1-7.草原と魔物
「……おーし、演習始めるぜー」
「……おー」
イラニクスのやる気のでない、ダルそうな号令が全体にかかり、俺・ユスティ・アレス以外の新米騎士たちが、同じようなダル声でそれに応えるというよりは呻き返し、グダグダと初演習がスタートした。
彼らのやる気がない原因は主に二つ。
一つはもちろん、飲み過ぎだ。
昨日ヴェストリア離宮を出て行ってから、夜明け近くまで飲んだくれていたらしい。イラニクスを含めた全員が頭痛を、そのうち何人かは同時に吐き気を訴えている。
しかし彼らに薬は処方されなかった。
もう一つは自業自得。ヴェストリア離宮を仕切るメイド長レディ・スノウから出発前に受けた、厳重で静かな叱責だ。
薬を処方されなかったのは、レディ・スノウが許可しなかったからである(寝込むほどの重症者がいなかったから、というのもある)。
特にイラニクスは「団長が示しをつけずにどうするのですか?」と静かな声で淡々と、入念に叱責されていた。イラニクスの顔からは笑みが消え失せ、代わりに沈んだ表情が浮かんでいるのをみて、少し心がスッとした。
共に叱責を受ける騎士達の姿は、先生と教え子とか、親と子とか、そういった関係性に近いものを感じる。
逃亡したへと急ぎ足で向かった先輩騎士たちと、俺たち3人を除いた騎士たちへのお説教は、他のメイドからの準備完了を知らせる連絡で幕を下ろした。レディ・スノウはまだ納得していない様子ではあったものの、「業務に支障が出るほど叱るものではない」と判断を下したのか、意外にあっさりと騎士たちを解放した。
それからしばらくは出発準備で一時的に騒がしさを取り戻したものの、出発後に二日酔いに加え、叱られた羞恥心と互いに対する気まずさが再び芽吹き、現在の状態に繋がる。
ちなみに逃げた先輩騎士たちに対する罰は、昼食の簡素化。具体的に言うと、パン1個のみ。
現在地はフルゴルの東、アデス・インペリアル領。眉間にしわを寄せ項垂れる多数の騎士たちを除けば、他に遮蔽物のほとんど見当たらない、心地良い風の吹く草原だ。
最初の号令から、地獄のような空気で沈黙が続いた後、イラニクスが地面に向かって勢い良く息を吐き捨てた。
全員の注目を集める中、更に数秒の間を空けて再び上げた顔からは、先程まで浮かんでいた気怠げな表情と眉間の皺は綺麗に消え失せ、代わりに人好きのするいつもの笑みを騎士たちに浮かべて見せ、「っし!こっから少しずつ、気合い入れていこうぜ〜!」と声を上げた。
その言葉に、騎士たちから最初より強めな返事が返ってくる。
今度は俺たち3人もも声を上げる。可哀想になってきたから……ではなく、この先このテンションで演習を行おうものなら、間違いなく怪我人がでるからだ。断じて(少なくとも俺は)イラニクスのためではない。
イラニクスは多少力のこもった、それでもやる気の感じられない返事に苦笑いを返し、出発前に渡された布袋の中から一枚の紙束を取り出した。
「どれどれ……」と最初から最後まで軽くばらばらと捲ったあと、満足した様子で紙束を布袋へと戻した。
「演習を始める前に、各騎士団の役割から説明しようか。この国には四つの騎士団が存在するが、基本、騎士を募集してるのは『黒花騎士団』と『白花騎士団』の2つだけ。
『黒花騎士団』はフルゴルの西側の守護、及び国内の犯罪の取り締まりが主な仕事。昨日の叙任式で話してたのが、団長のス、オニクスだ。
