償いのヴァランクロス
その日も、円形闘技場には多くの市民が詰めかけていた。客席を備えたレンガ造りの建物の中に、ウールや麻を巻きつけた人々がどんどん吸い込まれていく。
ほとんどすべての席が埋まった後、一番高い位置に設けられた席の奥から、明らかに他の人間とは風体の異なる男が現れる。紫色に染められたシルクで身を包み、頭には銀の冠を乗せたその男が右手を挙げると、闘技場は静寂に包まれた。
「ヴァラルの民よ。この天高い日に皆の顔を見られたことを、嬉しく思う。ここに第三回ヴァランクロス・昼の部の開催を宣言する」
惜しみない拍手と歓声を浴び、男は口角を上げる。彼はこの国の王子だった。
「さて、この炎天下に余計な前置きは不要だ。早速、本日の栄えある『一人目』にご入場いただこう」
王子から見て左側にある鉄格子が開き、二人の衛兵が入って来る。槍を垂直に構え、背筋をピンと正した彼らとは対照的に、真ん中にいる男は深くうなだれ、ひどくみすぼらしい恰好をしていた。
「見たまえ、彼の手足に不自由をもたらしている黄金の拘束具を。あれこそ劣情に駆られ、街で三人ものか弱き女性を襲った暴漢の証だ。若く、穢れなき彼女たちの魂を打ち砕いた罪、万死に値する!」
同意の嵐が競技場を揺らした。石ころや花瓶、オリーブの種などが中心にいる男めがけて投げ込まれる。
「しかし」
王子は右手で群衆を制した。
「神が我々にパンを与えたように、我々も彼に希望を与えなければならない。皆に問おう……この男がおぞましい怪物の牙を逃れ、勇敢にもそれを打ち倒した暁には、彼を再び、この国の一員として受け入れてもらえるだろうか!」
一転、人々は手のひらを返したように歓声を上げる。四肢の自由が奪われている罪人の前で、王子は両手を高く掲げた。
「ありがとう。我々は彼を愛し、その闘いぶりを寛大な心で見届けようではないか」
その言葉を合図と受け取ったのか、罪人を連れてきた衛兵たちが入場口へと戻っていく。嵐の前の戸締りのごとく、彼らは鉄格子を固く閉ざした。
「罪人。名をパパルと申す者。前に出よ」
名前を呼ばれた男は、その指示に従う。純金製の足かせとは関係なく、その足取りは重い。
「問おう。パパル……旧語で『誇り』という意味がある名前を持ちながら、なぜ貴様は女に手をかけた?」
一帯は深い沈黙に覆われる。観客――特に男性陣の多くが生唾を飲む中、王子はゆっくりと口を開いた。
「……酒を飲んでいたから」
それは、大多数が望んでいた答えではなかったのだろう。怒号とともに、またしても彼に物が投げつけられる。飛んできた落花生が、今度はその頭を直撃した。
「それは背景に過ぎない。貴様が最初の女に『触れた』理由を、隠さずに述べよ」
冠の位置を整えながら、王子はもう一度答えを促す。
「……胸が大きかったから」
緊張と緩和。ぼそりとしたその一言で、会場はどっと笑いの渦に包まれた。どこかの輩は口笛を吹き、女性たちは口々に「ケダモノ!」と叫ぶ。
静粛を取り戻すため、王子の右手が挙がる。しかし、その右手が何かを迎え入れるような動きに転じたことで、今度は右側の鉄格子が開いた。
ズシン、という大きな揺れが地面を伝わる。
「喜べ。貴様の罪状を鑑み、ちゃんと『メス』を用意した。あいにくの発情期で、オスの数倍は凶暴らしいが……なに、お前が三人の女性にしたことを、この場で『彼女』にも味わわせてやればよい」
横から近づいてくる巨大な影を目の当たりにして、罪人パパルは悲鳴を上げた。人間の身長をはるかに超える胴体に、どことなく蛇の面影を残した竜が、鼻息を吹き上げながら一歩ずつ迫って来る。中に「先客」がいるのかと思うほど厚い脂肪をまとった腹部が、発情期のくだりが嘘ではないことを証明していた。
