第36話 影との戦い
草木も眠る丑三つ時、しんしんと静けさの響く夜に必死の思いで戸を叩くのは神尾真子。強欲な父親に似ず、心優しい娘だが、今は顔を引きつらせて背後を気にしながら激しく戸を叩き続けている。
その家は叔母の徹と従姉妹の琴葉が仮住まいしている稲田十五郎が借家で、戸を開いた徹は、相手が真子であることを認め、さっと内へ招き入れた。
「どうしたのだ。こんな時間に」
「わからない。わからないけど、突然、父が……」
「兄が、光也がどうかしたのか?」
「ば、化け物に。あれは、父さんだけど父さんじゃない。きっと、あたしを追ってきてる」
と言って、真子が怯えて周囲をうかがう。
ギシギシと床を踏む音。
ひっと声をあげる真子だが、現れたのは寝ぼけ眼の琴葉である。緊張感のかけらもなく、
「あれ、真子ちゃんじゃない。まだ夜中だよ。どしたの?」
と、目をこすりながら言う声に安堵させられる。和やかな空気が生じたが、それも一瞬のこと。猟銃を手に取った徹が、二人を奥へ押しやった。
ほとんど同時に、母屋の壁が吹き飛び、黒々とした物が侵入してくる。
一撃を受け止めた徹が宙に浮いた。うまくいなして着地するも、衝撃に咳き込まずにはおられぬ。その隙に、それは真子と琴葉の元へと向かった。まだ寝ぼけている琴葉の手を取って、真子がいう。
「ちょっと、しっかりなさい。逃げるわよ」
「え、え? なに? どういうこと?」
「寝ぼけてる場合じゃないんだってば」
がくがくと琴葉の首を揺らしているところへ、それは二人に向かって腕を振り上げ、勢いよく振り下ろした。そのまま当てられていればただでは済まないところ、その一撃は空を切った。
琴葉が真子を抱えて跳びずさったのだ。自分より大きな真子を抱えているとは思えない動きである。抱き上げられたままの真子が、琴葉に向かっていう。
「あ、あんた、葛葉ね」
「ええ、夜は私の時間ですから」
くすくすと笑いながら、追いすがる一撃一撃をひらひらとかわす。そこへ、物音に気付いた十五郎がやってきた。まず目に入ったのは部屋の惨状である。壁が崩れ、外が見えているではないか。
「か、壁が。これはまずい。これはまずいぞ。なぜ、こんなことに」
肩を落として気付いたのは葛葉に迫る黒く長い腕だ。化け物から触手のように伸びている。咄嗟に踏みつけにしようとするが、するりと擦り抜けてしまう。まるで幻のようで触れることができないと思う間に別の手が伸び、十五郎を壁際まで激しく払いのけた。
その隙に、猟銃を構えた徹が化け物に狙いを定め、引き金を絞り始めたが、
「だめ! 撃たないで、徹さん。こいつは化け物だけど、あたしの父さんなの!」
との真子の叫び声を聞いて、撃つ瞬間に銃口をずらした。放たれた弾丸が天井にめり込む。
妖しのものの周囲には黒々とした霧が渦巻き、それが何かの形をとっている。ウェンカムイに違いないと徹がよく目を凝らすと、ちらちらと人らしきものが見える。黒い霧に巻かれているのは、真子の父親にして徹の兄、神尾光也だった。
「馬鹿兄貴め。真子、どういうことなんだ?」
「わからない。急に父の様子がおかしくなって。足元から黒い霧に包まれたと思ったら、化け物みたいになって。あたし、恐くなって逃げ出してきたの。でも、追いかけてきて」
と言い立てる真子だが、葛葉の腕に抱かれたまま動くことができない様子。ウェンカムイが、のっそりと向きを変え、葛葉と真子に向き合う。
「ちょ、ちょっと、葛葉。身体が動かないんだけど、あんたも動けないの?」
「ええ、まったく」
珍しく焦った様子で応じる。
「動くのは口だけですわ。これは少々参りましたわね。それに足首から先が……」
目だけ動かした視線の先、葛葉の足が黒い霧に飲み込まれている。足首を掴んだ黒い手が霧の中へ引きずり込もうとしていた。
もはや撃つしかないと徹が覚悟を決めた時、真子の胸元が青白く光った。屋内の薄闇にぼうっと浮かび上がったのは護り牙である。徹の猟犬、ルウの形見だ。
光を浴びて一瞬たじろぎながらも、ウェンカムイは威嚇するような声を上げた。その身を包む黒い霧がぐっと膨れ上がると、真子に向かって躍りかかる。
すると、護り牙から放たれる青白い光に浮かび上がった影がぐねぐねと蠢き、そこから青白い四足の獣が現れ、ウェンカムイを跳ね飛ばした。黒い霧も四散し、自由に動けるようになった葛葉はひらりと跳んで二匹の獣から距離をとる。
二足の獣と、四足の獣、どちらも輪郭は判然とせず、周囲を霧のような物が覆っている。徹には、ウェンカムイとルウの姿が目に浮かぶようだった。
そこから二匹の死闘が繰り広げられた。互いに霧状の牙を突きたて喰らい合う。
だが、徹の猟犬、ルウなのであろう四足の獣は勇猛に闘っていたが、次第に劣勢となり、その青白い光は徐々に弱まっていった。やがて、床に押さえつけられてしまう。その姿を目にして、
「ルウ!」
と徹が猟銃を構え直すが、光也に当てるわけに行かず、躊躇したまま固まった。すると、ルウは遠吠えを上げながら、前足で何度も地面を叩くではないか。
その首を、二足の獣が容赦なく食いちぎった。護り牙が砕け散り、霧散する。それを見届けるようにして、ウェンカムイであろう二足の獣は、じっくりと値踏みするような視線を、十五郎、真子、葛葉、徹へと巡らせた。
やがて次の標的を定めたのか、徹に向かって歩き出す。じりじりと近付く黒い影に追い詰められ、徹が壁際へ押しやられた。銃床が壁に当たって音を立てる。その時、
「徹様!」
と葛葉が呼びかけた。
「影を! 影に実体はありません。しかし、実体が影であり、影が実体であるところ、いまは足元の影が実体と見ます。青白い獣が伝えたかったのは、そういうことではありませんか」
「わかった。あれはルウに違いない。最後まで私を護ってくれたルウを信じる」
銃口を斜め下へ向けて撃つ。銃弾は過たず黒い霧の足元を貫いた。
グゥゥゥゥゥゥゥ!
くぐもった唸り声とともに、ウェンカムイの胸元から黒い霧が噴き出した。周囲を覆っていた霧が薄まり、その場に、ごろりと光也の体が転がる。
少し離れて、薄まった黒い霧が小さくまとまろうとしていた。そこへ向かって走る者がある。最初の一撃からようやく立ち直った十五郎である。
「借りるぞ」
走りながら、壁に立てかけてあったマキリを拾い上げた。黒い霧の塊を両断し、その下に浮く、ぼんやりとした影にマキリを叩きつけると、霧も影も、すべて消え失せた。あとに空中から、ころんと何かが転げ落ちる。飴玉のような黒い小さな玉である。