俺たち『白花騎士団』はフルゴルの東側の守護、及び国外の街道警備が主な仕事。団長はご存知この俺、イラニクスだ!」
漣のような笑い声が周囲から上がる。オニクス団長の洗練され整えられた演説よりも、イラニクスの荒々しい、雑ともとれる話し方が、ここの騎士たちの性に合うらしい。昨日とは反応が全然違う。
それに伴い、徐々にやる気にも火がついていくのが空気から伝わってくる。
イラニクスの話は続いていく。
「もう二つは『紫花騎士団』と『青花騎士団』だ。
『紫花騎士団』はフルゴルの南側の守護、及び城内の守護が主な仕事、団長はイオライト。近衛兵はここの所属だな。
『青花騎士団』はアンタイル山脈の監視と犯罪者の収監と監視が主な仕事、団長はラズワード。
この二つの騎士団への入団方法は『白花騎士団』か『黒花騎士団』からの推薦か、両騎士団からの指名のみだ。特に『青花騎士団』の業務は特殊だからな。呼ばれたら、とりあえず体験に行くのもありだ。良い経験になる。他に国境警備隊が二つあるんだが……まぁ、これはおいおいわかるだろ、多分」
さて、と一息つくと、表情を引き締め直す。
笑みの零れていた場に緊張が伝わり、ざわめきが静まる。風に揺れる草花の音だけが周囲を満たすのを確認した後、イラニクスは話を再開した。
「さっきも言った通り、『白花騎士団』の仕事はフルゴルの東側の守護だ。が、国内にモンスターが入ることはほとんどない。壁と門はクソでけぇし、高度な防護魔法が掛けられてるから、通常侵入することはまず不可能だ」
確かにフルゴルを覆う壁は途方もない大きさと分厚さを誇っている。門を徒歩で潜るのに10分もかかったほどだ。大陸戦争時代の名残なのか、外壁には無数の傷がついていたが、いずれも致命的な損壊に至るほど深いものはなかった。門は人力で開けることはまず不可能のため、数人の魔法使いによって開閉が行われていた。
大陸戦争が終結し、各国で平和協定が結ばれてはや20数年。
各種族間の問題がいまだ未解決であるものの、現在表立って他国を攻める国はいない。そんなことをすれば、潰されることは明らかだからだ。
だというのに、一体なにを警戒して壁を維持し続けるのか。
平和の時代に、騎士がいまだ残る意味は何だろうか。
イラニクスが厳かに、外敵の名を告げるため口を開く。
「俺たちが真に警戒すべきなのはモンスターじゃねぇ……『魔物』だ」
魔物、の一言で動揺と緊張が走る。
国家を揺るがすほどの大盗賊団か、はたまた未知の侵略者かと若干期待していた俺は、聞きなれない言葉に首を捻った。が、周囲の反応を見るに、魔物は一般的な脅威であるらしいことがわかる。ユスティとアレスも、特に驚いた様子は見せない。
昨日以上の注目を集めるのは避けておきたいので、この疑問は、後で改めて2人に尋ねることにした。
「魔物ってのは厄介だ。今のお前らじゃ確実に殺される。……ま、そうならないための演習だ!同時に、騎士団の業務も兼ねているから、ちゃ~んと給料も出るぜぇ!」
動揺の広がっていた騎士たちの顔に笑みが零れる。それでも、緊張は解かれない。その笑みは硬く強張っている。生死に直結することだからだろう、みんな真剣に聞き入っている。
……少しでも危険のある演習の前夜に、酒をガバガバ飲むな飲ませるな!
