第4話「解き放たれたもの――それは“呪い”?」
目の前の中年の男――死霊術師の、かなり強引な命令に対して、
なぜだか逆らえない、いや……もっと正確に言えば、
「これまでもずっと従ってきたような」そんな感覚がしていた。
まだ状況をまるっと受け入れられてはいない。
現実問題として、腕も足も、見慣れた自分のものじゃなくなっていて。
歩けばギシギシと音を立てる、薄くて乾いた“ミイラ男”。
目玉があったところには空虚な眼窩が映るだけで、その中には――怒りとか復讐とか、そういう言葉がいちばん似合いそうな、赤い炎がらんらんと燃えている。
口は...あいつのおかげで喋れるようにはなった。
でもしゃべるたびに、口の中から誰かが遠くでラップしてるみたいな残響がする。
俺の中にMCが住んでるのか? もしくは呪いのビートボックスか?
一歩、二歩……俺はぎこちなく足を運ぶ。
目の前の巨大なネズミは、今度は食料の山じゃなくて、動き出した俺の方をロックオンしている。
鼻をヒクヒクさせながら、牙をチラつかせ、あからさまに「何、見てんだ?ゴラ」と言わんばかりの顔だ。
その時だった。
*
空気が張り詰めた。透明な糸がピンと張られたように、静寂が空間を支配する。
目が合った。次の瞬間、背筋を冷たいものが這い上がり、無意識に足が一歩、また一歩と後退する。
……それでも、俺は止まらない。
期待に応えなければならないという、もはや義務感とも言える衝動が、がらんどうの頭を無理やり活性化させる。脳が働いている気配は微塵もないのに、体は戦おうとしていた。
――かなり逃げ腰ではある。
「……マズいかモナ」
そんな呟きが喉の奥から漏れた刹那。
「うワっ!!」
咄嗟に声を上げた次の瞬間――俺の体が、背後へと吹き飛ばされた。
背中から石の床に叩きつけられる。
地面の冷たさと硬さが、残酷なほど伝わってくる。
突進。あの化け物ネズミが、地を蹴って一直線に突っ込んできたのだ。
まさか、ここまでの破壊力があるとは思わなかった。
だが、よく考えれば当然だった。今の俺は“乾いた屍”――ミイラだ。
筋肉の大半は干からび、内臓も処理されている。
標本レベルの軽さだ。質量で押されたらひとたまりもない。
「ガンッ!」
無様な音を立てて、後頭部を石の台にぶつける。
そこは、ついさっきまで俺が寝かされていた場所だった。
視界が、白と黒のまだらにチカつき、暗転しかける。
...異世界のデカネズミ、こえーよ。
「おい、大丈夫か!?」
普段は冷静沈着そうな死霊術師の声に、わずかな焦りが混じっていた。
だが、それに応える余裕もない。
「いッテェ……」
かすれた声が喉奥から漏れる。縫いつけられた他人の声帯が、じわりと熱を帯びていた。
痛覚なんて本来もう機能してないはずなのに、人間だった頃の“クセ”だけが、俺に無意味な言葉を吐かせた。
「やはり、蘇生直後の戦闘は荷が重かったか……」
死霊術師が低く呟く。その表情は険しく、声に焦りが混じっている。
そして壁際へと歩み寄り、装飾の施された禍々しい杖へと手を伸ばす。
黒曜石のように艶のあるドクロを模した飾り、乾いた鳥の羽、獣骨……どこか原始宗教めいた悪趣味な一本。
それを手にする前に、と俺は必死に身を起こそうとした。
ぎこちない。関節という関節がギチギチと軋む音を立てる。
それでも、もどかしさが俺の背を押す。
ビッグラットは、保存食の山と俺とを見比べ、鋭い鼻をひくつかせる。
赤黒い双眸が、再びこちらを射抜く。
今にも、二撃目を繰り出すつもりだ。
「……王だナンだ、言わレテも……」
少しの悔しさが、やがて黒い炎のように胸の奥で燻った。
――俺は、何もできないのか?
死霊術師が杖を構え、何やら術を使おうとした、ちょうどその瞬間だった。
「ギュヂュウウッ!!」
けたたましい悲鳴が、アジトの空気を裂いた。
「っ!?!」
ミイラ男も、死霊術師も、一瞬、息を呑む。
巨大なネズミの全身が、突如として黒い靄に包まれた。
闇そのものが具現化したかのような濃密な黒。
それはビッグラットを覆い尽くし、肉と毛皮のすべてを蝕んでいく。
ビッグラットは痙攣し、喉の奥でひときわ高い悲鳴をあげ、そして――崩れ落ちた。
死んだ。
あれほどの巨体が。
何も触れられた様子もないのに、魂ごと燃え尽きたみたいに、動かなくなっていた。
「……すゴイ…ナ」
ようやく上半身を起こせた俺は、思わず呟いていた。
「今ノハ……あんたが..やったのか?」
そう問いかけると、返ってきた答えは予想外だった。
「いや、私は何もしていない」
「……エ?」
死霊術師は、顔を伏せたままビッグラットの亡骸を凝視していた。
額には見たこともないほどの汗が浮かび、呼吸が浅い。
その背中が、ごく僅かに震えている。
「即死させるような……死霊術など、私は知らん。……私は、上級霊を召喚して対処しようとしただけだ……これは……」
彼は杖を強く握りしめ、かすれるように続けた。
「これは……別の“何か”だ……」
声は、驚愕と怯えに満ちていた。