第1061話「妖精界の編集者、市民アンケートを“短歌連作”で回収して集計不能」
◆午後・喫茶ひまわり(湯けむり通りの少し外れ)
午後の喫茶ひまわりは、湯けむり通りの賑わいと、ほんの少しだけ距離がある。窓の外を行き交う足音は遠回りして届くみたいに丸くなって、店内のスプーンの音や、ミルの低い唸りに混ざっていく。
勇輝は窓際の席で、手帳と端末を行ったり来たりしながら、今日の予定を頭の中で並べ替えていた。観光課からの連絡が二件。異界商人の屋台許可更新が一件。生活環境課の回覧に目を通す必要もある。そうして最後に、毎年この時期にやってくる住民満足度アンケートの集計。
地味だ。けれど、地味が町を支える。むしろ、地味が抜けると、派手なところから順番に転ぶ。勇輝はそういう経験を、この町に来てから何度もしてきた。
「主任、砂糖入れる? 今日は顔がちょっと固い」
カウンター越しに加奈が、いつもの軽さで聞いた。軽いのに、ちゃんと見ている。勇輝は指先でコーヒーカップの縁をなぞってから首を振る。
「今日はこのままでいい。甘いのが悪いって話じゃないけど、甘い香りが頭の中に残ると、数字の並びを追うときに目が滑るんだよ。あれ、慣れたつもりでも、ふっとした瞬間に読み違えるから」
「目が滑るって、数字が逃げるのと似てるね。主任の中で数字、けっこう生き物だなあ。逃げ足だけは早そう」
「早い。こっちが油断すると、こっそり順番を入れ替えてくるみたいな顔をする」
「顔があるのか……じゃあ、今日は逃げ道ふさいどく。集計の前に、ちゃんと糖分も塩分も取って帰ること。約束。あと、口の中が乾いたまま数字を見ると、余計に目が滑るから水も飲んで」
「管理が細かい」
「細かいのは、主任が大事なところで雑になるのを知ってるから。放っておくと『あとで』を積み上げて、眠る前に急に反省し始める顔になるでしょ」
言い返そうとして、勇輝は一度息を飲み込んだ。反論の余地がほとんどない。そういうところを加奈は、追い詰めずに笑って言う。
そのとき、入口の鈴が鳴った。
いや、鳴ったというより、鈴が小さく笑ったみたいな、軽い震えが空気に浮いた。
来客に反射するように視線を向ける。けれど、扉の前に人の姿はない。常連が新聞をめくる音だけが、いつも通りに続いている。勇輝が違和感を確かめるように瞬きをした次の瞬間、カウンターの上に小さな封筒が置かれていた。
白い紙に、薄緑の縁取り。触れていないのに、ふわりと花の匂いがする。匂いは甘すぎず、森の朝に似ている。加奈が眉を上げ、勇輝と視線を交わした。
「今、誰か入ってきた?」
「ううん。私、ずっとカウンターにいたよ。……でも、これ、置かれたよね。置いた手の温度が残る感じがないのが、逆に怖い」
加奈が封筒に指先を近づけた瞬間、紙の端がきらりと光った。光は金属の反射じゃなく、葉の表面が濡れたみたいな淡い艶だ。封蝋の代わりに、薄い葉っぱが一枚、ぴたりと貼ってある。葉脈の間に、小さな文字が走っていた。
『編集者、参上。
ひまわり市の“声”を編む。
今日、役所へ。 リラリ』
「……編集者?」
勇輝は思わず、その単語だけを口に出した。加奈は封筒をそっと裏返し、匂いを確かめるように目を細める。
「妖精界の封だね。葉の貼り方、あっちの式だ。……リラリ、って名前、聞いたことある。以前、妖精界の文庫市のときに、作品の帯文を配ってた人、かな」
「帯文を配ってた人って、何それ」
「表紙に巻くやつ。『泣ける』『癒される』って、短くまとめるの。あの人、言葉を短くして、刺さる形にするのが上手だった。上手だったから、ちょっと心配」
その説明だけで、勇輝の背中に小さな警戒が立つ。短くまとめる。その短さは便利だ。けれど便利だから危うい。行政の文書も、短くできれば助かる。でも短くしすぎると、誤解が生まれる。
言葉を選んでいる間に、店内の空気がふわっと揺れた。天井近くで、柔らかな風がくるりと渦を巻く。風に混じって、葉の擦れる音が一瞬だけ鳴った。
小さな影が回転し、カウンターの上に着地した。
