第3話「ネズミってレベルじゃねえぞ」
「ようし、成功だな!」
男は唇を吊り上げた。その笑みには満足以上のもの――狂おしいほどの歓喜が宿り、瞳は炎のようにぎらついていた。
「……コレハ……ミイラ……?」
干からびた古楽器のリードが無理に鳴らされたような声の俺の問いに
「そうだとも!」
男が声を高めた。感情を抑えきれない様子で、喜びと誇りが入り混じっている。
「お前は、我が手によって永遠の眠りから蘇った古代王のミイラだ!!」
……なるほど、いよいよ現実感が失せてきた。
「オレハ……オレノナハ……カワク……ミクル」
言いながら、自分の口の動きがもどかしい。唇が乾燥しているとかそんなレベルじゃない。
この身体にぜんぜん馴染んでいない。けれど、名乗らずにはいられなかった。自分が何者で、何を失い、いま何に変わってしまったのかを確かめたくて。
男の表情が一瞬曇った。
「……カワク、ミクル? なんだそれは。名か? だが、お前は……エテメノタヘン王のミイラのはずだぞ?」
エテ……なに?
「エテメノ……タヘン……?」
まるで耳慣れない響きに喉がついてこない。
「そうだ……“砂に王座を築きし者”――国が乱れ、王家の血脈が絶えかけた時代に現れた、最後の光……と、仲間の考古学者は言っていた。私は、その墓を正しく暴き、ここへ持ち帰ったのだ」
男の語りには、一切の迷いがなかった。信仰にも似た確信。
――自分が盗んだのは、“王そのもの”であると。
……けど、俺の記憶には、そんな王の名前は一度たりとも出てこない。
ツタンカーメン、クフ王、ラムセス二世、ヘテプセケメイ、トトメス三世──
頭の中に浮かぶのは、エジプト博物館の展示パネルで何度も見てきた顔ぶればかりだ。
古代王朝の系譜、ナイル川中流域の王墓群、アビドス神殿の王名表。
……エテメノタヘンなんて、資料にも影も形もない。
「聞イタことガない。その王ハ……本当ニ存在したノカ?」
「何?」
その瞬間、男の瞳がわずかに鋭さを帯びた。洞察と警戒、あるいは期待。
「……ふむ。魂だけが、別の者に入れ替わっている、ということか。……なるほど、そういう事例は古文書にも一例だけ記されていたな」
彼は短く顎に手を当て、低く唸るように呟く。
「だとすれば――貴様は何者だ?」
沈黙が落ちる。
答えるべきなのは、俺だ。けれど──俺自身も、よくわからない。
「オレハ...ただの人間ダった。日本人…ワカルか?博物館のバイトをシテいた。二十三歳の……たダノ男だよ。たぶん、ここトハ違う“世界”の……?」
言葉が途切れる。喉が詰まる。
「……死んダ、はズダ。トラックに……轢かレテ」
それを聞いた男の目が細くなり、鋭い光が宿る。
「──異界の出身か……!」
空気が一瞬、張り詰める。
「なるほど……なるほど。神王の魂ではない、だが異界の魂。……これは、予想外の成果だ。魂の器としての身体は“王のもの”。魂は“別次元”。融合すれば、予想を遥かに超える変化が現れるかもしれん」
男はゆっくりと歩み寄り、俺の顔の前まで来る。
一拍間を置いてから、口の端をゆっくりと持ち上げた。理解の色を浮かべたのだろうか、それとも興奮か。
「……異界の魂が、神王の器に宿ったか。これは、偶然か、必然か……」
呟きながら、男は自らの手を見下ろす。何かを考え込むように。
「お前が“神王”でなかったことは誤算だが……魂が異界のものであるなら、それはそれで面白い実験材料になる」
冷たい言葉。だが、そこにわずかな敬意のようなものが混じっていた。
「面白いぞ。お前はまだ何者でもないが――これから何者にもなれる可能性を持っている。……フフ、まるで神々の悪戯だな」
俺は、息を飲んだ。
この世界に来て、ミイラとして目覚めて、言葉も満足に話せなかったくせに、今、まるで“世界に何か問われている”ような気がした。
いま、俺は“誰か別の王”として、蘇ってしまったのかもしれない。
今度は俺が男に質問したくなる。ここはどこなのか、なんで俺はミイラになったのか。
「アノッ」
俺がそれを聞こうとした瞬間、男が急に入り口のほうを振り向き、身構えた。
「……!?」
目がある部分の包帯をゆっくりと左手で避け、視界をはっきりさせる。
男の顔が歪む。そこにあったのは、かつて学生時代、飲食店のバックヤードで見かけて絶叫しかけた、あの“悪夢”。
灰褐色の、不潔な毛並みのねずみが、口を開かずとも喉の奥でくぐもった威嚇音を上げながら、ゆっくりと這い出てきていた。
いや、ねずみ……ってレベルじゃない。
体高は60センチを超え、肩幅は中型犬並み。尾を含めた全長は、まるで電柱一本分。目には理性の欠片もなく、腹を空かせた野性だけが宿っている。
「チッ……入口を塞ぐのを忘れていた。……巨大鼠か、この血肉の匂いに釣られてきたな?貪欲な魔獣め。」
男はちらりと視線を動かし、先ほど声帯を抜かれ、まるで捌かれた魚のように体液を撒き散らしている死体を見やる。
俺はごくりと唾を飲む。.....乾き切った肉体じゃあ唾は一滴も出ないんだけど。
「この狭い地下室で暴れられては厄介だな……だが、悪くない試金石でもある」
「エテメノタヘン王のミイラよ!お前の力を試す時だ。眼前の獣を屠れ!」
「ハ?」
何言ってんのこの人。
まだこっち、ミイラになった事実すら完全に受け止めきれてないんですけど。
喉に他人の声帯縫いつけられてまだ数分ですよ。リハビリ期間ないんですかね...?
だが、男の視線は真剣だった。俺を見ているのではない。
――この<“魂”>に、期待しているのだ。
ゆっくりと不気味な包帯の集合体が立ち上がる。
乾燥した骨の摩擦音が耳にまとわりつき、関節がきしむ。
感覚はまだ半分も戻っていない。けれど、ここで逃げたら――
何か、もっと大きなものを失いそうだった。
「……あア、ワカったよ...」
腐っても(乾燥してるけど)王の体に宿る自負。
そして、自分がかつていた世界のエジプトの王や神々へのリスペクトは今も変わらない。
死霊術師には聞きたいこともある。「できません」などと言って、失望して捨てられてもマズい。
眼前のビッグラットを睨む。
奴も、こちらの視線に応えるように歯を剥き、鼻をヒクつかせていた。
背後に転がる保存食の山と、まだ湿った死体。――なるほど、欲しいのは、餌か。
「さぁ!」「やれ!」などという、俺の主人の掛け声が響く中、
俺はぎこちなく、恐怖に向かってゆっくりと歩み出した。