そうツッコミたいのを必死に我慢する。
「まぁ幸い、この辺りは滅多に魔物は出ない。出ても国境警備隊のおかげで弱りきってる。それでもお前らには手強いだろうが、この草原で俺が見える範囲にいる限りは、絶対に、誰も死なせねぇ。あぁ、絶対にだ」
黄金の瞳が、一人一人へ強い意志のこもった視線を送る。
他の人間から聞けば、一抹の不安も拭い去れない言葉が、深く心に染み渡る。
絶対に死なせない。
決して崩れない自信と、それを裏付けるに余りある功績と実力が、全員に安心感を与え、俺の復讐心を煽りたてる。
(どれほど小気味良い言葉を並べ立てようと。どれほどの偉業を成し遂げようと。あの所業を正当化させはしない、許しはしない)
際限なくこみ上げてくる吐き気と怒りを【感情変換:冷徹】で変化させつつ、イラニクスの言葉を冷静に分析する。
脳裏に浮かぶのは養父の最期と、アイヴィの泣き崩れる姿。赤子まで殺し尽くした、残虐な7人の仇敵達。
彼ら全員が、目の前で正義を騙るこの男のように、各国の選りすぐりの精鋭であることはまず間違いない。
今は、力をつけることに集中するべき。
【感情変換:冷徹】の判断に納得して、熱弁をふるうイラニクスへ再度耳を傾ける。
「昨日パーティを組んでもらったのは、宣言した通り今後の活動に伴う必須なものだからだ。新人騎士は、入団したての時期が一番死にやすい。それを少しでも避けるためのパーティだ。お前ら、単独行動は極力避けろ。が、もしもだ。もしもほかのメンバーと逸れた時は……」
イラニクスは最前列にいたユスティの剣を鞘ごと借り受けると、柄頭に施された白い花の彫刻を軽く叩いた。
「白花騎士団の剣に魔力を送れ、少しでいい。それで他の騎士たちに報せが届くようになってる。みっともなくていい。醜態を晒してもいい――生きてさえいれば、挽回の機会なんぞいくらでもある。だが死んでしまえば、その機会は永遠に失われることになるんだ。真に国のためと思うなら、窮地であるほど冷静になれ。俺から送る、最初のアドバイスだ」
――そのささやかな挽回さえ、お前は養父さんから奪ったけどな。
【感情変換:冷徹】が、怒ることを許さない。感情が急激に凍えていく感覚に身震いしながら、あくまで冷静に、イラニクスの言葉を咀嚼し、飲み込んでいく。
他の騎士達は、その言葉に強い感銘を受けたようだ。皆真剣に聞き入っている。最底まで落ち込んでいた士気を数分間の弁舌で巻き返したのは、流石と言わざるを得ない。
仇でさえなければ、俺も熱心に聞き入ったかもしれない。
イラニクスはその反応に満足したように頷いて、
「んじゃ、昼の休憩時間まではモンスター討伐に勤しめよ〜。俺の見える範囲にいてくれれば、いつでも助けにいくぜ~」
「んじゃ、解散!」と声高らかに宣言し、近くに放置された巨大な丸太に座り込んだ。
キリッとした顔で言ったつもりなのだろうが、その顔色は悪い。笑顔の浮かんでいた顔には、脂汗が滲んでいた。どうやら見栄を張っていたらしい。
どうせ見栄を張るなら最後まで張れば良いのにと、全員が呆れながら散開していった。
〇〇〇
各パーティの邪魔にならない程度の距離を保ちつつ、街道から離れてモンスターがいないか捜索する。難易度の高くない任務のためか、緊張は少ない。
忘れないうちに「魔物」について2人に尋ねて、
「ユスティ、アレス、魔物ってなんだろう?初めて聞いたんだけど……」
「な、なんだって?魔物を知らないのか、ルシス。それは……それは君、どれだけ情報の遮断された場所で過ごしていたんだい」
「う、うむ。少々、いや大分ヤバいぞ、うむ」
新たな友人2人に、謎の生物を見るような目で見られる。
いやはっきり言おう。ドン引きされている。
しかしこれに関しては弁明の用意ができていた。昨日図書館で田舎者呼ばわりされてから、ずっと意識していたことだ。
地図上での距離は不明だが、たしかにラトローは他と隔絶された場所にあった、と思う。ならばそれを逆手に取れば良いんだ……!
