第68話 夜を走る
彼は仰向けに倒れたまま、ボクを見つめた。
苦しげな表情を上書きするように、いつもの余裕ある笑みを懸命に浮かべようとしている。
「どういうことだ……アイツを、眠らせた、だと……?」
「……ボク、夢魔の能力は封じられてなかったみたいで、それで……うまく騒ぎを起こさずにここまで来ることができました。バル様と一緒に脱走しようと思って……」
「ク──クク、よくやったなァ、マコ……。偉いぞ……。さすが俺のマコだ、カワイイ……」
「それより、どうしちゃったんです……!? 具合が悪いんですか?」
「少々無理が祟ったかもしれん……。俺は火の魔素の量が体調に大きく関わるものでな、それに──ああ、間の悪いことに首輪にもガタが来ているなァ……」
「首輪って……」
「……短期間に連続して負荷を受けすぎたか──。いや、マコ。余計な心配はするな。ともかく事態は急を要する……。……脱出するぞ、ついてこい」
彼は氷の錠で固められた両腕を床につっぱり、力を振り絞るように──立ち上がった。
「う、動いて大丈夫ですか? 起き上がるのもつらかったんじゃ……」
「ああ、マコ。オマエが来てくれたから、身体の奥に火が灯ったんだ。俺はまだ……倒れるわけにはいかないんでなァ!」
──ドタン!
バル様は部屋の扉を蹴り開けて、廊下を駆け出した。
まるで道を知っているかのように迷いのない足取りだ。
うう、足が速い──! ボクは左右の腕を全力で振りながら走ったけど、両腕を動かせないバル様の半分の速度も出ない──。
彼は時々ボクのほうを振り返りつつ、先導しては曲がり角の壁に張り付いて先を伺った。
不思議と屋敷の衛兵さんや使用人さんとはすれ違わず、すいすいと進むことができた。
「変ですね……。お昼はあんなに人が居たのに」
「ああ──この時間に警備が手薄になるよう、裏で手を回したヤツがいるんだ」
「そうなんですか……!?」
「元々すぐに帰るつもりだったからなァ。オマエが俺のところに来たことで、かなり手間が省けたぞ。一番の懸念だったあのジジイがいないのが好都合だ──」
階段をいくつか上がって、窓のある廊下に出た。
ここが一階のようだ。外にはすぐ地面があり、奥には花壇と木々が見える。
「──よし、マコ。窓を開けてくれ」
「はい!」
ボクたちは開け放った窓枠をひらりと飛び越えて、屋敷の庭に降り立った。
やわらかい地面と草を踏んで、外に出れたという実感が湧いてくる。
あたりはすっかり暗い。闇夜に紛れて逃げることができそうだ。
ミナミ……みんなはどうしているだろう。
無事に合流できるだろうか。
いや、そもそも。
合流……していいのかな?
ボクもバル様も魔人で……王国においては疎まれている存在で。
ミナミは人間だし、コニーとロゼッタさんは獣人で……別段、追われるようなこともなくて。
ボクたちと一緒にいたら迷惑になるんじゃ──。
「どこまでがこの屋敷の敷地かわからんが……木の間を縫っていくぞ、もう少しの辛抱だ」
「はっ、はい」
林の中に入って、ボクたちはなおも駆けた。
背後にそびえるノージェさんの屋敷は、窓の明かりがついているが、まだ静かだ。
ボクたちが脱走したことは、もう気づかれただろうか──。
──ギシッ……。
ふと辺りを見回すと、蜘蛛の巣のように透明な糸が張り巡らされているのが見えた。
いつのまにか、入り組んだ糸の中を歩いている。
それはすり抜けるように触れることができない、まさしく透明な糸だった。
ボクにとっては、走るのに別段邪魔になることはないけど……?
「ハァ……ハァ……」
前を走るバル様が、ガクリと地面に膝をついた。
口から白い煙がシュウシュウと漏れ出ている。
彼の周りにだけ糸が引っ張られるように寄り集まって、じりじりとその肌を焼いている──。
「バル様!? しっかりして……!」
駆け寄って、彼の顔を覗き込む。
……今までで一番具合が悪そうだ。汗がだらだらと滲んで、呼吸は荒く、もはや苦しさを隠す余裕もなくしている。
「ハァ──あのジジイめ。屋敷の敷地内に何重もの退魔術式を張り巡らせていたようだ。対象をほとんどこの俺に絞っているぶん、生半可なものではないぞ、これは……」
「そ、そんな……! なんとかならないんです?」
「グッ……認めよう、ヤツを侮っていたことを。……だが、もうすぐだ。ここを出てしまえばいいのだ。突っ切るぞ──待て、危ないッ!」
──ビシャァンッ!!
暗い林の中に、まばゆい雷が落ちた。
間一髪、ボクはバル様に抱えられて転がった。
しわがれた、怒りを含んだ声が聞こえてきた。
「……そうはいかんな、煉獄の魔王よ。貴様の命運はもはやここまでだ」
振り返ると、髪と衣服が乱れた老魔術師が息を切らしながら立っていた。
ああっ……ヘイムダールさんだ! こんなに早く起きてしまうなんて……!