妖精界の住人。身長は人間の子どもほどで、体つきは軽いのに、視線だけがやけに鋭い。髪は淡い緑で、花びらみたいにふわりと揺れている。目の奥に、締切の前日にしか出ない種類の光が宿っていた。
「やっほー。ここ、ひまわり市の窓口で合ってる? 声が集まってる匂いがするんだけど。あと、コーヒーの匂い、いいね。紙の匂いと混ぜると、最高に集中できる」
勇輝はコーヒーカップを置き、相手のテンションに呑まれないように言う。
「ここは喫茶店だよ。窓口は市役所。……ただ、確かに声は集まる。愚痴も相談も、だいたいコーヒーの横に座るし、店員が聞いてるふりして、実は半分は町内会の掲示板役になってる」
「ほら、編集的に正解。声が集まる場所は窓口だよ。紙の前だと固くなる人も、カップの前なら喋れるから。そういう場所って、町に必要」
妖精はくるりと回って、名刺の代わりみたいに小さな葉をひらりと差し出した。葉の表に、同じ名前。
「妖精界の編集者、リラリ。今日はね、ひまわり市の“広聴”を、もっと素敵にしに来たの。市民の声って、もっと生きていい。もっと、残っていい」
加奈が目を丸くしながら、リラリの葉を受け取る。
「やっぱり、リラリさん。……あの、素敵って、どういう意味で? 良い意味なのは分かるけど、役所の現場って、良い意味がそのまま動くと、たまに事故るから」
「良い意味。もちろん。市民の声って、数字だけだと見えない温度があるの。息づかいとか、言葉の間とか。短歌はそれが残る。残ると、施策の説明も、もっと人に届く」
勇輝は頬の内側を軽く噛む。届く、は良い言葉だ。良い言葉ほど、行政の現場では扱いに慎重になる。良い言葉は、誰も反対しにくい形で暴走するからだ。
「話は市役所で聞く。……加奈、俺、すぐ戻る」
「うん。私も行く。こういうの、主任だけで受けると、あとで一人で抱える顔になるから。しかも抱えてることを自覚しないまま、静かに疲れる」
「抱えてない」
「抱えてる顔してるよ」
言い合う間に、リラリは満足そうに頷いた。
「そうそう、編集はチームでやるの。じゃ、行こ。役所の匂い、もっと濃い場所で」
◆午後・ひまわり市役所 異世界経済部 会議室
庁舎の廊下は、午後になると少しだけ温度が上がる。午前中の張り詰めた空気が、書類の山を越えて少し緩む時間帯だ。けれど今日は、会議室の前だけが妙に騒がしかった。扉の外に、段ボール箱が二つ。上に貼られた札に、太字で「回収分」とある。
美月がその箱を抱えて、すでに会議室の中を行ったり来たりしていた。端末と紙の間で目を忙しく動かし、口の中だけで何かを数えている。勇輝が入ると、美月は助けを見つけたみたいに顔を上げたが、その表情は安心よりも困惑が強い。
「主任、集計、今日からですよね。……でも、今日から、って言っていいのか、ちょっと自信なくなってきました。開始って、普通は希望を持つ言葉なのに」
「どうした。回収が多すぎる?」
「量はいつも通りです。たぶん、三千くらい。問題は……中身です。中身が、こちらの想像よりも、ずっと文学寄りで」
美月が箱の蓋を開ける。
紙がふわっと舞った。紙が舞うのは、紙が軽いからじゃない。言葉が、紙の上から浮かび上がって、空気の中を歩き回っているみたいだった。
机の上に広げられた一枚目の用紙を見て、勇輝は目を細める。見慣れた形式のはずだ。満足度のチェック欄。困りごとの選択肢。自由記述は小さく一枠。毎年ほぼ同じ。過去の比較ができるように、あえて大きく変えない紙。
なのに。
チェック欄のところに、細い筆圧で書かれた文字が、五行に整えられていた。
『湯けむりの
町に流れる
役所道
受付笑う
夕日あたたか』
続けて二枚目。
『路線バス
来ぬときほどに
人は待つ
待つ手の先に
風が答える』
三枚目。
『ゴミ袋
透明すぎて
心まで
見られた気して
今日は青空』
勇輝は無意識に、用紙の角を指先で押さえた。現実の紙の感触を確かめないと、目の前の情報がどこかで溶けていきそうだった。
「……回答欄が、全部、短歌の連作になってる」
言葉にすると、状況の輪郭が少しはっきりした。美月はうなずくが、うなずき方がどこかゆっくりだ。脳が拒否している。
