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看板もなく、由来の不明なモニュメントの前に伊認は立ち尽くしていた。
まさか、初めてのデート体験が、他人のデートの付き添いになるとは思わなかった。
誰かと電話している男性や、スマホの画面を凝視している少年達を見て、場違い感を覚えながら伊認は内心で独りごちた。
伊認がそのまま、能面の様な表情を浮かべて大路の顔を探していると、見覚えのある顔が手を上げながら近づいてきた。
「悪い!待ったか?」
「いや。そんなに待ってない」
しかも、同性と待っただの待っていないだの、デートといえばこのやり取り、みたいなテンプレートをなぞるとは。
伊認は乾いた笑いを発してから、大路が一人である事を改めて確認し、自身のスマホで現在時刻を見た。
「彼女、いや、浮気相手さんも、まだ来ていない様だね」
「わざわざ言い直すなよ」
「事実確認は大事な事だよ。浮気相手さんも、まだ来ていない様だね」
「2回も言うなよ」
「大事な事は2回言っておくのが様式美でしょ?」
「聞いた事ねえ」
大路と無駄口を叩いても面白味を感じられない事を理解しつつ、時間を浪費する為に伊認は淡々と返す。
「僕は予定した時間に遅れる様な人間は好きになれないな。僕は予定した時間に遅れる様な人間は好きになれないな」
「大事な事だから2回言ったのか?」
「大事な事だから2回言ったんだよ」
「そうか。遅れた理由は、会ったらわかる。彼女は忙しい身分だからな。彼女は忙しい身分だからな」
伊認は大路の意趣返しに首を振る。
「それは大事な事なのかい?」
「大事な事だから2回言ったんだよ」
「僕には大事な事だと思えないけどね」
忙しい身分だというのが、会ったらわかるというのはどういう事なのか。伊認は暇つぶしに想像してみる事にした。
身体に時計でも巻きつけているのかな?だとしたら、最先端のファッションだと言われても納得してしまいそうだ。
それとも、不思議の国のアリスよろしく、懐中時計を持って走り回っているのだろうか。なるほど、それなら忙しい身分だというのが会っただけで理解出来よう。
「お待たせ!」
そんな伊認の想像を掻き消す様に、明朗な声の持ち主が現れた。持ち主の姿に、伊認は明朗さを感じられなかったが。
黒一色に、何かのブランドのロゴが入ったキャップを被り、口も黒いマスクで覆っている。キャップから漏れている髪は長く整っている。
白いシャツに、青いラインが入ったジャンパーを羽織っていて、紐が黒いリュックを背負っていた。
登山か運動でもするのかと思う様な服装だが、パンツはジーンズで、鍛えられた感じのない、すらっとした細身の足を感じさせる。
「君、上から下までしっかり眺めてくるね。趣味はファッションチェック?」
まじまじと見てくる伊認に対し、遅れて現れた女子は、不快感のこもっていない声で尋ねた。
「いや、会ったら忙しい身分だというのがわかるってのは、一体どんな姿をしているのかと思ってね。見たところ、ベルトが時計という訳でもなさそうだけど」
伊認の返答に女子は目を丸くしたが、その目元はすぐに緩む。そのまま軽くステップを踏んで、大路に向く。
「大路くん、面白い友達がいるんだね」
「いや、ははは!参ったなあ!いやあ、また会えて嬉しいです!」
伊認は大路の緊張した様な、裏返った様な声に疑問を覚えた。大路は決して、アガリ症という事はない。
運動部で大会の場数は踏んでいるはずだし、あまり色気があるわけでもないスポーティな少女に、そこまで緊張する必要もないはずだ。
伊認はその点での疑問を覚えたが、別の疑問から解消する事にした。
「で、結局、会ったらわかるってのは?」
「うーん。わたしもまだまだかなあ」
「いや!コイツがモノを知らないだけですよ!すみません!」
「いいよいいよ、気にしないで。こうしたらわかるかな?」
そう言って大路の浮気相手は、目深にした帽子の鍔をあげるとマスクを外した。
伊認は可視範囲が少し増えた顔に見覚えがあった。しかし、それを思い出すことができない。
「なんとなく、知ってる様な気がする。何度か授業が一緒だった?」
「マジかよお前!?アムリンだぞ!?」
「しっ!しーー!」
「あ、ご、ごめん」
アムリン。大路のあげた呼び名を聞いた伊認はどこぞのゆるキャラかと思ったが、その響きと態度から、ようやく記憶と繋がった。
「亜夢莉さんか。最近、学校の近くでライブを予定してるっていう」
亜夢莉、通称アムリンは、伊認の知る限り、ソロのアイドルだ。
最初は、歌が上手いアイドルとして話題になり、その後にテレビでの露出が増えていった。
SNSで関連ワードがトレンドに入っているのを伊認も何度か見た。平日の夜はネットで短時間の配信をしているようで、その配信タイトルがトレンドに入っていたのだ。
「なるほどね。確かに多忙な身分だ。それに、彼女を差し置いて浮気したいって気持ちも理解できたよ」
「わたしとしては、彼女さんに申し訳ないけどね」
伊認でも読み取れる程の罪悪感を浮かべた亜夢莉の表情は、伊認からすると演技感が拭えなかった。
「ああ。安澄には、本当に申し訳ないと思ってる。それに、安澄に気づかれそうだからって、誤魔化す方法を一緒に考えてくれているアムリンにも」
「いや、全くの無関係なのに巻き込まれた僕にこそ、申し訳なさを覚えて欲しいね」
