第37話 別れと理由
先日、稲田十五郎の借家が半壊する出来事があった。黒い霧のような化け物に襲われ、なんとか始末はつけたものの、翌朝、近隣に住む大家から大目玉を食らった次第。
それはさておき、化け物に取り込まれていた神尾光也だが、怪我もなく、その後なんらおかしなこともない。話を聞くと、朦朧とした意識の中でも自身の行動を覚えてはいたらしい。助け出された後、普段と変わらぬ口調で言うには、
「憎らしい俺を助ける羽目になるとは因果なものだな。礼ぐらいは言ってやってもよいが、それより、壊れた家の始末と神尾家の家督のことを良きように計らってやろう。家はすぐに直してやるし、神尾家の家督も瑞樹と琴葉に返してやる。
なんだ、意外そうだな。勘違いするなよ。俺は、そこらのケチな成金どもとは違う。自分がやりたいことができるように金と力が欲しいだけだ。穴倉に金を溜め込んで腐らすような馬鹿どもと一緒にするな。俺は俺が望むことをやる」
実は、神尾しのの遺書があり、そこには神尾家の家督は瑞樹に、ただし神田の屋敷と土地、いくらかの財産を琴葉に残すとされていたらしい。
光也があれよあれよと手続きを進め、数日後には屋敷も引き渡された。海外の瑞樹にも連絡がつき、十日ほどでもろもろ一段落したのである。
しかし、神尾しのが亡くなり、安川夫人も寄る機会がなくなった。広大な敷地を持つ屋敷に琴葉一人が住まうこととなるのだろうか。むろん、いつまでも十五郎の家に仮住まいというわけにもいかぬが。
落ち着いた頃、まずは徹が故郷へ帰ることとなり、あわせて琴葉も屋敷へ戻る段取りとなった。
徹を見送りに出た十五郎、別れ際に、迷いながら懐から取り出したのは小さな黒い玉である。
「これはウェンカムイから零れ落ちたものだが、どうしたものだろう?」
見せられた玉を手に、徹がいう。
「古い銃弾だな。なんとなく察しはつく。兄は何か言っていなかったか?」
「黒い霧に飲み込まれ、ウェンカムイの痛みや怒りが伝わってきたと言っていた。
狩人に撃ち込まれた銃弾が神経に障って酷く痛み、常時、怒り狂っていたように感じたと。これがその銃弾のようにも思うのだが」
「だとしても私には不要なものだ。もちろん、君らにも不要だろう。海へ捨てるなり山へ戻すなり、好きにすればいい。気になるなら神社でも寺でも気の済むようにしてくれ」
「わかった。気をつけて帰れよ」
「ああ、世話になった」
と頭を下げて、続けて琴葉に向き合った。
「琴葉にも世話になった。妹ができたみたいで嬉しかったよ。真子のこともよろしく頼む」
「こちらこそ、ありがとうございました」
あいさつを終えて徹が船に乗り込むと、あとは早いもので、訪ねてきたときと同様、すっといなくなってしまった。
徹が帰ってしまえば、琴葉も屋敷へ帰らねばならぬ。淋しい気持ちを抱えながら家路についた。互いに、このまま一緒に暮らしていたいように思う気持ちもあれど、もはや何の理由もない。神尾家の家督も瑞樹が継ぎ、琴葉は屋敷へ戻れるのだから。
気持ちと理由とは、いつも連れ立って来るとは限らないもの。所詮、華族の令嬢と平民上がりの一憲兵、淡く通じ合うものがあってもそれだけのこと、などと思っていたかどうか。ただ淋しい家路である。
どちらも黙ったままで、十五郎の家が近付いてきたころ、一人の女性とすれちがった。
ふいと動いた右手が十五郎の懐に触れる。常人なら気付かないであろう熟練の掏摸の手管といったところ。だが、そこは腕に覚えのある十五郎だ。さっと腕を掴んで誰何しようとしたが、女性は掴まれた右手から自由な左手へ黒い玉を落として見せた。それは先の銃弾である。
左手で投げて寄越したその先に、明石吉之助が立っていた。