「満足度のチェックが消えてます。『とても満足』『やや満足』みたいな欄に丸があるはずなのに、そこが全部、情緒で埋まってます。主任、これ、集計できません。私、数字に変換する辞書、持ってないです。あと、辞書があったとしても、情緒が多すぎてページが破れます」
加奈が隣で一枚拾い上げ、紙の上の字を目でなぞる。表情が、困ると感心の間を行き来している。
「……でも、生活の匂いがする。たしかに、こういうのって、口で聞くよりも、紙に残ると強いね。短いのに、場面が浮かぶ」
「強いのは分かる。でも、年度の報告書に『青空』って分類はない。『青空』を『満足度:高』って置き換えるのも、たぶん乱暴だ」
勇輝がそう言った瞬間、机の端にふわっと影が落ちた。
リラリが、いつの間にか机の上に立っている。足元に小さな葉の粉が散って、会議室の蛍光灯の光を柔らかく跳ね返した。
「でしょ! すっごく良いよね。市民の声って、数字だけだと見えない温度があるの。息づかいとか、言葉の間とか。短歌はそれが残るの。しかも連作にすると、町の一日が見えてくる」
勇輝は深呼吸を一つする。ここで強い口調にすると、相手はそれすら物語にする。相手は編集者だ。盛り上がりを見つけるのが仕事で、盛り上がりを育てるのが習性だ。
「良さは認める。認めるけど、行政がアンケートをやる目的は、面白さじゃない。傾向を見るためだ。次の予算や計画につなげるための材料が必要なんだよ。材料っていうのは、温度だけじゃなくて、割合とか、地域差とか、誰が困ってるかとか、そういうやつ」
「傾向なら、あるよ。ほら、ここ。『待つ』が多い。バスのことだよね。あと『寒い』が多いから、庁舎の空調が弱い。『迷う』が多いから案内が難しい。ぜんぶ、読めば分かる」
リラリは束をぱらぱらめくり、指先で幾つかを選びながら、まるで目次を立てるように言う。美月が苦笑いの形で唇を引き結ぶ。
「読めば分かる、は、読む人の体力に依存します。回収が三千なら、読むだけで一日が溶けます。読む人が変わると、分かるところも変わります。それだと、施策の説明責任が持てない。読む人の感受性で優先順位が揺れるのは、現場にとって危ないです」
加奈も頷いて、リラリに視線を合わせた。
「短歌って、書ける人と書けない人がいるよね。得意な人は楽しいけど、苦手な人は『答えづらい』になっちゃう。答えづらいから出さない、ってなると、声が偏る。あと、異界から来た住民もいる。日本語の五七五七七が難しい人は、そもそも参加しづらい」
リラリは口元をすぼめた。反射で言い返すタイプではないらしい。ちゃんと聞く。聞いてから、次の一手を探す。編集者らしい。
「……美しい声だけ集めても、全員の声じゃない、ってこと?」
「そう。全員の声を拾うのが広聴だ。声が大きい人だけのものにしない。声が上手い人だけのものにもしない。声が小さい人でも、丸を付けるだけなら参加できるようにする」
勇輝はホワイトボードを引き寄せた。ペンのキャップを外す音が、会議室を少しだけ整える。問題が散らばっているときほど、線を引くと空気が落ち着く。
「リラリさん。あなたの企画は、消さない。消さないけど、形を変える。短歌は短歌で活かす。その代わり、アンケートの核は戻す」
ペン先がボードを走る。文字は大きく、迷いなく。
まず、満足度のチェック項目。今まで通りに復活。選択肢は変えない。変えると過去比較が崩れる。困りごとも、主要項目はそのまま。自由記述は広げるが、そこに短歌を書いても良い、という位置づけにする。加えて、短歌が難しい人のために「一文でも可」「箇条書きでも可」の例も添える。
「チェック式の項目は必須。短歌は自由欄。書ける人は書けばいい。書けない人は、いつも通りでいい。どっちも正解にする。短歌だけが正解、みたいな空気は作らない」
美月が端末を開き、すぐに画面を切り替えた。
「オンラインのフォームも、同じ構造にします。必須はチェック。自由欄は文字数の上限だけ緩める。短歌でも普通の文章でもいいって注釈を入れて、入力しやすいようにします。あと、今の拡散タグ、修正しないと」