「そして、これは私からの餞別だ」
そう言うと、王子は高座から一本の剣を投げ落とした。燦々と金色に輝き、中心に血のようなルビーが埋め込まれた宝剣が、踏み固められた砂のフィールドに突き刺さる。柄に何者かの歯形が残っていることから、これも同じ純金製なのだろう。
「私自身の剣より高価なものだ。上手に使いたまえ」
パパルは慌てふためき、ほとんど転がるように剣に近づいた。食欲をむき出しにした怪物の前に丸腰で立たされる中、それはまさしく希望の光に見えただろう。だが手足に枷を嵌められているため、地面から抜くことはできても、その柄を上手く掴むことができない。ましてや構えるなど無理な話だった。
「……」
無造作に転がった剣を見て、パパルは直感する。この宝剣の柄に残る歯形は、剣が純金かどうか確かめるために付けられたものではない。この歯形こそ、かつて自分と同じ状況に置かれた「先人」の足跡だと気づいた時、彼は反射的に柄に食らいついていた。
「Nnnnnnnnnn!」
金ではなく、自分の歯茎の方がめりめりと変形する音。さらに顔を近づけてきた竜を追い払おうと横に振っただけで、一段と生々しい音が響き、顎からは血が滴る。観衆はそれを見て爆笑していたが、大仰な剣を咥えて左右に揺れる人間の姿に、竜の方は警戒心を露わにしていた。
「グルル……」
しかしあまりに単調、かつ徐々に勢いを失っていく彼の動きが、竜にちょっとした「勇気」を与える。軽く突き出された前脚に黄金の剣をなぎ払われた瞬間、顎が外れる痛みすら気にならないほどの恐怖が、パパルの背筋を吹き抜けた。
「あっ」
「ガウ」
勇ましい姿から一転、再び丸腰になった新鮮な肉を、食欲旺盛な時期にある彼女が見逃すはずもなかった。その巨体が勢いよく踏み込むと同時に、胸から下腹部にかけて蓄えられた脂肪が「ぶるん」と揺れる。まだ見ぬ我が子にはそれでも足りないと言わんばかりに、竜は男に食らいついた。既にそれなりの量の唾液が出ていたらしく、たいした摩擦もないまま、赤黒い喉に頭を突っ込む形となった獲物に、もはや抵抗の余地はない。
竜の方もそれを理解したようだ。こうして形勢に大差がついた以上、あとは相手に敬意を表しつつ、ゆっくりと呑み込むだけ。それすらも我が子を優しく扱う練習と捉えたように、首回りの柔軟な筋肉を収縮させ、獲物を奥へと送り込む。彼女がそれを「盛大に」呑みくだす瞬間を期待していた観客からは、不満や落胆の声も聞こえたが――
「……クッ」
竜が天をあおぎ続けること数秒、とうとう獲物は重力だけで喉をすり抜ける。布のように波打つ筋肉と、唾液で口内の滑りが良くなっていたおかげだ。腹の底へと落ちていく膨らみがもぞもぞと動くことから、「彼」はまだ息があるようだが、その行き先が暗い胃袋であることを踏まえれば、決して幸運とはいえない。
「皆の衆、こんばんは。これより夜の部に入る」
陽が遠い丘に沈みきったのを見て、王子は再び観衆に呼びかけた。血なまぐさい匂いを帯びた客席や闘技場には無数の松明が置かれ、興奮冷めやらぬ人々の汗ばんだ顔を照らしている。
「昼の部は楽しんでいただけたかな? 免罪を賭けた者たちが、恐ろしい竜や大蛇に立ち向かっていく姿は、私を含め、皆の心に深い感動を残したと思う」
割れんばかりの拍手が彼を讃える。
「だが……残念なことに、彼らは一人残らず、猛獣たちの胃袋へと消えてしまった。背筋の凍るような悪事を働いた者たちとはいえ、尊ぶべき国民の命が失われたことは、次期国王としても痛恨の極みである」
おお……と群衆も大きく唸る。それは罪人たちの死を嘆くというより、王子の「慈悲深さ」に改めて感激を示すものだった。
