


「……じゃあ、体験します。でも、途中でやめても大丈夫なんですよね」

「大丈夫です。やめるのも普通です」


 その一言で、女性の肩がわずかに下がる。緊張していても、逃げ道が見えていると人は落ち着ける。


 女性が鍵盤へ触れると、低い音が水の底みたいに広がった。次に、細い音が耳の横をかすめる。会場全体へ鳴り響くというより、彼女の前で音が折り重なり、こぼれずに留まる感じだ。

 友人が思わず「わ、きれい」と言いかけたが、係員が目線で“解釈しない”距離を作る。場のルールがあると、見ている側も救われる。


 女性は数秒ほど音を聴いてから、小さく笑った。


「……なんか、海の中で立ってるみたい」

「そう感じたなら、展示としては成功ですね」

 セルマが言う。今度は“体調”に寄せない。ちゃんと学んでいる。


 ただ、展示が落ち着いたからといって、不安が完全に消えるわけではない。

 次に来た中年の女性は、鍵盤に触れた瞬間、顔色が変わった。音が悪かったのではなく、たぶん“自分の内側に何かが触れた感じ”が急に来たのだ。芸術はそういうことがある。だからこそ、身体に関わる表現では逃げ道がいる。


「……すみません、ちょっと、これ」

 声が細い。息が浅くなっている。隣にいた夫らしい男性が慌てて手を伸ばしかける。


 加奈がすぐそばへ行った。触れない距離、でも置いていかない距離で立つ。


「大丈夫。今ここで止めよう。怖いって言っていいよ」


 係員がはっきり言う。


「減圧、ここまで」


 その言葉に合わせて、セルマがオルガンの管へ手を添えた。音が、潮が引くみたいに軽くなる。高い音が消え、低い共鳴だけが床の下へ沈んでいく。

 女性の肩がゆっくり落ち、呼吸が戻る。


「……止まった」

「止まるのが正しいです」

 加奈の声は、展示の説明ではなく、ただの人間の声だった。

「合わない日もあるし、今日は見て帰るで十分だよ」


 夫がほっとした顔で頭を下げかけるのを、勇輝は軽く手で止めた。


「謝らなくて大丈夫です。やめるための言葉を用意してあるので」


 セルマが、深く頭を下げる。


「地上の運用は、優しい」

「優しさというより、安全策です」

 美月がぼそっと呟く。

「でも安全策って、だいたい優しさの形で出ます」


 勇輝はその言葉に頷いた。まさにその通りだった。

 ルールは冷たいものだと思われがちだが、守るために作られたルールには温度がある。今日の“減圧、ここまで”は、その温度を持った言葉だった。


◆午後・展示裏 セルマの再設計


 不安を覚えた来場者を見送ったあと、セルマは展示の裏側へ勇輝たちを招いた。オルガンの背面には細い水路が何本も走り、小さな弁が無数に並んでいた。深海都市の楽器は、表から見るより裏の方が生き物じみている。


「本来、この楽器は、ひとりの静かな部屋で鳴らすものです」

 セルマが言った。

「ナギルでは、個の潮を聴く時、周囲も言葉を慎みます。今日のように、列ができ、次の人が待ち、周囲が意味を探す場は……確かに、違う」


「違うから、地上用の運用が要ります」

 勇輝は言った。

「芸術を変えろとは言いません。でも場に合わせて、見せ方を変える必要がある」


 セルマは、背面の弁をいくつか指で示した。


「ならば、共鳴を二層にします。本人の触れた圧で出る細い音は、前面だけへ返す。空間へ広げるのは、楽器固有の持続音だけにする。これなら、周囲は“海の部屋”を聴き、本人は“触れた反応”を受け取る」