加奈が美月の画面を覗き込む。
「責める言い方は避けたいね。短歌で出しちゃった人に『間違いです』って言うと、次から協力してくれなくなる。『短歌はそのままで大丈夫です。追加でチェックだけお願いします』って、お願いの文にして」
「うん。『追加入力のお願い』にします。短歌は保存します、って先に書きます。あと、期限もちゃんと書く。期限を出すときは『お忙しいところ恐れ入りますが』を添える。強く言いすぎない」
勇輝は頷いた。役所は優しくても、締切は消さない。消さないけれど、締切を盾にしない。そこが大事だ。
リラリはボードの前まで飛んできて、文字をじっと見た。目が、楽しさと悔しさの間で揺れている。
「短歌、残るの?」
「残る。むしろ、残したい。短歌は、具体例として強い。数字は傾向。短歌は、その傾向が何を意味するかを人に伝える。広報にもなるし、住民が自分の言葉で町を語る材料になる。だからこそ、勝手に消すのはしない」
「それ、いい。すごく、いい。編集として、すごく、いい」
リラリは小さく拍手をした。拍手の音が、葉の触れ合う音に近い。美月がすかさず、現場の現実を重ねる。
「ただし、公開するときは同意が必要です。個人が特定される情報が混ざることもあります。短歌って、短いのに、生活が丸見えになることがある。そこは守らないと、町の信頼が減ります」
加奈が補足するように言う。
「例えば、通学路とか、家族構成とか、癖とか。本人は短歌のつもりでも、読み手は推理しちゃうことがあるからね。あと、異界の方は生活の形が違うから、余計に特定されやすい」
リラリは真面目な顔で頷いた。軽さだけの妖精ではない。
「同意、取る。匿名化もする。編集者って、面白くするだけじゃなくて、守る役目もあるから。……うん、そこ、分かる」
勇輝はボードの下段に、もう一つの柱を書いた。
今年の回収分をどう救うか。
短歌だけで埋まった用紙を、今から全員に書き直させるのは現実的じゃない。協力の気持ちを折る。折らないように、追加で補う。追加のチェックを取る。そのための導線を、なるべく手間なく用意する。
「短歌で提出した人向けに、追加でチェックだけ入れられるフォームを作る。紙で出した人にも、二次元コードで案内する。ロビーに掲示する。窓口にも置く。『短歌はそのままで大丈夫です。チェックだけ追加でお願いします』って、丁寧に書く」
美月が即座に頷いた。
「紙の回収分に、番号振ります。匿名の通し番号だけ。追加フォームには、その番号を入れてもらう方式にすれば、二重計上を防げます。紙の短歌と、追加のチェックが紐づく。個人情報は不要です。あと、入力が難しい方には窓口で一緒に入れます。本人の同意が前提ですけど」
勇輝は、さすがに感心して言う。
「そこまで考えてたのか」
「主任、私、さっきから泣きそうだったんですよ。泣かないために、考えるしかないです。『できません』って言うと、自分が役に立たない気がして、余計に焦るから」
加奈が笑って、机の端に手を置いた。
「美月はこういうとき、強い。ちゃんと落ち着く道を探すから」
リラリがその会話を聞いて、少しだけ誇らしそうに胸を張った。
「編集者の導火線に火をつけたの、私だけどね」
「火をつけるなら、事前に相談してほしい。相談って、役所だと手間に見えるけど、手間の形を先に作ると、後の事故が減る」
勇輝が穏やかに言うと、リラリは目を見開いて、それから苦笑いした。
「相談って、いつも物語の外に置かれがちだよね。分かった。次は、相談をちゃんと最初に置く。編集者、学びます」
美月が小さくつぶやく。
「主任、今の、ちょっと良いですね。『学びます』って言える妖精、珍しい」
勇輝は話を現実に戻す。
「あと、分類。短歌は短歌でテーマ分類する。『交通』『庁舎環境』『案内・導線』『生活ルール』『窓口対応』『観光・交流』みたいに、大枠でいい。人手でタグ付けする。できれば二人以上で付ける。偏りを減らす。分類の基準は簡単なメモにして残す」
加奈が頷いた。