「しかし、やつらの死を無駄にしてはならない! 彼らは猛獣たちへの雪辱を、屈強な『剣闘士』たちに委ねたのだ。最後の罪人が呑み込まれてから四時間……肉体が滅びようと、彼らが身に着けていた黄金の手錠や足錠、そして剣は、今も暗い腹の底で『救出』を待ちわびている!」
拳を突き上げた王子が気を吐くと、それを合図に左側の鉄格子が開き、一人の男が入って来た。ただし今度は囚人ではなく、肉体も装備も充実した大柄な人物だった。身の丈ほどもある大剣を肩に乗せ、鉄の鎧で首から下を覆っている。
同時に、王子に両脇から配下と思われる人間たちが続々と現れ、観客に何かを配り始めた。
「皆の衆、パンとぶどう酒を用意した。ささやかだが、私からの気持ちだ」
人々の鼻をついていた血の匂いは、あっという間にパンの香ばしさに上書きされた。王子の粋な計らいに、あちらこちらで喜びの声が上がる。
「……ただ、それだけでは味気ないだろう。ゆえにこの勇猛な戦士が討ち取った獣の肉は、新鮮なうちに解体され、この場にいる全員に振舞われる。君たちが一切れのパンにより多くの肉を積み上げられるかどうかは、彼――大英雄・マラガンの腕次第だ」
喝采の中、その名を呼ばれた男は、筋肉の盛り上がった肩を揺らしながら進み出る。
「王子殿。このたびはヴァランクロス出場の機会を賜り、心より感謝いたします」
「……マラガンよ。昨年、貴様がハラディスの戦いで数多の敵兵を血祭りに上げた実力、よもや疑うべくもない。だが、これよりお前の眼前に現れるのは、人肉を好み、哀れな罪人共を一飲みにしてきた強大な獣だ。それに打ち勝つ覚悟はできているのか?」
王子のこういった脅し文句は、戦士を挑発し、彼らから強気な台詞を引き出すためのパフォーマンスに過ぎない。そのことを十分理解しているマラガンは、わざと観客に聞こえるように鼻を鳴らした。
「……実に愚かな問いです。以降この場において、私を『戦士』と呼ぶことはご遠慮願いたい。今宵、私はこの大観衆のために獣の肉を切り刻む、ただの『精肉屋』に過ぎないのだから」
会場のボルテージが一気に上がる。この時、王子がマラガンの不遜な態度に怒るどころか、むしろ我が意を得たりとばかりに笑みを浮かべていたのは、彼のような威勢を示す者が「まったくもって」珍しくないからだ。百戦錬磨の闘獣士とはいえ、自身の何倍もの巨体を誇る生物相手に、毎回命の保証があるはずもない。「ミイラ取りがミイラ」とはよく言ったもので、彼ら自身が巨獣たちの「獲物」になることも多く、それが現実となった時の盛り上がり様といったら、やせ細った罪人たちが食われる瞬間の比ではない。
さらに、そうして亡くなった闘獣士の武器や服は競売にかけられ、このヴァランクロスを主催している王子自身の懐へと入る。昼の部の罪人たちは言うに及ばず、夜の部に参加した彼らの勝敗すら、王子にとっては至極「どっちでもいい」のだ。
「ふん……その心意気、認めよう。貴様の力、私に見せてみるがいい!」
王子が右手を振り上げた直後、昼の部と同様、右の鉄格子が物々しい音を立てて開いた。数時間前、「パパル」という名の罪人を呑んだ雌竜が、ずいぶん鼻息を荒らげた状態で闘技場に入ってくる。昼の部で食欲を掻きたてられた割に、骨ばった人間一人しか与えられなかったことが大層不満らしく、ややスリムになった腹部は、既にその中が軽くなっていることを示していた。
「……物欲しそうな顔しやがって。あんな男じゃ満足できなかったか?」
マラガンが大剣の切っ先を向けて挑発すると、竜は威嚇する時間すら惜しむように大口を開け、まっすぐ彼に襲いかかった。興奮してはいるものの、まず彼をその巨大な前足で踏みつぶそうとした辺り、最低限の判断力は残しているようだ。
つまり先ほどの獲物とは違い、彼はいきなり丸呑みできるほど「弱くない」。
