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「サングラスの子は大路くんの方に行ったみたいだね」
「もう1人の方も帰ってくれたら、僕も帰れたのかなと思うと、仕事熱心で結構な事だね」
確かカリナと言ったか。仕事人とは彼女に与えるべき称号なのではないだろうか。伊認は遠くから同情の視線を送った。
「案外、あなたに好意を持っているのかも」
「僕はその言葉には合意できないかな」
亜夢莉が驚いた様に目を丸くし、伊認は白けた様に肩を竦めた。
伊認には一つ一つの言動に対して感情を示す亜夢莉が、演技として作った感情に思えてならなかった。
「彼女はあなたの知ってる人なの?」
「彼女も大路と君の被害者だよ。大路の浮気を疑っているサングラスガールから、浮気調査を依頼されてるんだ」
「すごーい。まるで探偵みたいね」
亜夢莉は音が出ない力加減で小さく拍手をする。伊認は鼻で笑った。
「浮気調査と言えばそう聞こえるかもね。でもさ、一般人がやったらストーカーだよ」
「あー、それもそうね。なんだか可哀想だし、巻き込んじゃおうか」
「巻き込む?何をする気?もう既に巻き込まれている訳だけど」
伊認の疑問には答えずに、亜夢莉が足早に来た道を戻っていく。
数分後には、ストーカーが一転、セールスに捕まった被害者になったかの様であった。
香利奈が亜夢莉に手首を掴まれる。香利奈は幾度も首を横に振り、嫌気を伴った表情を浮かべる。
伊認は、人気のアイドルに向ける顔ではないな、と思った。
「連れて来ちゃった」
「お茶目に言う台詞かい? それ」
無理やり連れてこられた香利奈は、不機嫌さを隠す事なく伊認を睨み付けた。
「君も僕を睨むのは筋とお門が違うんじゃない?」
「じゃあこの人を睨めば良いわけ?」
「えー? 彼氏なのに彼女を守ってくれないのー?」
「僕は彼氏彼女の関係に集団的自衛権を発揮するタイプではないんだ」
きっと集団的自衛権を発揮できる様な相手こそが、彼氏彼女になる相手なのだろうというのは伊認の持論だ。
「それで、可哀想なストーカーさん。あなたのお名前は?」
「名乗る必要なんてないわ。あなたは本当に彼と付き合っているの? それさえ分かれば満足よ。可愛い彼女さん」
「可愛いだって! ほら、彼女が褒められて嬉しくないの、彼氏くん?」
「わーい。嬉しいなあ」
香利奈が伊認を睨みつけ、伊認は不満げな表情を返す。亜夢莉は亜夢莉で、伊認に対して呆れた目線を覗かせていた。
「つまんないの。ね、あなたを連れて来た理由もわかるでしょ? 彼と2人じゃ楽しいデートにならないの」
「それって、彼氏彼女の関係として破綻してるんじゃないかしら」
「そ。破綻しちゃってる。だって、わたしと彼は交際関係にないんだもん」
「あれ、それ話すんだ」
亜夢莉があっさりと香利奈に真実を話した事で、伊認は拍子抜けする。
「だって、隠す様な事じゃないからね。まさか、偶然声を掛けた相手に彼女がいて、それを隠してるなんて知らなかったし」
「君は自分がアイドルだっていう自覚があるのかないのか、よくわからないね」
「アイドル?」
香利奈が伊認の言葉を受けて、怪訝な表情を浮かべる。
亜夢莉は見えている目だけで笑って、香利奈に向けてマスクを外した。
「実はわたし、亜夢莉でしたー」
亜夢莉がそれだけ言って、一瞬でマスクを付け直す。香利奈は何度か目を瞬かせた後に思案した。
「あむり、あむり……。アイドル?ああ、アムリンね」
「反応薄いよ!自信無くすなー」
「え、あ、ごめんなさい」
あからさまに肩を落とした亜夢莉に、ほとんど反射で伊認はフォローを入れる事にした。
「いや、驚かない彼女が異常なんだと思うよ」
「君だって初見は、学校で見かけた誰かだっけ、みたいな反応だったのに、よく自分を棚上げできるね」
フォローを入れたはずなのに反撃を受けた事に対し、伊認は理解し難いといった風な表情を返す。
「勝手にわたしのことを異常だなんて言って、あなただっておかしいんじゃない」
二人から矛先を向けられては流石に不利だと考えた伊認は、それぞれに両手を向けて味方を増やす事にした。
「ほら、無益な争いが起きようとしているよ。こういう時、アイドルって和を為そうとするんじゃないの?」
「わたしはファン以外には集団的自衛権を行使しない主義だから」
「なら今からファンになるよ」
薄い笑いを浮かべる伊認に、亜夢莉と香利奈は乾いた視線が返ってくる。
それでも、矛の先から針の先くらいにはなったかなと考え、伊認は話題を変えるのも兼ねて亜夢莉に疑問を投げ掛けた。
「ところで、彼女にも身分を明かしたのなら知りたいんだけど、どうして大路と付き合い始めたの?」
「知りたい?」
「知りたいな。教えてくれる?」
「どうしよっかなー」
人差し指を頬に当ててとぼけた表情の亜夢莉に、焦れたのは香利奈が先だった。
「教えるつもりがないなら、私はあなたと大路くんの関係をSNSに投稿するわ」