「一人で読むと、好きな言葉に引っ張られる。複数で見れば、見落としが減る。あと、同じ短歌が何度も出るときって、たぶん本当に困ってるからね。繰り返しは強いサインだ」
「そう。繰り返しは、傾向だ」
リラリが嬉しそうに身を乗り出した。
「短歌の繰り返しを、傾向として扱うの、すごく好き。編集って、繰り返しの中にテーマを見つける仕事だから。……あと、異界語の短い詩も混ざってる? それ、訳す?」
「訳すのは慎重に。意味がずれると、本人の声が変わる。まずは本人に『こういう意味で合ってますか』って確認できる仕組みが必要だ」
勇輝はボードの内容を指でなぞり、最後に大きく丸を描いた。
「よし。今日やることを、時間で区切る。美月はフォーム修正と告知文。加奈は紙の掲示文の文案を一緒に作ってくれ。俺は総務と市民課、観光課に連絡して、ロビー掲示と窓口の運用を整える。リラリさんは短歌分類の試走と、短歌公開の同意文案の叩き台。短くていいけど、誤解が出ないように」
「短いけど誤解が出ない。編集者の腕の見せどころだね。任せて」
◆午後遅く・庁内調整(総務課・市民課・観光課)
会議室を出ると、庁舎の音が一気に戻ってきた。電話の呼び出し音、コピー機の紙送り、廊下を早足で行く靴音。現場は現場で、別の困りごとが動いている。
勇輝はまず総務課に足を運んだ。掲示板の場所と、掲示物の形式。ロビーの机を一つ借りられるか。紙の置き場所と、補充の担当をどうするか。こういう小さな運用が、あとで効いてくる。
「掲示はいいけど、紙が散らばると苦情になりますよ。前に、募集要項を山積みにして、子どもが紙吹雪にした日があって……」
総務の職員が、苦笑いで言う。
「紙吹雪にしたくてしたんじゃない、って分かってても、片付けの負担が残る。だから置き方を工夫したい。立てるラック、余ってませんか」
「あります。資料置き。古いけど使えます。あと、鉛筆も置きます? ペンがないと、その場で書けない人がいます」
「お願いします。書けないが『帰って忘れる』につながるから」
次に市民課。窓口での声かけ。入力補助。匿名番号の説明。個人情報の扱い。ここは丁寧に擦り合わせないと、善意が不安に変わる。
「番号って、怖がる人がいますよ。『追跡されるのでは』って」
市民課の係長が、慎重な顔で言った。
「だから、番号は紙の束を数えるための札、って説明する。名前も住所も紐づかない。紙と追加チェックを結びつけるだけ。窓口では『任意』を強調して、無理に勧めない。協力したい人が、協力しやすいようにする」
「分かりました。案内文にも、その旨を書きます。あと、高齢の方はスマホが苦手なことがあります。追加フォームの紙版も用意しますか」
「用意する。紙の追加チェックだけの用紙を作る。手間は増えるけど、手間を置かないと拾えない声がある」
最後に観光課。住民満足度アンケートは住民向けだが、今のひまわり市は住民の中に異界の人がいるし、観光と生活の境目が薄い。『待つ』の短歌の中には、観光の流れが混ざることもある。
「バスの話、また出てましたか」
観光課の職員が、端末を見ながら小さく息を吐く。
「出てる。ただ、出て方が具体的になってる。停留所の名前を書きそうになってる人もいた。そこは公開前提では消す。けど、困ってる場所があるなら、現場の改善に繋げたい」
「分かります。観光の人は『迷う』を言いやすいけど、住民は『慣れたから言わない』になりがちで……短歌だと、慣れた人の方も書いてくれる可能性がありますね」
「そこは今回の面白いところだ。面白いを、ちゃんと改善に繋げる」
庁内調整は、派手さがない。けれど、この地味がないと、リラリの短歌はただの騒ぎで終わる。勇輝は廊下を歩きながら、喫茶ひまわりの匂いを思い出した。声が集まる場所は、たしかに窓口だけではない。けれど、集めた声を形にするのは、役所の仕事だ。
◆夕方・庁舎ロビー 掲示板前
夕方のロビーは、人の流れが二種類になる。仕事帰りに寄る人の流れと、窓口の手続きを終えて帰る人の流れ。その間に、掲示板の前で立ち止まる人が生まれる。掲示板は、立ち止まる場所だ。立ち止まって、読む。読んで、納得して帰る。納得しないと、帰ってから電話が鳴る。