「一応、目は付いているようだな。だが……」
足をひらりと躱し、マラガンは竜の腹の下へと潜り込む。そのまま躊躇なく大剣を上に突き上げると、甲高い竜の悲鳴が会場に轟く。
「グギャァァァァ!!」
「イけよ、アバズレ竜め」
その剣は、ちょうど胃にあたる部分を貫いていた。マラガンがそれを引き抜いた途端、泥水のように濁った液体がその上に降り注ぐ。観客が鼻を覆うほどの悪臭をものともせず、彼は転がり出てきた黄金の剣と錠を拾い上げた。
「……ごっそうさん」
そう言い放った後、竜の身体は横向きに倒れる。風穴が空いた腹からゴボゴボと流出し続けるそれは、「彼女」に呑み込まれた罪人たちの成れの果てだ。
「すばらしい!」
感極まった様子で手を叩く王子につられ、観衆も彼に称賛を浴びせる。
だが当の本人は不満げな表情を浮かべたまま、黄金の剣の切っ先を王子に向けた。
一転、戦慄が走る。
「……何の真似かね。マラガン」
開いた手を空中で静止させたまま、王子は眉を吊り上げる。
「失礼……一大イベントと聞いていただけに、かなり期待外れだったんでね。神聖な闘技を装ってはいるが、これじゃ単なるサーカスだ」
王子の頬がぴくりと揺れる。大勢の市民の前で、自らが主催する武舞に物言いをつけられたのだから当然だ。張りつめた空気の中、王子は隣に控えていた若い従者に耳打ちし、再びマラガンを見下ろした。
「よろしい。国家の英雄から賜った貴重な意見とあっては、私も無視できん。お詫びにとっておきの『怪物』を用意しよう」
暗幕の裏に向かった従者が、木製の車輪がついた台座を押して戻ってくる。台座の上にある巨大な銀のプレートには、小さな緑色の竜が、頭と胴体をぶつ切りにされた状態で乗っていた。横には似たような色合いのサラダが添えられている。
「長く戦地にいた君だ。ディロキア種の竜は嫌というほど見ているだろう? 気性が荒く、竜の中でも指折りの体重をもつ彼らは、突進するだけで敵に大きな痛手を与える。多少味方を巻き込んだとしてもだ」
「だが、そいつは死んでるじゃねえか」
その言葉を待っていたと言わんばかりに、王子は鼻を鳴らした。
「いかにも。君が闘うのは、この子の母親だよ」
これまでの地響きとは異なる振動に、客席全体がざわめきに包まれる。とりわけ悲鳴を上げていたのは、猛獣たちが現れるゲートの上に座っていた人々だ。明らかにゲートの大きさを超える生物が中から飛び出そうとしたために、レンガ造りの上部が崩れ、客は蜘蛛の子を散らしたように逃げ惑う。
「兵士五人の命と引き換えに捕らえた上物だ。相手にとって不足はないだろう?」
客席を破壊し、檻を外向きにひん曲げながら現れたそれは、今までの怪物とは見るからに一線を画していた。すでに多くの巨体に踏み固められた地面をさらに沈めるほどの重量感。長めの首の先に光る牙は、それが興行のために躾けられた存在ではなく、れっきとした兵器の類であることを示している。
「この世で産卵期の雌竜ほど凶暴なものはない。とりわけ手に負えないディロキア種の雌竜が、目の前で我が子の血の匂いを感じ取ったらどうなるか……」
その先は言わずもがな。鼻腔をたった一度開閉させただけで、竜は凄まじい怒りの咆哮を上げる。
客席にいる子供の尻を浮かせるほどの揺れを起こしながら、その身はマラガンの方へと突き進んでいく。
「あぶない!」
自らを危険にさらすのが闘獣士の宿命である以上、マラガンの身を案じた誰かの叫びは、この会場において最も無意味なものだった。その一言が口をついて出た背景には、このままでは彼が即死し、ショーが一瞬で終わってしまうという客目線の恐怖もあるだろう。竜の巨体は、既にそう感じさせるには十分な速度に達していた。