魔法使いのローブには似合わない、ファンキーな黒メガネをかけている。
ボクの瞳術への対策だろう……瞳に意識を込めて彼をぐっと見つめてみても、体勢を崩す様子はない。
「ク、ククク……しばらくぶりだな、ジジイ。元気だったか?」
「これだけの退魔術式を受けて、まだ動けるとは……恐れ入る。儂がどれだけ時間をかけてこの屋敷の防壁を編んでも、貴様には泥に足を取られた程度なのだろうな」
「いや、なんとも質の良い泥だぞ、これは……人間の魔術も捨てたものではないなァ……ハァ、ハァ。それに、いい杖を持っている」
ヘイムダールさんは、今度こそ油断していない。杖を構えた姿には隙が見えない。
なんとか近づいて彼のメガネを取ってしまえば、ボクの瞳で術をかけられるかもしれないけど……。
この距離では、たどり着く前に返り討ちにあってしまうだろう。
「バル様……。なんとか、あのおじいちゃんのメガネを吹っ飛ばせませんか?」
「やめておけ、マコ。とにかく、屋敷の敷地外まで出さえすればいい。もう少しだ……いいか──走れ!」
──ドゴォン!!
バル様が、氷の錠で固められているはずの両腕から火球を繰り出し、ヘイムダールさんの眼前に土埃を巻き上げた。
「──なにいっ!?」
それを合図に、一目散に駆ける。
もっと速く走るんだ、追いつかれないように──。
城下町が見えた。ここは、ボクが閉じ込められた部屋から見えていた景色だ。
この生け垣を越えれば、きっとノージェさんの屋敷の敷地外だ!
──ビシャァンッ!! ──バキバキ……ッ。
「ぐあ……ッ!」
背後から雷鳴が轟いて、目の前の生け垣の一部を焼き崩した。
そして、どさりと──バル様の身体が、崩れるようにボクの背中にのしかかってきた。
「うくッ! バル様──!?」
がくりと力なくうなだれる彼の体重につぶされそうになり、とっさに足を踏ん張る。
この傷は──!
ボクを、庇ったの……?
ううッ!
彼の腕の下に頭を突っ込んで、身体を担いで……いや、引きずって……重いけど、なんとか穴の空いた生け垣を乗り越えた。
「ククク……よく……やったぞ──マコ……」
「バル様ッ! 起きてください……! ここ、もう敷地の外ですよね? ねぇっ……!」
彼の返事はなかった。
──ヒュゥゥゥ……。
身体が冷えるような、凍てつく風が吹く。
あたりがどんどん暗くなっていく。ボクの絶望を反映するように。
彼の身体を引きずって、それでも闇の中を進む。
もう、だめかもしれない──。
暗闇しか見えなくて、前に進めない。どこを歩いているのかも、よくわからない。
背後からバチバチと閃光の音が追ってくる。
逃げても逃げても、ヘイムダールさんが放つ光に捕らえられてしまいそうだ。
「──さあ、娘よ。観念するがよい。儂とて、天弓の巫女に手荒な真似はしたくないのだ」
「いやっ……来ないでください……! どうしてこんなことを……?」
「くっ、そんな目で見んでくれ……。──ええい。おまえたちが魔人だからだ。それ以上の理由など、要らん!」
「理由になってません!」
「先刻、儂に術をかけたろうが! 何故、あんな事を言った……? これ以上、儂を──惑わすんじゃない!」
ヘイムダールさんが、杖を振りかぶった。
──ああ、ボクにはもう、なすすべがない……!
バル様……起きてくれないの?
ミナミ……もう、会えないの──?
──バキキィンッッ!!
「ぬがッ!?」
時間がゆっくり流れて──魔法がはじける音と、ヘイムダールさんの声が聞こえた。
目を開けると、そこには攻撃を遮るように出現した巨大な氷の壁があった。
出したのは……ボクじゃない。ボクの腕はまだ、枷で縛られている。
「偏屈なじいさんだねェ……。古い価値観に執われてちゃ、長生きできないぜ?」
どこからか、高圧的な女性の声が降ってきた。
辺りを包む闇全体から響いてくる──出どころのわからない声。
「まさかッ! 貴様は……ッ!?」
狼狽える老魔術師を威圧するように、氷の上に影が形をとって顕現した。
くすんだ銀色の長髪から、ねじれた二本のツノが左右に伸びた、幽霊のような立ち姿──。
「アハハ……知らないらしいから、教えてやろうか。アタシの可愛い後輩に手を出したら、タダじゃおかないってことをねェ……!」
現れたのは、冥眼の魔王。
水晶宮殿の主にして……ボクと同じ、夢魔だ。
次回「第69話 恋の翼」は7/14更新予定です!!