「なら僕はそれを拡散するお手伝いをしよう」
「ちょちょっ!それは困る!わかったよ、教えるよー」
またもやオーバーリアクションか、と感じた伊認は疑わしげな目を向けるが、香利奈の溜飲は多少下がった様で腕を組んで聞く態度を取った。
亜夢莉は帽子を目深にしてから話し始める。
「えっとねー、よくある理由だよ。演技の練習ってやつ」
「へえ、浮気の演技?それとも不倫の演技かしら」
「違う違う!純情少女の純愛演技だよー。もう愛に殉じる感じ!」
「それで一般人と恋人ごっこかぁ。向いてないんじゃない?辞めたら?」
傷つけるつもりはないが、今の発言は傷ついてもおかしくはないか。発言してから、伊認は思い直した。
しかし、亜夢莉の表情は帽子の鍔に隠れていて窺えない。辛うじて見える口元には、笑みを浮かべている様だった。
「そんな訳にはいかないよー。遂に女優としての方向性も開けるってマネージャーが取ってきた仕事だし、お母さんも喜んでるからね」
「あなたは?」
「わたし?なにが?」
香利奈の質問を受けて、亜夢莉は帽子の鍔を右に回し、香利奈と見合った。
「マネージャーが取ってきて、お母さんが喜ぶ。あなたの意思が無いみたい」
「あー、それね。そういう台詞が自然に言えると、愛に殉じそうな感じしない?」
「相手に尽くすタイプってやつか。それが大路の性癖だから相手として丁度良かったとか?」
「その順番だと、わたしはどういう経緯で大路くんの性癖を知ったの?って事にならない?」
亜夢莉が今度は鍔を左に回して伊認と向き合う。
なんだその鍔は。センサーか何かか。
自身のくだらない感想に対して、伊認は鼻で笑う。それが質問に対する伊認の感想だと思ったのか、亜夢莉は胡乱げな表情を向けた。
「なんで笑ったの?」
「いや、くだらないなと思って」
「あはは。確かにくだらない話だったね」
亜夢莉は勘違いしたまま伊認の言葉を受け取った。
しかし、目深にした帽子の中から、横目に伊認の様子を伺っている事に香利奈は気づいた。
「あのね、大路くんと会ったのは偶然だよ。ライブの下見でこの辺りに来て出会ったの」
「下見って、ステージが対象なんじゃないの?」
「そこはさ、恋人ごっこする相手探しの口実だよ。それで、部活帰りの大路くんにアプローチしたわけ。彼って、真っ直ぐな感じするでしょ?」
「真っ直ぐと言えば真っ直ぐだね。交際相手がいながらアイドルと浮気するなんてところは特に」
「欲望に忠実ってわけね」
伊認の皮肉に反応したのは香利奈だった。
伊認も仮にも友達である人間の評価がそれでは居心地が悪いと感じたが、いい気味だと思い直し擁護しない事にした。
「その言い方だと、大路くんが可哀想じゃない?でも、ま、そんな感じで期間限定だからさ。ここでのライブが終わる頃には、関係も切れてるよ」
代わりに亜夢莉から援護が入った為、伊認は楽になりたくて便乗する。
「らしいよ。香利奈さん。あと数日くらい、目を瞑ってあげないかい?」
仕事人としての矜持でもなんでもなく、ただ面倒事がこれで片付くなら万々歳だと、伊認の期待が込もった提案だ。
「……そうね。安澄にある程度は話しても良いなら、それでいいわ」
「良いよ良いよ。彼女さんがいるならそうした方が良いもん。大路くんが可哀想だしね」
「可哀想?自業自得だよ。身から出た錆だ」
匂わせを隠すなんて事に付き合わされた割に、着地点は正直に話す事になるという結果だ。伊認は時間の無駄だった様な気がして不満を露わにする。
「安澄には別れた方が良いんじゃないかって話しておくわ。わたしは修羅場にならなかっただけ、良かったと思っておく」
「まあ、僕もそれはそうだよ」
それに、ライブのチケットも手に入るし、と思い出すと、伊認は働きに対して悪くない対価を得られる様な気がした。
「じゃあ、これで一件落着! わたしもオフだからさ、このまま一緒に遊んじゃお?」
「わーい。アイドルとデートだー」
棒読みで喜ぶ伊認に対して、香利奈は肩を竦め、二人と足並みを外す。
「わたしは邪魔みたいだから帰るわね」
「いやいや、帰らないでよ。僕と彼女を二人きりにするつもり?」
伊認が慌てて香利奈を止める。
香利奈は突き刺す様な視線を返した。
「なに?ハーレム願望でもあるの?」
「いや、そんな事はないけど、なんかここで二人でデートすると僕の潔白感が薄れそうで嫌だから、三人でいて欲しい」
交際相手が居るわけでもないのに、大路の様な後ろめたさを抱える様な気がして、伊認は香利奈にお願いする。
「それにほら、アイドルとデートできるなんて滅多にないよ」
「そうだよ。わたし、アイドルなんだよ。お金払って観にくる人もいるのに、こんな怪しい押し売りみたいな扱いされるんだって、ちょっとショックだよ」
「……わかった」
香利奈は嫌そうな表情を浮かべつつも、仕方なく頷く。
どちらかと言えば、伊認と二人きりで遊ぶ事になる亜夢莉に同情しての事だった。
「気が済むまでは付き合うわ」