あっけなく吹き飛ばされるのか、あるいは竜の身体を受け止めて超人ぶりを見せつけるのか、大半の人間はどちらかに期待を寄せていた。竜の走路の直線状に座っている王子については、むしろ後者を信じて疑わなかったはずだ。
だからこそ彼が第三の選択肢――「避ける」という行動を取ったとき、最も驚いたのは王子だった。正面から突っ込んでくる自慢の竜に、さすがの王子も慌てふためく。
「な、何をしている! 早くその皿を投げ捨てろ!」
「は、はいっ」
だが王子に急かされたためか、従者は子竜の屍が載った皿を、そのまま前に突き落としてしまう。
「馬鹿者! 横だ! 横に投げ捨てんと意味がないだろう!」
「も、申し訳ございま……うわああっ!」
もっとも横に捨てたところで、走ってくる竜の軌道が逸れることはなかっただろう。王子たちが幕の裏に逃げ込むより早く、竜は彼らが立っている高台に激しい頭突きを食らわせた。競技場そのものが東に移動してもおかしくないような衝撃とともに、高台はがらがらと崩落する。
「うわああああっ!」
しかし、落ちた二人の運命は対照的だった。マラガンが足をつけている地面までまっすぐ落下した王子に対し、やや遅れて落ちた従者の身体は、上を向いた竜の口に受け止められる。柔らかい舌の上に着地し、王子より少ない衝撃で済んだことを喜んでいる余裕など、彼にあるはずもなかった。
「ああっ、そんな……!」
落下の勢いそのままに、従者は竜の喉へと滑り落ちていった。一人の命を呑み込むにしては軽薄な「クッ」という音を最後に、悲鳴すら聞こえなくなる。
「ぐぬ……貴様……」
足が折れたのか、地面でうずくまっている王子に近づくマラガン。先に倒した雌竜の腹から取り出した黄金の剣が、その手に握られていた。
「ほら、この剣は返してやるよ。さぞお高い代物なんだろう?」
「よくも……英雄とはいえ、ただで済むと思うな……」
「まあ、そう怒りなさんな。『お父上に報告』でもされたら、さすがに俺の首だって飛んじまう」
その一言を聞いた瞬間、王子の顔が青ざめる。マラガンが言った「お父上に報告」という言葉は、王子自身が事あるごとに口にしているものだ。配下の謀反が明らかになった時から、晩餐の味付けが気に食わなかった時まで、彼はその一言で多くの相手を震え上がらせてきたのだ。
「どうした? 顔色が悪いぜ、王子様」
「な、何を言う」
「本当さ。あそこの人も心配そうだぜ?」
マラガンは数秒前まで高台があった場所を、くいっと顎で指した。
破れた幕の奥からこちらを見下ろしている人物を見て、王子は絶句する。
「ち、父上……」
両脇を二人の使いに支えられた、ひどく腰の曲がった老人。だが彼の顔を認識した途端、人々は大の大人から子供まで一斉に立ち上がり、老人とは逆の方向に背中を反り返らせる。彼こそが、この国で王子より名の知れた唯一の人物――現在の国王だからだ。王子のそれよりひときわ輝きを放っている黄金の冠が、その強大な権威を示している。
「ち、父上、お体の具合はよろしいのですか? 安静にしておられた方が……」
「……愚息め。その結果がこのざまではないか。二度とこのような低俗な催し物を開くことは許さんと、あれほど申し付けたじゃろうに」
そう述べてから、国王はしばらく咳き込んだ。彼が数年前から病床に伏していることは全国民の知るところで、その政務が少しずつ王子に引き継がれていることも周知の事実だ。
「父上、ど、どうかお許しを……」
「お前はこれが『第三回』のヴァランクロスだと宣言しておったな。お前が『第二回』をやっていたことも、猛獣たちの飼育に一族の財をつぎ込んでいることも知っておるわい。まったく……」
心底あきれ返った様子で、国王は溜め息をつく。