掲示板に貼られた紙は、新しい。太字の見出し。
「住民満足度アンケート チェック項目へのご協力をお願いします」
その下に、少し小さな文字で、穏やかな説明。
「自由記述欄は、短歌でも文章でも大歓迎です(任意)」
「短歌でご提出いただいた方は、追加でチェック項目のご回答にご協力ください(所要時間1分程度)」
「追加回答は、紙でも窓口でも受け付けます」
加奈が横で、小声で言った。
「『短歌でご提出いただいた方』って、ちゃんと敬語になってる。責めてない。良い。『短歌を書いてくださったこと自体が嬉しいです』ってニュアンスが出てる」
「責めない。協力を受け取るのが広聴だからな」
掲示板の横には、小さな資料置きが立ち、鉛筆と消しゴムが一緒に置かれている。総務課の古いラックが、今日だけは妙に頼もしく見えた。
美月が端末を持って、小走りでやってくる。額に少し汗。仕事の汗というより、情報の波を泳いだ汗だ。
「主任、SNSの流れ、変わりました。さっきまで『短歌で答えると妖精が喜ぶ』が先に立ってたんですけど、今は『チェックも入れよう』が広がってます。タグも、住民が自然に変えていってます。『ちゃんと丸もつけよう』って」
「住民の自浄、助かる」
「しかも、『短歌が苦手な人は一文でいい』って、誰かが勝手に言い始めてくれてます。公式より分かりやすい言い方で」
勇輝は掲示板の前で、少しだけ肩の力が抜けた。住民が、協力の仕方を自分たちで学ぶ流れができるとき、行政は一歩楽になる。楽になるというより、同じ方向に歩ける。
掲示板の前で、年配の女性がペンを握っている。紙のアンケート用紙を机の上で押さえ、短歌欄に何かを書いて、ふっと笑った。それからチェック欄に丸を付ける。丸を付ける手つきが、どこか誇らしい。
「短歌、案外書けるもんだねえ。五七五七七、昔やったわ。……でも、ちゃんと丸もつけとこ。丸があると安心するのよね」
隣の男性が、照れくさそうに言う。
「俺は短歌は無理だなあ。だから一文で。『バスの時刻表が見えにくい』って。ほら、これでもいいって書いてある」
加奈がそっと頷いた。
「両方あると、安心する。気持ちだけでも、数字だけでも、どっちかに寄りすぎない。寄りすぎないって、生活にはすごく大事」
そこへ、背の低いドワーフの住民が、首をかしげながら用紙を見ていた。筆圧が強く、チェック欄に丸を付けるだけで紙が少し凹む。勇輝が近づくと、住民は気まずそうに肩をすくめた。
「短歌ってのは、数をそろえるんだろ。ワシは数をそろえるのは得意だが、言葉をそろえるのは苦手でな」
勇輝は笑って首を振る。
「短歌は任意です。一文でいい。チェックが一番大事。もし書くなら、困ってることをそのまま書いてください。韻とか、気にしなくていい」
「それなら書ける。『冬は手がかじかむ 庁舎の廊下が冷たい』とか」
「それ、十分です」
美月が端末で、追加フォームの画面を見せながら言う。
「もしスマホ使えるなら、こっちで丸だけ追加もできます。番号だけ入れて、チェックして送るだけ。難しければ、窓口で一緒にやります」
住民が頷き、鉛筆を握り直す。その様子を見て、勇輝は胸の中で小さく息を吐いた。声は、拾い方を間違えるとこぼれる。拾い方を整えると、自然に手が伸びる。
その瞬間、机の上の紙束がふわっと揺れ、葉の香りが立った。リラリがロビーの照明の陰から、ひょいっと顔を出した。いつの間に。妖精は移動が静かすぎる。
「ねえ、勇輝。短歌、分類してみた。十枚だけど、タグはこれがいいと思う」
リラリは小さな紙片に、丁寧に書いた文字を見せた。「交通」「庁舎環境」「案内・導線」「生活ルール」「窓口対応」「観光と交流」「安全」「子育て・教育」。分類は広すぎず、狭すぎず、担当課に繋ぎやすい。
勇輝は思わず感心する。
「ちゃんと、役所の構造に合わせてる」
「合わせた。編集は、相手の棚に本を戻すところまでが仕事だよ。バラバラに置いたら、誰も探せないから。役所の棚は大きいけど、ラベルがちゃんとある。そこに乗せるのが早い」