「俺の住んでた場所は、大陸の端の端だったから……!」
「端でもいるだろう」
力説した弁明は、アレスによって見事に砕け散った。
落ち込む俺を見て、ユスティが慌ててフォローしてくれる。
「ま、まぁそういう場所もあるということだね。知らないものはしょうがないのだから、これから遭遇した時のために、軽く説明しよう――モンスターたちを倒したあとに、ね」
話し終わると同時に、ユスティが剣を抜いた。アレスはすでに剣を構えている。俺も素早く剣を抜き、2人が剣を向ける茂みへと視線を向けた。
茂みの死角となっていた場所から、小型の影が数体飛び出してきた。
陽で輝く緑色の身体を見せつけるようにぶるるんと揺らすそれらの正体を、【表示】で確認する。さすがにモンスターが相手なら、死刑にはならないだろう。
スライム=プラゲリエス レベル2 種:モンスター
HP 26/26 MP 10/10
(このブヨブヨの液体?みたいなやつ、スライム、っていうのか。これ……斬れるのか?山では見たことないけど)
液体と個体の間のような、ブヨブヨと頼りない緑色の体を揺らしながら、スライムという名のモンスターが飛びかかってきたのを横へ躱し、動きを観察する。
「ふっ!」
俺が観察を続ける横で、ユスティが危なげなくスライムを討伐していた。
最小の手数で無暗に傷つけることなく、斬るのではなく突くことで、自身の体力の消耗と相手の痛みを必要最低限に抑える、優しくて合理的な戦い方だ。
モンスターとの戦いに慣れているらしいユスティは、そのまま次々とスライムを倒していく。
「……ラァッ!!」
一方アレスは、見たことのない剣術と体術を用いて敵を翻弄しつつ、一体ずつ確実に、正確に仕留めていく。獣人の身体能力を生かした、見事な連携技だ。
弧を描いて繰り出された蹴りがモンスターをまとめて吹き飛ばす姿は、剣を振るう時より楽しげだ。最小の動きで、最大の攻撃を放っていく。
各国を1人で放浪していたらしいアレスはもまた戦い慣れているのだろう。危なげなく、順調にスライムを倒していく。
「とりあえず、やってみるしかないか……やっ!」
俺も2人に負けじと、攻撃を躱したスライムへと剣を振り下ろした。
しかし、
「きっ、斬れない!?」
振り下ろされた剣は、スライムを斬ることなく横に滑って落ちた。
触れた瞬間は確かに手応えがあるのに、いざ斬ろうとすると力が横へと逃げていってしまう。
「くそっ、なら……!」
ユスティを真似て今度は突いてみる。が、こちらも手応えと同時に威力が霧散する。ほとんどダメージを与えられないが、斬るよりは効果的な気がする。
押しだされたことによってスライムはコロコロと草原を転がっていき、僅かに距離が生まれたことでスライムのステータスが再び表示される。
スライム=プラゲリエス レベル2 種:モンスター
HP 23/26 MP 10/10
確かにHPは減っているが、これでは一体討伐するのにかなりの時間が掛かってしまう。群れで襲われたら成す術もない。
ないけど……囲まれたら、どうなるんだろう?スライムに殺られる姿をあまり想像できない。窒息死とかだろうか。
攻めきれずに立ち止まっていると、アレスが横から助言を投げてくれた。
「ルシス、突くのであれば一息に真っ直ぐ。斬るのであれば振り下ろさず、横に薙ぎ払え!」
「わかった!」
アレスの助言通り、スライムに向かって水平に、真横へ薙ぎ払う。
今度は呆気なく攻撃が通り、2回ほど攻撃を加えたところで塵となって消滅した。
「た、倒せた……」
倒せたことに安堵して、しかしまだ何体か残っていたはずだと慌てて後ろを振り向いたところで、アレスのデコピンが俺の額を強かに打った。
「あたっ」
「注意散漫。集中力と素直さは称賛に値するが、諸刃の剣であるな?」
「面目ないです」
「いやいやアレス。恐らくあれがスライムとの初戦だろうし、上々と言えるんじゃないかな?周りの子たちも、ほら」
と、ユスティが俺をフォローして、一番近いパーティを示す。
スライム一体に四人で斬りかかって、いや、もはや殴りかかっていた。剣で戦う意味はあるのだろうか?遠くで戦うパーティのほとんども、どうやら同じような状態らしいことがわかる。
