第34話 犬の鳴く夜に
明治期の没落華族、神尾家の子女である神尾真子が父親の様子がおかしいと話していたところが、叔母を称する女性が現れた。
これまで父親に兄弟姉妹などいないと思っていただけに不審な目でみる真子だったが、どうやら嘘ではないらしい。まだ若いその叔母は、不思議な話を語るのであった。
兄の光也とは十歳近く離れているから、少々、変な感じもするな。真子と言ったか、君からすると、私は叔母にあたるわけだ。会ったこともない私に言われても信じられないだろうが。
まだ名前すら言っていなかったね。
和名を徹という。男が使う名前らしいが、便宜上の名前だからどうでもいい。
さて、どこから話したものか。
私の兄、君の父親だな。光也は、何年も前に故郷のアイヌモシリ、和人の言う北海道を捨てて出て行ってしまった。風の噂で東京にいるとは聞いていたよ。二度と会うこともないと思っていたが、それでも兄は兄だ。私は警告を伝えに来た。
兄が故郷を捨てたのは、自身の野心のみではない。凄惨な出来事に見舞われたからだ。
人を殺し、人の肉の味を覚えた羆、ウェンカムイを殺しに出て、逆に狩人たちが皆殺しにされたことがあった。兄もその場に居合わせたのだ。何の因果か、兄だけが殺されずにすんだ。
本当に大きな羆だった。
体がでかすぎて冬眠する穴倉を見つけられなかったのだろう。穴持たずになって人里へさまよい出たんだ。返り討ちにあっても、それで羆狩りが中止されるわけもなく、むしろ報奨金も跳ね上がって何度も討伐隊が繰り出された。
私は恐がりだから討伐隊に参加したりはしなかったが、偶然、羆を仕留めてしまった。
討伐隊に追われて逃げてきた羆と出くわしたんだ。その時のことはあまり覚えていない。夢中で撃った一発が致命傷になったらしい。
追ってきた連中は分け前のことを心配しながらも、とにかくもウェンカムイを仕留めたと喜び、人食い熊への罰として、羆の肉を裂き、叩きつけ、ばらまき、証拠となるものを切り取って、残りは無残に山中へ捨て置いていった。
それで全てが終わるはずだった。
しかし、やがて討伐隊の連中がおかしな死に方をするようになった。ある者は狩の最中に仲間の誤射で。ある者は仕留めたはずの獲物が息を吹き返してその牙にかかり。ある者は気狂いのようになった自分の猟犬に噛み殺され。ある者は足を滑らせて崖から落ち。
おおよそ一年に一人。
危険な生業の者たちとて、最初のうちはさして気にする者もいなかった。だが、こうも続くと、おかしい、これはウェンカムイの祟りだと言い出す者も出てくる。術者に相談したり、身を守ることを考えて。それでも順々に討伐隊の連中は死んでいった。
どうやら羆に深い傷を負わせた者ほど後回しになるようだった。つまり、止めを刺した私は最後に殺されるわけだ。
何年たっても、ウェンカムイの祟りが治まることはなく、討伐隊の最後の一人を死なせた。
もう隠居して猟犬も手放し、猟銃も売り払って静かに余生を送っていたらしい。祟りを恐れて山へ入ることすらなかったと聞く。それなのに、自宅で猫に噛み殺された。飼い猫が泡を吹いて苦しみだしたと思ったら、あっと言う間もなく、老人に襲い掛かって喉を食いちぎったのだという。
そして、私の年が来た。とはいえ、あがいてもせん無きこと、いつか人は死ぬのだからと普段どおりに暮らすことにした。
不猟の時でも全く何も獲れないのは珍しいが、猟犬のルウを連れて山へ入ったその日は、夕方になっても獲物がなく、つい遅くまで山に残ってしまった。
薄い山道をマキリで切り開きながら歩いていたところ、急にルウが振り返り、私に向かって毛を逆立てて吠え始めた。暗い木立ち以外に何もないのに宥めても効かず、狂ったように吠え立てながら、歯をむき出しにして向かってくる。
猟犬や飼い猫に殺された連中のことを思い出し、あるいはこれがそうかと額に嫌な汗が浮かんできた。ルウが飛びかかってきたとき、思わず振るったマキリがその喉を裂き、大量の血が吹き出た。
その時になってやっと、自分の背後にいるものに気付いた。大木の幹だと思えていたものが、鎌首をもたげた大蛇だったのだ。ルウはこれに向かって吠えていたのだと分かった時には、もう手遅れだった。
蛇に睨まれた蛙とはよく言ったもので、逃げ出そうにも体が言うことをきかない。愛犬を誤って殺し、その上で自分も殺される。これが私への呪いかと妙に納得したような気持ちでいた。
ところが、私は無事だった。
徐々に迫ってくる大蛇に向かって、鮮血を撒き散らしながらルウが飛びかかったのだ。木々が倒れ、大蛇が暴れ回る音が響く。地に伏した大蛇が、血まみれのルウに噛み付かれて悶えていた。ようやく動けるようになった私は、マキリで滅多やたらに斬りつけた。大蛇は散々に荒れ狂ったが、やがて動きも緩慢になっていき、終には動かなくなった。
ルウは最後まで大蛇に喰らいついたままで、抱き上げようとした時にはすでに息が絶えていた。よほどの力で噛み付いたのか、固まった口を開くと、その牙は大蛇の身に食い込んだまま抜け落ちた。首を斬られながら、それでも私を助けてくれたのだ。本当に可愛そうなことをした。
それで終わりなら、ここへ来ることはなかっただろう。その日の夜から例の人食い熊の夢を見るようになった。私を殺そうとするが、その夢の中でも、私を救ってくれるのはルウだった。
七日経ち、夢の中の熊も懲りたのか、私が襲われる夢は見なくなった。代わりに、兄が襲われる夢を何度も見るようになった。
夢の中で、私はまだ若い頃の兄となり、羆の討伐隊に参加していた。
狩小屋で夕食をとっていると、壁を破って羆が乱入してくる。狩人だけでなく、道案内や給仕の者も殺し、逃げる者、戦う者、いずれも殺して回った。
兄に成り代わっている私は、小便をたらして殺されるのを待っていたが、なぜか羆はくるりと向きを変えて狩小屋から出て行く。ほっとした私が立ち上がろうとすると、どこからか戻ってきて殺そうとするのだ。そこで目が覚める。
ここ数ヶ月、その夢ばかりを見る。
ウェンカムイは、きっと私と魂の似た兄のもとへ行ったに違いない。何の気紛れでか殺さないでいた兄のことを思い出したのだろう。私にはそう思えた。だから、警告だけはしておこうと思ったのだ。
兄のことだ。出世した自分にたかりに来たとでも思うかもしれないがね。