美月が目を丸くした。
「リラリさん、言い方は編集者ですけど、やってること、完全に業務設計ですね」
「編集って、設計だよ。読者の頭の中に道を引く。迷わない道。途中で諦めない道」
加奈が、少しだけ微笑む。
「……妖精界の人って、言葉の道を引くのが上手いね」
「ね。だから、短歌は残して」
リラリが素直に頼むみたいに言う。その頼み方が、さっきまでの勢いと違って、ちゃんと町の側を見ている。
「残す。ただし、守る。公開するなら同意。匿名化。選定は複数人。偏りの確認。それから、数字の結果も一緒に出す。短歌だけ飾って、現実の優先順位が見えなくなるのは避けたい」
リラリは真剣に頷いた。
「分かった。短歌は、飾りじゃなくて、根拠の横に置く。根拠を補強するために使う。それなら、編集者としても胸を張れる」
勇輝は掲示板の前で、改めてロビーを見渡した。人の流れが、止まっていない。止まっていないということは、現場が回っているということだ。回っているうちに、次の問題が来る。来る前に、今を片付ける。
◆夜・異世界経済部 執務室
庁舎の夜は、音が少ない。キーボードの打鍵音が、昼よりもはっきり聞こえる。紙をめくる音も、廊下に響きやすい。静けさが、仕事を進める味方にも、疲れを増やす敵にもなる時間帯だ。
勇輝の机の上には、訂正版の集計表の雛形が広がっていた。チェック項目の数字が、少しずつ戻り始めている。オンラインの追加フォームからも、ぽつぽつと回答が入ってきた。美月が用意した匿名番号が、紙とオンラインを繋いでいる。数字は、整列していくと急に安心感を持つ。整列すると、説明ができる。説明できると、予算の話ができる。予算の話ができると、動ける。
一方で、机の脇には短歌の束がある。紙の厚みが、生活の厚みだ。数字は町を動かす。短歌は町を覚えておく。どちらかだけでは、片手落ちになる。
美月が椅子に座り直し、端末の画面を回して見せた。
「主任、追加フォーム、今のところ回収分の半分くらいまで追いつきました。明日、窓口で声かけすると、もう少し上がると思います。あと、短歌のテーマ分類、仮で入力してみたら、交通と案内が突出してました。『待つ』と『迷う』が多い。加えて、庁舎の寒さもじわっと多いです」
「それは、今までの結果とも一致する。バスはずっと課題だし、案内は転移後に増えた要素が多い。寒さは、庁舎の構造が異界の気流と相性悪いのかもしれない。生活環境課にも回す」
加奈が、持ってきた差し入れの温かいお茶を机に置いた。コーヒーじゃない。夜のカフェインは、加奈が許さない。
「主任、今日の文面、良かったよ。短歌を否定しないで、でも必要なところは戻すって、ちゃんと両方を受け取ってた。あれ、住民が読むとき、安心すると思う」
「受け取らないと、町が分裂する。面白い人と、真面目な人で、互いに『分かってくれない』になる」
「面白い人も、真面目なんだよ。面白くしようとしてるだけで。楽しさって、責任感の出方が違うだけ」
そのとき、机の上の書類の隙間から、ふわっと葉の香りが立った。リラリが窓際の棚に腰掛けている。人間サイズの椅子は合わないらしく、棚の端が落ち着く場所らしい。
「ねえ、短歌集の話、続けていい? 広聴短歌選集、作るとしたら、タイトルはどうする? 『ひまわり市の声 五七五七七便り』とか。あと、巻末に『数字のページ』を付けるの、すごくいい。数字は地図の座標で、短歌は景色だよ」
美月が小さく噴き出しそうになり、口元を押さえた。
「……主任、絶対に誰かが『役所が短歌本出した』って言いますね。しかも、たぶん良い意味で」
「言われるだろうな。でも、悪いことじゃない。住民の言葉で町を残すのは、意味がある。『役所が勝手に語る』じゃなくて、『住民が語った』になる」
勇輝はそう言ってから、すぐに条件を付け足す。条件を付けるのは、冷たくするためじゃない。守るためだ。
「ただし、選集を作るなら、ルールは先に決める。掲載の同意。匿名化。選定は複数人。特定の層だけが採用されないように、偏りを見る。短歌の上手さだけで選ばない。テーマの多様性も見る。あと、短歌が苦手な人の声も、別の形で載せたい。一文の自由記述も、短いメモも、同じ『声』だから」