危険性が低いからか、イラニクスは最初の位置からほとんど動かず静観している。いや、寝てる。鼻から提灯を出してやがる。
「ね?あの子たちもじきに気付くだろうけど、助言があったとはいえ、一度で実践できたルシスはすごいよ。この調子で他のモンスターも倒していこう」
「少々甘い気もするが……まぁ、そうだな。ユスティに習い、ここは褒めて伸ばしていこう。えらいぞ~ルシス~、すごいぞ~ルシス~」
「バカにしてない?」
「してないしてない」
戦闘の忙しさが去り、談笑できるほどの余裕が訪れる。
他のパーティはユスティの言葉通り、コツをつかみ始めたのか、徐々に処理するスピードが速くなっている……気がする。単に殴るスピードが早まっただけかもしれない。
「スライムは基本どこにでも生息しているが、その種類は多く、地域を区別する手段の一つとなっている。
先程戦ったのが、草原地帯に生息している最もスタンダードなスライム=草原地帯、他に森林地帯のスライム=森林地帯、砂漠地帯のスライム=砂漠地帯……とまぁ、行く先々に現れる。
新天地に赴いたらまずスライムを探し、その地の特性を見極める足掛かりとするのが旅の基本である」
「「お~~」」
拍手を送る俺とユスティに、アレスはクールに手を振ってみせた。しかし隠しきれない照れ臭さが、揺れ動く尻尾の動きでよくわかる。
「特徴から名前が付くモンスターもいるね。無念の死を遂げた白骨兵士や魔力元素の集合体である精霊、一部地方で神の使いとして崇められる魔鳥。
その他にも、近年の研究でモンスターが分類されるようになってから、新しく名前が付いたり、変わったモンスターもいるよ」
「「お~~」」
今度はユスティへ、アレスと共に拍手を送る。その称賛を、ユスティは感謝を告げて素直に受け取った。
故郷の山に生息していた山猿は初めから山猿としか呼ばれていなかったから、「そういうもの」としか覚えていなかったけれど、もしかしてあの猿にも種別名があるのだろうか?今となっては、確認のしようがないけど。
「その研究って一般的なのかな?もっと詳しく知りたいんだけど」
「いや、研究が始まったのは本当に最近でね……。
大戦が終わり、各国の小競り合いがなんとか落ち着き、ようやく合同研究所が発足したのが5年前。現在は各国に散らばるモンスターに関する資料をかき集め、情報を統合しているところ、だそうだ」
俺のようにステータスを自由に表示できるような、神職系の職業は少ないだろうから、解明に時間がかかっているのだろうか。
手伝ってあげたいのは山々だけど、死にたくないので黙っておく。
だけど……と、ユスティが悔しそうに顔を顰める。
「研究自体は素晴らしいものなんだけど、喧嘩が絶えないんだ。国同士の争いが終わっても、個人の諍いは止められないからね。プレカティオでは、特に人間と獣人同士の諍いが目立つ。議論から喧嘩、殴り合い、乱闘……大陸戦争の傷跡は、まだ根強く残っているみたいだ」
大陸戦争が終結する百年前にプレカティオに敗北していた獣人国家群の国民は、その間奴隷として虐げられていた、らしい。
大戦終了後もしばらくは奴隷制度は続いたが、獣人側で暴動が起きた結果、僅か七日で勝利を捥ぎ取った。
この短期間での勝利の裏で活躍し、獣人から支持を集めたことで、七種族を統率する唯一の王と認められたのが、ペルグランテ王だと言う。
また、その勢いを利用して人間国内の奴隷制度は廃止された。廃止から、まだ十年も経っていない。
ユスティが顔を顰めるのも無理はない。
人間が獣人を虐げていた時から、まだそれほど時間は経っていない、恨まれて当然だと。
でも俺は知っている。
人間を恨んでいる獣人ばかりではないと。
故郷で同じ時間を過ごした獣人は、そんな過去など関係ないとばかりに俺を育ててくれたのだから。
それに、ここにも1人、過去ではなく未来を見据える獣人がいるじゃないか。
アレスは首を横に振り、ユスティを励ますように言葉をかけた。
「確かに恨みを持つものもいるであろうが、獣人全てが人を恨んでいるわけではない。お主一人が気に止むことも、背負う必要もないない。