「できますか」

「時間はかかりません。最初からその設計はある。ただ、今日の展示では“みんなで体験した方が楽しいだろう”と判断して開いていました」


 市長が、申し訳なさそうに肩をすくめる。

「そこを俺が“健康に良さそう”で後押ししたわけか……」

「後押ししたというより、崖の向こうへ押しました」

 美月が言う。

「でも今戻せてるので、これ以上自己嫌悪で仕事を止めないでください。訂正投稿、固定してください」


 市長は素直にスマホを見直した。


「もう固定した。“医療行為ではありません。深海音響の体験展示です。鑑賞のみも歓迎です”って」

「良いです。あと、引用で流れてる誤情報には、保健センターの公式からも一回だけ出しましょう。市長の説明だと“市長が言うなら……”で止まる人もいるので、公的な線を別で引く」

「了解。保健センターにも文面回します」


◆午後・保健センターとの連携


 ギャラリーのロビーで、勇輝は保健センターの担当と通話をつないだ。

 誤解が健康診断へ寄った以上、保健センターの言葉は重い。芸術の展示を医療から切り離す線を、ちゃんと公式に残す必要がある。


「現在、入口掲示を変更済みです。医療行為ではなく音楽体験。診断・証明はしない。必要であれば、心身の不調が気になる方は保健センターへご相談ください。ただし展示結果との関連づけはしない。そういう文で出したい」


 受話器の向こうで担当者が頷く気配がする。


『助かります。“展示でこう鳴ったから何か悪いんでしょうか”って質問が増えると、こちらも答えようがないので。線を引いてもらえるとありがたいです』

「展示が不安の入口になってしまった場合の出口として、保健センターの相談先だけ案内したいです。展示は展示、相談は相談で」

『それなら大丈夫です。“不安が続く場合は、専門窓口へ”の一般的な案内で受けられます』


 通話を切ると、美月がメモをまとめた。


「主任、これで出口ができました。展示の中で答えを出さない代わりに、本当に心配な人が迷子にならない」

「うん。芸術の役割と、医療の役割を分ける。分けて、橋だけは作る」


 加奈が、その言葉へ静かに頷いた。


「混ぜないけど、切り捨てもしないってことだね」


◆夕方・落ち着きを取り戻した展示室


 夕方になると、展示室の空気は朝とはまるで違っていた。

 列は短くなった。でも雰囲気は悪くない。むしろ、無理に前へ出る人が減った分だけ、展示と自分の距離をそれぞれ選べている感じがあった。


 鑑賞のみを選ぶ夫婦がいる。

 体験前に“減圧”の札を見て、少し安心して前へ出る学生がいる。

 体験しないまま、セルマの解説だけを聞いて帰る年配の男性もいる。


 “触らない”が失敗に見えなくなっただけで、展示はずいぶん穏やかになった。


 市長も、今度は“鑑賞のみ”でオルガンの前に立った。触らずに、ただ音の動きを見つめる。午前中の居心地の悪さが少し抜けて、背中が妙に真面目だ。

 すると、オルガンが誰にも触れられていないのに、ふわりと和音を鳴らした。深海の泡が一つずつ弾けていくような、軽い音。


 周囲から小さな拍手が起きる。拍手するほどのことかは分からないが、こういうところに観光の空気は出る。良い意味で“見た甲斐があった”と思って帰ってくれるなら、それもまた大事だ。


