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第41話 伝う涙


 明治期の名門神尾家の屋敷には神尾琴葉のみが暮らしているが、縁あって舩坂和馬少佐以下四名、稲田十五郎、冬柴千代、風間正三が屋敷の一角を詰め所として借りていた。


 その一室で、舩坂少佐と十五郎の二人が一枚の新聞記事を挟んで難しい顔をしていた。記事には、高宮家の当主が惨殺された事件について書かれている。


 重い口を開いたのは、舩坂少佐だ。


「これは明石の仕業だろう。明石吉之助と小夜らしき人物が屋敷に出入りしていたらしい。お前のおかげで高宮家との縁談話が見送りとなったが、裏には明石がいたとみえる」


「なぜ殺したのでしょう?」


「わからん。明石は冷徹な男だが、無駄なことはしない。少なくとも昔はそうだった。あまり良い予感がせんな」


「また琴葉を連れ去りに来るのでしょうか。このままここにいさせて大丈夫でしょうか」


「こんな無体なことを仕出かすとなると、ちと不安だな。敷地は広いし、建物の造りも複雑で守るに難く攻めるに易しといった按配だ。他へ移った方が良いかもしれんが……」


「行くあてがないですね」


 二人して眉間に皺を寄せていると、勢いよくドアを開けて千代が入ってきた。夏のこととて、暑い空気が動いて肌をねぶる。


「うわぁ、あついあつい。正三の馬鹿が後先考えずに庭木を刈り込みやがって。木陰がなくなっちまったね。こんなところにいたら暑くて溶けちまう。少佐、大磯に行こうよ。あたしは海が見たい」


「大磯は一等避暑地だ。滞在するにも金がかかる」


「そう思うだろ? 大磯にさ、神尾家の別宅があるんだって。夏には避暑に行ってたらしい。な、いいだろ。みんなで行こうじゃないか。琴葉もかまわないと言っていたぞ」


「そうか。そろそろ書類仕事も片付くし、休暇願いが必要なのは私と十五郎だけだからな。様子見にちょうど良いかもしれん」


「いいねぇ、行こう行こう。いい風が吹くらしいよ」


 こうして避暑地へ向かうこととなった。


 当時の大磯は御大尽級の一大避暑地。陸蒸気の東海道も通り、医療としての海水浴でも人気が高く、夏には避暑客で賑わっていた。明治以降、歴々の総理大臣が別荘を構えたことでも有名で、それだけ魅力的な避暑地だったのであろう。


 東京から陸蒸気での旅を経て、たどり着いたのは平屋の古い日本家屋である。


 手入れが行き届いているとは言い難いが、清流を渡って風が吹き込み、ひんやりと土間を撫でつける。庭には澄んだ水の湧く井戸もあり、過ごしやすいことこの上ない。


 涼しい涼しいと千代がはしゃいで騒ぎ立て、まめな正三は、家の内外、修繕箇所を確認して回る。


 人心地ついてのお昼過ぎ、琴葉と十五郎が縁側で涼んでいると。舩坂少佐は、別荘群の歴々に挨拶に行かねばならんと不承不承の出発。千代と正三は、日用品と食材の買出し。琴葉は不用意に出歩かない方が良いとして、目付け役に十五郎を添えて残された。


 縁側には硝子細工の風鈴がつるされ、吹き込む風を軽快に迎え入れる。巻き込まれた蚊取り線香の煙がふうわりと消えていく。穏やかで静かで、ゆったりとした時間が流れては消えていく。


「静かですね」と、ぽつりと琴葉。


「ああ。風も、涼しく優しい」


「すぐ近くに綺麗な川が流れているのです。その上を渡ってくるので、潮も落ちて爽やかな風になるのでしょう。子供の頃は、よく川で遊んだものです」


「ちょっと行ってみるかい?」


「川へですか?」


「そう遠くもないみたいだし、少しぐらい良いだろうさ。俺の故郷にも川があって、釣りをしたり水切りをしたり、よく遊んだよ」


 屋敷の裏手、海へ向かう道の途中に煉瓦造りの小さな橋があり、さらさらと水が流れていた。川幅も狭く、水量も豊かとは言えないが、美しい川である。


 丸く滑らかな石がからからと明るい音を立て、岸辺から落ちる樹影が、やわらかく足元を覆う。ところどころ差し込む光で、まだらに輝いていた。


 十五郎は、光を打ち返して輝く白い石を拾い上げて耳に当てた。どこか懐かしげな様子を、琴葉は何も言わず見ていたが、不意に涙が頬を伝うのを知った。自身、涙のわけもわからず、十五郎が見ぬ間に、そっと手の甲でぬぐう。吹き抜ける風が、涙の跡を消し去り、空へ連れて行った。


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