……で、あるから、もっと楽に考えよ、ユスティ!1人で解決できぬことを延々考え続けても、意味はないぞ!」
そう言ってアレスはカラカラと笑いつつ、ユスティの背をバシバシと叩いた。
硬い表情だったユスティは突然の衝撃によろけ、少しだけ呆然とした表情でアレスを見つめる。そのままつられて「ありがとう」と言って微笑んだ。
「ーーで、先ほど語っていた研究についてだが、『魔物』の研究も同時進行で行っているのか?」
「もちろん、最優先事項の一つだからね」
恥ずかしくなったのか、話題を逸らすようにアレスが尋ねた。尻尾がユラユラと揺れている。
2人のやりとりに和んでいた俺も、その一言で我に帰る。戦闘前に魔物のことを聞いていたことをすっかり忘れていた。
「忘れてた。改めて聞くけど、魔物ってなんでしょうか!」
「忘れるな」
「ごめん」
「『魔霧に侵された物』ーーつまり『魔物』は魔王が発するとされる瘴気『魔霧』に侵された、通常より強力・凶暴になり暴走した生物、又は非生物の総称だよ。
魔物に変貌すると固有の名が与えられ、発生報告を受諾次第、基となった対象から推定される中で、最も深刻な被害を想定して、規定以上の被害が予想される場合、討伐隊が結成される。
この時結成された討伐隊には各国の師団長クラス以上、もしくはS級以上の冒険者を召集して組むことが必須になる。過去に甘い想定で討伐隊を結成した結果ほぼ全滅した例があるから、これは絶対だ」
「あぁ、『天喰らいのハティスコルワーグ』だったか。『吐息は地獄の業火そのもので、瞳は憎しみに満ちていた。地を駆ける姿は風の如く、体躯は山のように巨大。攻撃の余波のみで幾人もの兵を吹き飛ばし、人程もある鋭牙で人間のみを執拗に狙い、喰い千切った。』唯一の生存者であった討伐者の言葉は、各国に魔物の危険を報せるには十分だったそうな」
「うん。以降それ以上の脅威は現れていないけど、警戒するに越したことはない。戦争終結後も騎士団が解体されない最大の理由だね。戦力を低下させた後に襲撃されたら、ひとたまりもないから」
「魔霧っていうのは、どこでも発生する可能性があるの?」
「ある。しかしいつ、どこで、どうやって発生するかは未だ未解明。魔王の発する瘴気というのも、噂の域を出ぬ。人里には何故か発生しないが、それ以外の場所には突然発生する可能性がある」
「そうなんだ……ん?」
「魔霧の発生時期は、魔王が処刑された時期と被るからね。ウェスペル老師の予言もあるし、勇者の誕生と共に新しい魔王も生まれたんじゃないかな」
「いまだ見つからぬ勇者は、どこにいるのだろうな?まだ神託を受ける年齢ではないのか……それとも、逃げ回っているのか」
「そうではない、と願いたいね。勇者1人に背負わせてしまうのは酷かもしれないけれど、勇者にしか魔王は倒せないからね。サポートするためにも、まずは、名乗り出てもらわなければ」
熱心に込む2人の後ろに、スライムが一体、蠢いて――いや、痙攣しているのが見えた。
緑色の体は変わらないが、その体は傷だらけで、所々紫色に変色している。
(残党、かな?……2人とも気付いてないな。よし、俺が倒しちゃおう)
「勇者であれば、魔物を倒すことも容易いであろうに。どこで油を売っているのやら。責任というものを感じぬ御仁なのかな?」
「まさか。勇者に選ばれるような人なのだから、人一倍責任は感じているだろう。アレスのように、武者修行……どころか、すでに魔物を倒して回っているのかもしれないよ?」
「ははっ、そうやも知れぬな。しかし、どのような姿形か気になるな。筋骨隆々の武人か、はたまた剣技を極めし剣士か……」
真横を通った俺を僅かに気に留めつつも、勇者の所在についてアレスが痛烈な皮肉を放ち、ユスティがそれを柔らかく包み込んで投げ返す。議論の内容が勇者なだけに、耳が痛い。
(教わったことに意識を集中しよう、うん……さっきは薙ぎ払ったから、今度は突きで攻撃してみるか)
スライムの5歩手前で足を止め、腰を少し落とし、呼吸を整える。こちらに気がついていないのか、身動きひとつしないままだ。痙攣は収まりつつある。
ただ点へ、中心へ向けて、剣を鋭く突き刺すだけ。それだけに、意識を集中させる。