「沈黙にも反応するの?」

 市長がセルマを見る。

 セルマは少し困ったように微笑んだ。

「潮は、手だけに宿りません。立ち方にも、呼吸にも……」

 美月が、勇輝の袖を引いた。

「主任、それ、また危ないです」

「わかってる」


 勇輝は、言葉ではなく視線でセルマへ頼んだ。

 セルマはすぐに理解したらしく、言い直した。


「……失礼。これは診断ではなく、空間の反応です。観客の存在に、音楽が少し寄っただけです」


「それでお願いします」

 勇輝が頷いた瞬間、和音の最後に、妙に短くて高い「キュッ」という音が混ざった。


 市長が胸に手を当てる。


「……今、“プリン控えろ”って言われた気がする」

「気のせいです」

 美月が即答する。

「たぶん」

「九割」

「そこは十割で切ってほしいんだけど!」

 加奈が笑いをこらえながら助け船を出す。

「控えるじゃなくて、今日は半分にすればいいんじゃない?」

「半分のプリン……」

 市長が本気で悩み始めて、場の空気が少しだけほぐれた。


 勇輝は、その隙に掲示の端へ小さな一行を足した。


『※音が“何かに聞こえる”ことがありますが、診断や特定を目的としません』


 大きく書くと逆に燃える。小さく、淡々と。

 役所の線は、ときどきこのくらいの細さで十分だ。


◆閉館前・展示室出口


 閉館が近づき、最後の来場者が出ていく頃、ギャラリーの空気はようやく“芸術展示”のものに戻っていた。朝はあんなに“わかるらしい”という期待でざわついていたのに、今は“面白かった”“ちょっと不思議だった”“怖い人は鑑賞だけでいいんだね”という声がぽつぽつ残るだけだ。


 それでいい。

 展示が展示のまま終われるなら、それが一番いい。


 セルマが、勇輝たちへ改めて頭を下げた。


「今日は学びました。ナギルでは、潮を聴くことは親しい行為です。だから、こちらでもそのまま出せると思っていた。けれど地上では、親しさが侵入に聞こえることもある」

「あります」

 勇輝は頷く。

「特に、“あなたの中が分かる”みたいに聞こえるものは慎重に扱わないといけない。たとえ診断じゃなくても、身体を勝手に読まれる感じがしたら、そこで人は固くなります」

「……身体検査、のように」

「そうです。今日はそこがいちばん危なかった」


 セルマは、オルガンの管へそっと触れた。


「次は最初から、個へ返す音と、場へ返す音を分けます。地上用の運用として」

「助かります。展示をやめるんじゃなくて、境界線を先に描く。それができれば、ナギルの芸術はもっとちゃんと届くはずです」


 加奈が最後に、静かに言った。


「体に近いものほど、逃げ道が必要なんだよね。音でも、香りでも、光でも。好きな人もいれば、つらい人もいるから」

「その“逃げてもいい”が見えるだけで、だいぶ違う」

 美月も頷く。

「今日は“減圧、ここまで”が効きました。あれ、たぶん今後もいろんな展示で使えます」


 勇輝は少し笑った。

「増やすなよ」

「増やします。良い運用は共有します」


◆夜・帰りの車内


 帰り道、車内は朝よりずっと静かだった。問題が片付いたからというより、あれだけ高い圧を持った展示に半日向き合うと、人は自然と声が少なくなる。深海の展示は、終わったあとも少しだけ耳の内側へ残る。


 市長がハンドルの向こうで、反省したような、感心したような顔をして言った。


「今日、よく分かった。面白いと思ったことを、そのまま制度の言葉にしちゃいけないんだな」

「いけないですね」

 美月が即答する。

「感想は感想。行政の言葉にした瞬間、責任線が引かれます」

「責任線、か」

「しかも“健康”は太線です」

「覚えたよ……」


 加奈が窓の外を見ながら、ぽつりと言った。


「でも、展示自体は良かったよ。ちゃんと境界線があると、安心して面白がれる」

「そうだな」

 勇輝は頷いた。

「今日作ったのは、たぶん展示の説明文じゃない。戻る道だ」


 芸術が人に触れることはある。深く触れることもある。

 けれど、触れたあとで戻れないと、芸術は怖さに変わる。

 だから役所がやるべきことは、芸術を弱くすることじゃない。深く触れるものほど、戻る道を先に置いておくことだ。


 保健センターへの電話は、たぶん今夜には少し減る。市長の訂正投稿も、一定の人には届くだろう。けれどそれ以上に大事なのは、今日ギャラリーで“体験しない”を選んだ人が、損した気持ちで帰らなかったことだと勇輝は思った。


 見ているだけでもいい。途中でやめてもいい。不安なら引いていい。

 その当たり前を言葉にして掲示し、係員が同じ声で繰り返す。

 そういう地味な運用が、最後にはいちばん展示を守る。


 窓の外で、町の灯りがゆっくり後ろへ流れていく。海はここにはない。でも今日の庁舎とギャラリーには、たしかに深海の圧が持ち込まれていた。

 その圧の中で、溺れないための小さな道をひとつ作れたなら、今日はそれで十分だった。

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