「……もうよい。お前のような享楽主義者に、この国の未来を任せられるはずもない。王位継承権は、貴様の弟に回すとしよう」
「父上、どうか!」
その時、まるで王の意思をくみ取ったかのように竜が後ずさりし、転がっていた銀の王冠を踏みつぶした。まだ腹を満たしていない竜の眼下には、見るからに屈強そうな大男が一名と、絢爛な服に身を包んだ人間が一名。
「彼女」が食べやすい後者から手を付けたのは、ごく自然なことだった。
「は、離せっ……汚らわしい!」
王子は頭から竜に咥えこまれると、その舌の上で慌ただしく転がされ始めた。洞窟の入り口に引っかかった細い木枝のように、その身体はいつ奥へと吸い込まれても不思議ではない。吸湿性の高いシルク素材が災いし、暴れれば暴れるほど唾液を吸ってしまう服の重さで、彼はどんどん光から遠ざかっていく。
やがて物理的な抵抗が無意味だと知った瞬間、その目は上にいる父親の方を向いた。
「父上、どうか冷静に! 王位継承権は我が国の憲法で、その序列が明確に定められているもの。いくら国王といえど、その順位を変更することはできないはずです。大勢の国民が見ている前で、王自ら、その規律に背くというのですか!?」
「……最期まで口の回る男じゃ。では、こうすれば良いだけのこと」
王は頭上にある金の王冠を外し、それをあっさり竜の口内に放り込んだ。大衆の面前で王が冠を取ることの意味を、この場で理解できない者はいない。
「――我、ここに宣言する。この者の聖なる資質に対し、戴冠の儀を以て王権の総てを譲り渡す、と」
それはこの国の歴史において、本来なら世紀に一度か二度しか発せられることのない、非常に格式高い言葉だった。戴冠式、というには即席すぎる儀式に誰もがあっけにとられる中、新しい国王は涎まみれの手で冠を握りしめ、竜の口の中からマラガンを睨む。
「マラガン、何をぼーっとしている! 早く私を助けろ!」
だが即位したばかりの王から初の命令を受ける栄誉を、マラガンは軽く鼻であしらった。
「申し訳ありません……国王殿。そのような場所におられるがゆえ、私めにはよく聞き取れませんでした。もう一度、正確に仰っていただけますかね?」
「ふ、ふざっ……アッ」
それが、新国王の最後の言葉だった。ゴキュッ、という生々しい響きとともに、小さな膨らみが竜の喉を滑り落ちていく。胃に近づいても内側から弱々しく押し返しているあたり、まだ息はあるようだが、少なくともそこに到達する前に意識を失えなかったことは、彼の人生において最大の悲劇だろう。
人々は騒然としていた。国王が現れただけでも驚くべきことなのに、その国王が譲位を行い、新たな君主となった王子が竜に食われるという急展開に、平静を保っていられる国民などいるはずもない。
それを収めたのは、元国王の小さな咳払いだった。
「皆の衆、すまなかった。聞いての通り、ヴァランクロスは今回で最後となるじゃろう。せめてもの償いとは言わんが、我が息子を一呑みにしたこの憎き竜と、大英雄マラガンとの一騎討ち、心ゆくまで見届けてはもらえんかな?」
しばしの間、静寂が漂う。
だがこの会場で最も頭の回転が早かった一人が手を叩き、大勢の者がそれに続いた。やがて喝采に歓声が混ざり、気の抜けたような野次や、王子が定めた税金の高さに対する不満まで飛び交う。
「マラガンよ」
元国王が言った。
「くれぐれも時間をかけて闘いなさい。君も承知しているだろうが……わしが取り戻してほしいのは、あの黄金の冠だけなのでな」
「かしこまりました。では……」
自らの大剣を地面に突き立て、マラガンは黄金の剣を構えた。
彼自身の体格が豊かなため、まるでおもちゃの剣で竜と対峙しているようだ。
かがり火が、丸みを帯びた竜の腹に影を作っている。
夜はまだ長いのだろう。