ーーこの動作と意識を、全ての戦いで、自然とこなせるように鍛錬しなくてはならない。アレスに鍛錬を頼んでみよう。
スライムの痙攣が収まるのと、俺がスライムへ駆け出すのは同時だった。
一歩踏み込んだところで、スライムの全身が紫色に変わっていることにようやく気が付いて、立ち止まろうかと考える。
その戸惑いを待ち構えていたように、変貌した姿のステータスを【表示】が目の前に出してきた。
スライム=プラゲリエス レベル2 種:モンスター
HP 2/26 MP 10/10
01/01 tnioP cigaM 62/2 tnioP tiH
retsnoM:seicepS 2level seiregarP=emilS
スilム=プiregarエ? レ??2 種:魔物
HP 78/156 MP 60/60
【スキル】
吸血魔法
「はっ?」
全てのステータスが書き換わっていた。
名前とレベルが表示されていた場所に至っては、正確に出てすらいない。種族名はモンスターから魔物に変化している。HPもMPも倍以上に膨れ上がり、存在しなかったスキルまで追加されている。
――立ち止まって、後ろのユスティとアレスに助けを求めた方が良い。
俺はまだ草原のモンスターとの戦闘に慣れていない。スライム一体すら、戦い方を教わらなければ倒すのにかなりの時間を要したはずだ。
そしてほんの少し時間を稼げば、離れた場所にいる最悪の仇敵が助けに来てくれる。これ以上に効率の良い策は無いだろう。
そんなことを頭で考えながら、もう一歩踏み込む。
2人に比べ、実力不足なのは明らかだ。山中や対人の戦闘ならともかく、他の場所での戦闘は未熟。まして相対しているのは魔物だ。このまま後退したとして、誰が俺を責めるだろう。少なくとも、ユスティとアレスはそんなことをしない。
でも、それではダメだ。遅すぎる。
そんなことでは、また失う。
もう一歩、更に強く、踏み込む。
『【感情変換:冷徹】が使用されました【感情変換:冷徹】が使用さr【感情変換:冷徹】が使【感情変換:冷徹】g【感情変換:冷徹】【感情変換:冷徹感情変換:冷徹】感情変換:冷徹】』
【感情変換:冷徹】が狂ったように使用され続けるせいで、表示される内容がおかしくなっている。勇者のスキルが『頭を冷やせ』と語りかけているようだ。
この場面での最良の行動は、イラニクスが到着するまでの時間稼ぎ。だから、俺にとっての最善の行動は、その前にこのスライムを倒すことだ。
冷静に現状を分析しなくても、俺が魔物と化したスライムを倒せる確率はゼロに近い。傷をつけられるかどうかすら怪しいだろう。普通のスライムですら、あれほど苦戦したのだから。
でもここで引いてしまえば、養父さんに合わせる顔がない。死んでいったみんなに顔向けできない。
敵から逃げ、尚且つ仇に助けられるなんて、死んでもごめんだ。ここで引いて時間を稼げたとして、ユスティかアレスが怪我を負えば、それは戦わなかった俺の責だ。負い目を感じたまま、ユスティとアレスに接することができるほど、俺の精神は太くない。
だから、最初から逃げることも、助けを求めることも、考えることはあっても、選択肢には存在しなかった。
戦い続けることを世界から望まれたように、敵へ剣を向けるだけだ。
それに【直感】が強く囁く。お前はスライムを倒せると。
そのまま剣を突き刺せば、簡単に殺せると。
簡単かどうかはともかく、【直感】の助言に従い、俺は更に強く、速く、抉るように、最後の一歩を踏み込んだ。威力を少しでも上乗せするために、限界まで腕を後ろへ引き絞る。剣は正確に、鋭く突き刺せる位置へと固定する。
勇者の存在意義のためにも、一歩も、引かない――!
引き絞った腕を解放し、剣を一直線スライムへ突き刺した。
威力もスピードも、今の自分に出せる最高のものだ。これなら、強くなった魔物とはいえ、HPが10ぐらいは減ったんじゃないだろうか。
――しかし、期待とは裏腹に。
驚くほどあっさり、
俺の剣は魔物へと変貌したスライムの身体を貫いて。
そのまま、HPはみるまに減少していき。
スライムのHPは、容易く0へ到達した。