第39話 繭
やばい、やばいやばい。
身を守る手段がなくなった。
焦りで変な汗が出てくる。
黒い手が四方八方から攻め立ててくる。
気のせいか勢いが強まっている気がする。
今はなんとか避けられているが、どこかで限界が来るだろう。
俺は必死に逃げながら大声を出す。
「棺崎さん! 佐奈っ! どっちでもいいから助けてくれェッ!」
返事はない。
たぶん離れた場所にいるのだ。
くそ、肝心な時に役に立たない。
そうだ、美夜子だ。
あの悪霊がいるじゃないか。
そもそもの目的は美夜子とここの霊をぶつけることなのだから、そろそろ登場してもらわないと困る。
「おい美夜子! どこにいるんだ、早く出てこい! こいつらをぶっ殺してくれ!」
黒い手が俺の腕にくっ付いた。
ひんやりとした感触の後、焼けるような痛みが襲ってくる。
俺は腕を壁に擦り付けて無理やり剥がした。
触れられた腕は爛れて血が滲んでいる。
尚も俺は美夜子に呼びかけた。
「他の霊に奪われるぞ! お前はそれでいいのかっ!?」
前方の廊下が黒い手で塞がった。
俺はほとんど減速せずに廊下を曲がる。
後ろで轟音が響き渡った。
壁を吹っ飛ばして黒い手の塊が溢れ出したのだ。
奴らは廊下を水浸しにしながら迫ってくる。
絶望的な光景を前に、俺は焦りより苛立ちを覚えた。
「ふっざけんなよクソ女! いつも都合の良い時だけ――」
唐突に床が崩れて俺は落下した。
その先には黒い手が密集して待っていた。
(あ、死んだ)
全身が冷たい感触に包まれた。
ぼやけた視界が絶えず回転して平衡感覚を失う。
黒い手と共にどこかへ流されていくのが分かった。
息苦しさを覚えて懸命にもがく。
そうして気が付くと俺は露天風呂にいた。
苔だらけの温泉に浮かんでいる。
湯が湧き出す中心部には、巨大な黒い繭があった。
俺は恐る恐る近寄る。
(まさか、喰呪荘の霊の本体か……?)
とんでもない場所に来てしまった。
今すぐ逃げるべきか。
しかし、ここからさらに追いかけられたら詰みだ。
逃げ切れる自信がない。
考えを変えてみよう。
これは最大のチャンスではないか。
喰呪荘の霊にとって、明らかに重要そうな物体が目の前にあるのだ。
反撃するならここしかない。
俺は周囲を見回し、尖った木材を拾った。
ちょうどバットくらいのサイズで握りやすい。
俺はずぶ濡れの身体で木材を持ち上げ、一気に振り下ろす。
「くたばれ」
木材の先端が繭に突き刺さった。
表面がぼこぼこと泡立ち、泡の一つひとつが手の形に変貌する。
そして俺に掴みかかってきた。
「うおおああああああっ!」
こうなったら止められない。
俺は掴まれながらも繭を滅多刺しにする。
割れ目に指をかけ、そこから力任せに引き裂いた。
ぶちぶちと繊維が千切れて内部が露わとなる。
繭の中には、黒い粘液に塗れた裸の美夜子がいた。
美夜子は真顔でこちらを見上げてくる。
その手は粘液の塊を抱いていた。
よく見ると胎児のような形だった。
「……っ」
俺は反射的に木材を掲げ、繭の中に突き立てる。
力いっぱいに押し込み、ぐりぐりと念入りに掻き混ぜた。
木材を離した俺は顔面蒼白で後ずさる。
刹那、繭から粘液が噴き出した。
俺の視界は闇に染まった。




