第31話 旅立ちは病院で
その頃、ようやく設けられ始めた床付きの病院のひとつ。神尾の屋敷から不忍池へ向かう途中、洋風の洒落た建物があり、琴葉の祖母、神尾しのは、その一等室に入院しているという。
病室に近付くにつれ、何やら騒ぎが起こっていることが分かった。神尾しのが、しっかりとした声で看護婦を叱り付けていた。
「どきなさい! なにも悪いところなどありません。あの子を探しに行かないと」
「おやめください。立って歩けるような状態ではないのです。どうか安静にしてください」
と、これは看護婦であろう。
少年の格好をした琴葉が、意を決したように病室へ入った。祖母の方を向いていう。
「僕ならここです」
「ああ、そこにいたのですか。さあ、手を握っておくれ。勝手に出て行ってはいけませんよ」
「わかっています。でも、病院は退屈で。遠くへ行くことはありませんから、母さまこそ、看護婦さんを困らせるようなことはしないでください」
「うんうん、そうですね。もちろんですよ。さあ、ベッドに戻るから」
穏やかな表情で応じて、神尾しのがベッドに横になった。そこでようやく、所在無げな十五郎に気付いたようである。笑いながらいう。
「おや、そこの人。この間、屋敷で迷子になっていた人ではありませんか? 無事に屋敷を出られたようで何より。この子の友人にしては歳が離れていますか。軍人さんと知り合う機会なんてありましたかね」
「ええ、いろいろありまして。懇意にさせていただいています」
十五郎が頭を下げ、後を引き取って琴葉が、
「そのうちゆっくり話しますから、とにかく安静にしてください」
との真剣な言葉が効いたのか、深く詮索することなく、しのは眠りについた。
手を握ったままベッドに寄り添い、その寝顔を見守る琴葉だが、病室を訪ねてきた医師に促がされて、そうっとベッドを離れた。
医師が言うには、しのの容態は見た目以上に悪く、眠りと目覚めを繰り返しながら、やがて目覚めぬことになろうとか。入院させるだけさせて誰も来ないので困っていたらしい。
思いのほか厳しい現実を示されて、琴葉の気持ちは如何ばかりか。しかし、気丈な様子で、苦しくはないのか、何かしてやれることはないのかと医師に問いかける。手を握っておいてやるぐらいしかないと言われ、力なく病室へ戻る琴葉の背中は、まことに寂しそうである。
その日は、祖母に付き添う琴葉とともに、十五郎も病室で一夜を過ごす覚悟を決めた。当の本人は、そんな様子も知らぬかのように静かに眠っている。
その夜のこと、ふとした気配に十五郎が目覚めると、窓から差し込む月明かりの中、穏やかな表情のしのが、ベッドに寄りかかって眠る琴葉の髪を優しく撫でつけていた。
視線に気付いて、首を傾げるように此方を見る老いた顔に、若き日の美しさが残っている。それは、月明かりの下で残雪のごとく照り映えていた。
静かに口を開いていう。
貴方、稲田十五郎さんですね。ずっと靄がかかっているような気分でした。瑞樹が話してくれていたのに、思い出せなかった。
え? 音なし?
確かに、そういう言い伝えはありますね。でも、今回のことに関係があるとは思えません。財産を遺贈してくれた方からは、以前からずっと話はありましたし。私自身のことも……
寿命でしょう。
何をおいても、天命には逆らえない。
年老いてもしっかりしている方だと思っていましたけど、琴葉にこんな格好をさせることになってしまうとはね。ええ、いまはこの子が可愛い孫娘だと思い出せています。
きっと私はもう死ぬのでしょう。頭も心も体も、何もかもが透明で静かで。妙に、すっきりしているのです。琴葉の中で葛葉も眠っています。でも、耳には言葉が届いているはず。
琴葉、葛葉、私のために御免なさいね。貴方たちには苦労をかけてきました。これからも、さらに苦労させることでしょう。でも、大丈夫。貴方たちに寄り添う十五郎さんの姿が見えます。
ふふ、私の勘は当たりますよ。
死に際の言葉だからといって、呪いなどと思わないでくださいね。貴方は、貴方の意思で、どうしてもらっても良いのですから。
ああ、そろそろ時間のように思えます。
この子たちのこと、頼みますね。え? 起こさなくて良いのかって?ええ、ええ、良いのです。貴方から伝えてあげてください。
本当なら、この子には恨まれたっておかしくないのに、一族の誰よりも私を愛してくれたわね。時間があれば、この子の母親の墓を、もっときちんとしてやりたい。私は、冷たい祖母でしたよ。母親似のどこか妖しげな目で見つめられると、嬉しくって辛くって何とも言えなかった。
最後に、そう、貴方を一族に迎えられて良かった。幸せになりなさい。琴葉、葛葉、二人とも、これまでありがとう。
言い終えたしのの手から力が抜けた。はらりと落ちた手が頬に当たり、目覚めた琴葉が身を起こした時には、すでに亡くなっていた。




