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第32話 涙、涙の、涙雨


 没落華族とはいえ、神尾家当主の死去にしては寂しい様相であった。身内で看取ったのは、その孫の琴葉ひとりだったのだ。


 縁あって居合わせた十五郎も、声を押し殺して泣く琴葉を見守るしかなかった。事後のことも話さねばならないが、どうしたものかと思いめぐらせていると、粗野な足音が響き、乱暴にドアを開く者があった。

 無遠慮に入ってきたのは、齢四十ほどの男。精悍な顔つきと大柄な体躯とで若く見えるが、琴葉の叔父、神尾光也である。部屋に入るなり、あらっぽく、


「はっ! くたばったか。ばばあ」


「静かになさい。病室です」


 とは、涙の跡を残した琴葉の声。


「さすが、ばばあの孫だ。屋敷から追い出してやっても、しぶとく付きまとうじゃないか。だが、分かってるよな。お前には、なんの権限もないってことが。屋敷や土地の話じゃないぜ。ばばあの骨すらお前のものじゃねぇ。力がないってのはそういうことだ」


「あんたが琴葉の叔父か」


 怒りを押し殺した声で十五郎がいう。


「仏さんの前で、ずいぶんな言い草じゃないか。どういうつもりだ」


「あん? なんだ、お前は? ああ、例の憲兵さんか。お前には関係の無い話だ。ひっこんでな」


「……貴様!」


 腰を浮かしかけた十五郎を琴葉が制する。


「おやめなさい、 二人とも。良いのです。叔父の言うとおり、いや、もう叔父でもないのでしたね。その男の言う通りです。

 御役所の書類上、もはや私は神尾家とは縁もゆかりもない小娘。お婆様のことも、私にはどうすることもできません。もっとも、悲しむことまで縛ることはできませんよ。それと叔父様、いや光也様、あなたがお婆様の御遺体を手荒く扱うわけがないことくらい、わかっています。

 世間様に、自分が神尾の当主になったことを示したいのでしょう? むしろ、私に託されるよりも大々的に、仰々しく、さぞかし立派な御葬式をしていただけることでしょう。よろしく、お願いしますよ?」


 そう言って頭を下げながら、琴葉の目は厳しく光也を睨みつけていた。気圧されることなく、睨み返しながら光也がいう。


「ああ、任せておけ。華族の当主としての門出だ。これ以上ない派手な葬式にしてやろう」


 火花が出そうな睨み合いを終えて、琴葉は祖母の頬に手を当てて別れを告げると、さっさと病室を出て行ってしまった。

 にやにやと笑みを浮かべる光也を残して、十五郎も病室を出た。琴葉の歩いた後には、点々と涙が落ちている。強気な言葉とは裏腹に、両目からは涙が溢れているようだった。かける言葉も思いつかないまま、それを踏まないように後を追った。


 朝日を浴びた滴が、きらきらと輝いていた。


 病院を出てからは互いに話すこともなく、黙って十五郎の借家へと向かった。野暮な十五郎だが、いまだけはそっとしておくべき時であると知っている。黙々と歩く先へ、ぼろ屋ではあっても、早く帰って内に籠もりたかった。


 ところが、借家が見えてきたころ、玄関先で、うろうろと落ち着かない様子の少女がいるではないか。下町の野暮ったい格好ではない。洋装の、まさに御令嬢。琴葉より、ひとつふたつ年上か。どこか日本人離れした白い肌に、すらりとした体付き。琴葉が日本人形のような美しさだとしたら、その少女は西洋人形のような美しさだ。


 どうやら十五郎と琴葉には気付いていない様子で、玄関先に置いた包みを持ち上げては開き、開いては置き、何度も繰り返している。同時に、ぶつぶつと何やらつぶやいていた。


「これで良いかしら。あの子、しっかりしているようで、そうでもないし。昨日の荷物も、ちゃんと受け取ったのかしら。他の人に盗られたりしていないわよね。そもそも、本当にこの家なのかしら。

 こんなぼろ屋に住めるものなの? 意外に図太いところもあるけど、繊細なところもあるし。心配だわ。まさか転がり込んだ先が、こんな小汚い家なんて」


「小汚い家で悪かったな」


 十五郎が声をかけると、少女は、ひゃうと間抜けな声を発し、あわわわと擬音が聞こえそうなほど狼狽してみせた。


「わわ、私、怪しいものでは御座いません。その、ちょっと道に迷いまして」


「……真子ちゃん?」と琴葉。


「あ、こ、琴葉じゃないの」


 地獄に仏といった様子で琴葉に抱きつき、十五郎から距離をとった。そのまま庇うようにする。


「あんた、大丈夫なの? こんなところに住んでいるなんて。こいつが例の憲兵? 大丈夫? 何もされていない?」


「あうう、大丈夫だから落ち着いて」


 と宥められて黙り込んだが、十五郎に対しては相変わらずの不信の目。しかし、気後れするほど整った顔立ちと透き通る肌に、思わず見とれてしまう。


「なによ? なに見てんのよ」


「すまん、思わず見とれてしまった」


「な、なに言ってんの。なに言っちゃってんのよ。なに、なんなの、こいつ」


 動転する真子と、頬を膨らませて不満顔の琴葉である。さて、事情を聞く十五郎に、「知りません!」と不貞腐れて答えない琴葉だが、宥めすかして聞いてみるに、こちらは神尾光也の一人娘だという。まったく似ていないなとの十五郎の感想はさておき、昨日の荷物も真子が届けてくれたものと知れた。


 神尾家が賑やかなりし頃、成り上がりの余所者である光也を父に持つ真子と、後妻にして元遊女の母を持つ琴葉は、互いに似通ったところを感じてか、よく一緒に遊んでいたという。

 今回の件について、真子は相当に父親に反発したらしいが、父親の光也は聞く耳持たず。仕方なく、手回りの荷物だけでもと、父親の目を盗んで琴葉に届けに来てくれたらしい。琴葉が、そのことについて礼を述べると、


「な、なに言ってんの? 私は、ただ、荷物が邪魔だったから捨てに来ただけだし。あんたの情けない顔を見に来ただけだから。

 で、どうだった。お婆さまには会えたの? 入院当日は、お茶の出し方が悪いとか、言葉遣いが悪いとか、散々だったわ。あんなに元気で、入院なんて。って、あれ? どしたの琴葉?」


「お婆様は、今朝方、亡くなりました」


「え? だって、あんなに元気でうるさくて」


 と、十五郎に向かって問いかける。


「ねぇ、あんた。本当に? お婆様が?」


「ああ、静かに息を引き取られた」


「え、本当に。そんな……」


 真子が見守るなか、俯いた琴葉の頬に、そろりと涙が伝う。琴葉を抱きしめながら、真子は肩を震わせておいおいと声を上げて泣き始めた。まさに子供のようにとめどなく涙を流し、遠慮なく泣き声をあげて。

 つられて、抑えていたものが溢れ出したのか、押し殺すことなく、琴葉もわんわんと泣き始めた。おいおい、わんわん、おいおい、わんわんと合唱のように泣く。年相応に泣きわめく琴葉を見て、十五郎も涙を浮かべながら、しかし、嬉し涙に近いような気持ちで、良かったなぁ、泣けて良かったなぁと笑顔でいた。



〈追申〉

 近所中に響き渡るほどの声で泣きわめく二人の娘っ子を尻目に、にこにこと笑っている十五郎に悪い噂が立ったのは言うまでもない。


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