今回は大事な事だけど2回言わないでおく。
そう伊認は心の中で呟きつつ、浮気相手がアイドルという事実は、大路という人間が匂わせをしてしまった動機を納得させた。
僕はさして興味がない相手だし、むしろ好きなバンドのライブの機会が失われたと、恨み言の相手ですらあったわけだけど。
「ところで、大路くんの予想は当たったみたい。勘の鋭い彼女さんだね」
「うぇ?」
間の抜けた声を上げた大路に、亜夢莉はクスリと笑った。大路には薬効もありそうな笑い声だなと伊認は苦笑した。
「わたし、日頃から自分を見る目には敏感でさ。後ろの方から、視線を感じるよ」
亜夢莉は、キャップの鍔を掴んだまま、首だけ左後方へわずかに捻った。
「あれかな。遠くで、こっちの方を見てる女子が二人いる。わー、もしかして大路くんってプレイボーイ?」
「いや、彼女は一人だけです!プレイボールならしますけどね!」
「大路、つまんないよそれ。一人は、昨日教室に乗り込んで来た子だね」
伊認ら3人の視線の先には、2人の女子がいた。
一人は変装のつもりだろうか、サングラスを掛けている。伊認にはむしろ目立つ様な気もして、思わず亜夢莉をチラと見る。
亜夢莉の姿はナチュラルな変装と感じられた。スポーティな女子だとしか思えないな、と伊認はこっそり感嘆した。
そして、伊認にも見覚えがあるもう一人の女子は、少し不機嫌な様子だった。
彼女は伊認たちから目を逸らした後、逃げ場を探す様に空を見上げていた。
「安澄!」
小声で叫ぶという大路の器用な行為に驚きつつ、伊認は認識を合わせる。
「サングラスの方が彼女か」
「彼女さんの前で堂々とデートする訳にもいかないね。二手に分かれよっか」
「仕方ありません。それしかないですね。コイツの名前はイミトです。よろしくお願いします」
「いや、本当にそれしかない?」
望まぬデートの付き添いから、望まぬ相手とのデートに状況が変わった上で、巻き込んで来た当人が不在の状況。
それっておかしくないか?
伊認は諦めの極致から声に出さずツッコミを入れた。
「シチュエーションはこう。アイドルの彼女が出来たけど、それが恥ずかしくて言い出せないイミトくん」
「方や浮気相手との匂わせを隠せない大路くん」
突如として降って湧いた設定に、僕は合いの手を挟むくらいしか出来そうにない。
伊認の諦めの精神は、それがせめてもの足掻きかであるかの様に、亜夢莉への茶化しとなって表れた。
「そんなイミトくん。今日はデートだけど二人きりが恥ずかしいシャイボーイ。友達に付き添いを頼んだの」
「そんな大路くん。浮気相手とのデートだけど二人の女子がついてきたプレイボーイ」
「でもデートはやっぱり二人きりじゃないとね。そこで友達とはここで別れます、って感じでOK?」
「良いと思いますが、伊認の合いの手はなんだ!俺はプレイボーイじゃなくてプレイボールだって言ったろ?」
「いや、大路はボールでもないよ。ボールかボーイで言ったらボーイでしょ」
「プレイしないボーイって訳ね」
納得した様に頷く亜夢莉の姿に、大路は反論しようとして、言葉を飲み込んだ。
ここで返すに適切な言葉が見つからなかったんだろうと伊認は判断した。
「とりあえず、状況は理解したよ。僕はシャイボーイって訳だ。きゃあ、恥ずかしい」
「シャイボーイは『きゃあ、恥ずかしい』なんて言わないし、それはボーイってより棒読みね」
どうやら僕はシャイボーイではなく、シャイな棒読みを披露してしまった様だ。きゃあ、恥ずかしい。
伊認が心の声すら棒読みでいると、大路が呆れ果てた様な表情を伊認に向ける。
「アイドルとデートなんだぜ?もっと喜んだらどうだ」
「大路は総理大臣とデートだ、って言われて喜べる?」
「おっさんと女の子じゃ全然違うだろ!」
予想よりも憤慨した声が返ってきた為に、伊認は価値観を補足する事にした。
「僕だって、0か1かとは言わないよ。でもさ、アイドルとはいえ、興味のない相手だったら喜ぶ必要もないんだよ」
「大路くんの友達って、随分と冷めた子なんだね。これはこれで新鮮」
「はっはっは!夏には重宝しますよ!」
一転して機嫌の良くなった大路に、伊認は凍えた溜息を吐いた。
夏に冷める程度では新鮮な食品の保存には向いていないだろう。むしろ夏こそは、こんな不快感極まる湿度の高い事柄には巻き込まないで欲しい。
まだ見ぬ未来への望みを述べたところで、伊認は逃れられない現実を直視する事にした。
「僕は重宝される気はないけど、そろそろ諜報している彼女らを気にした方が良いんじゃない?」
「安澄……。そうだな。悪いが、アムリンの事、任せるぜ!」
「それは、あー、うん。程々に」
任せるなんて言葉はマネージャーとか親とかが言う台詞であって、浮気相手の言葉としてはおかしいんじゃないか、というのを伊認は思うに留める事にした。
その甲斐あってか、大きく手を振って離れていく大路を見て、伊認は貝になってしまおうと考えた。
僕がどれだけの言葉を表に出さないでいるのかと。
貝にとっては日常の様な想いを馳せる伊認の顔を、亜夢莉が覗き込む。
「じゃ、行こっか。手でも繋ごうか?」
どうやら、伊認が物言わぬ貝になる事は許されないようだった。
「後が怖いから辞めておくよ」
フリとはいえ、人気のアイドルに手を出して、ファンに殺されかける様な地獄とは遭遇したくない。
伊認は網の上で焼かれる自身の姿を想像し、ブルリと身体を震わせた。