リラリは目を輝かせた。面白さの前に、仕組みの面白さを見ている目だ。
「うわ、最高。『上手い短歌』じゃなくて、『声の地図』を作るってことだよね。上手いだけ集めると、街が綺麗になりすぎて、困りごとが見えなくなるもん」
「地図、って言い方は好きだ。案内が増えれば迷いが減る。迷いが減れば、不満も減る。短歌が増えれば、住民の参加の温度が上がる。温度が上がっても、数字があれば優先順位がぶれない」
加奈が頷き、少しだけ首を傾げる。
「でも、温度が上がりすぎると、また別の困りごとが出るよね。例えば『短歌を書かないといけない空気』ができたら、それはそれで圧になる。だから、『書かなくていい』の方も、ちゃんと守る」
「だから、任意。何度でも言う。任意」
美月が指を立てた。
「『任意』って、目立つように書きます。小さく書くと、読まれない。あと、短歌が苦手な人のために、自由記述の例も出します。『困っていることを一文で』でもいいし、『良かったことを二文で』でもいい。短歌じゃなくても良いって、具体で示す。異界語のまま書いてもいい、って注釈も入れます。翻訳が必要な場合は、後で個別に確認する窓口を案内します」
勇輝は頷いた。具体で示す。そこが、今日の反省点でもある。曖昧な美しさは、仕掛ける人には楽しいが、受け取る人には時に不親切になる。
リラリが、棚の上で足をぶらぶらさせながら、少しだけ申し訳なさそうに言った。
「……ごめんね。私、楽しい方に寄せすぎた。役所の人って、楽しさを嫌うわけじゃないのに、楽しさに飲まれると困るんだね。飲まれると、声が欠ける」
「嫌ってない。むしろ、楽しさは助けになる。住民が協力してくれるなら、行政はそれを守りたい。でも、守りたいからこそ、形を整える。整えておけば、来年も続く」
勇輝は短歌の束を一枚だけ取り、机の端に置いた。そこには、こう書いてある。
『受付の
言葉ひとつで
肩ほどけ
帰り道まで
風がやわらぐ』
勇輝はその短歌を見て、ほんの少しだけ目を細めた。窓口の言葉ひとつで、生活の印象が変わる。数字だけでは見えにくいところだ。短歌は、そこを掴む。
「こういうのは、残したい。窓口の研修にも使える。『丁寧に』って言葉だけだと、人は想像できないけど、こういう言葉があると、想像できる。住民が何を『優しい』と感じたかが分かる」
加奈が静かに笑った。
「住民が教えてくれるんだね。役所のやり方だけじゃなくて、役所の届き方を。届き方って、数字には出にくいけど、確実に生活を変える」
美月が画面を閉じ、椅子にもたれた。
「主任、今日、変な日でしたけど、ちょっと良い日でした。短歌が残って、チェックも戻って、どっちも生きてる。しかも、住民が自分たちで『協力の仕方』を整えてくれた」
「良い着地だと思う。……ただし、油断しない。楽しいは、簡単に暴走する。暴走したら、また整える。その繰り返しだ」
「油断すると、何が起きます?」
「次は、俳句で来るかもしれない。あるいは、短歌にメロディが付くかもしれない」
口にしてから、勇輝は自分で笑ってしまった。美月も加奈も、つられて笑う。リラリはきょとんとして、それから得意げに胸を張った。
「メロディ、いいね。……でも、相談してからにする。今日で学んだ」
「それは絶対に」
笑いが落ち着いたあと、窓の外を見れば、湯けむりが夜の光に溶けていく。町は今日も回っている。人の声は、数字にも、歌にもなる。どちらも受け取って、どちらも守って、その上で、町を動かす。
勇輝は端末の画面に視線を戻し、入力欄に指を置いた。明日の会議の資料に、数字の速報と、短歌の代表例を添える。代表例は、同意を取ったものだけ。偏りが出ないように、テーマを散らす。読み手が「誰かの物語」だけで判断しないように、数字を先に置く。けれど数字だけで乾かないように、短歌を横に置く。
息を吸って、吐いて、指を動かす。
役所の仕事は、今日も静かに続く。けれど、その静けさの中に、確かに声の温度が残っている。




