第30話 置き手紙
さて、あらゆるものが流動的で落ち着かず、流れ続ける川のような時代。いつの世もそうであるとも言えるが、この明治の世こそは、激流に呑まれる笹舟の如きか。
稲田十五郎は、この時代に生きる憲兵の一人である。時代が下って憲兵が忌み嫌われるようになるのはまだ先の話。いまは新時代の熱気の中で、確かに血の通う軍人としてごく真っ当に暮らしている。
正直者にして心温かく、厄介ごとに巻き込まれやすい十五郎。この度は、縁あって華族の御令嬢と同居することと相成った。
厳密には、名門神尾家から追い出された神尾琴葉あるいは神尾葛葉である。二つ名の由来はすでに示したゆえ、ここでは語らぬ。
十五郎の住まいを頼ってきた際に言った通り、訪ねてきた当夜、また翌朝から、琴葉は甲斐甲斐しく立ち働いた。
華族の御令嬢とは思えぬ働きぶりだったが、それもそのはず、没落華族の神尾家で幼い頃から家の用を担ってきたのだ。
別室で眠る十五郎を置き去りに、琴葉は日の出とともに起床し、朝餉の支度はもちろん、内外の掃き掃除まで万全にやり終えた。十五郎が驚き、恐縮したことは言うまでもない。
朝から汁物の香りが家内に流れ、寂しい一人暮らしでは感じられない種々の温かさ。それも見目麗しき華族の令嬢がなすことゆえ、十五郎でなくとも頬が緩もうというもの。
御厄介になっている身として相伴を拒む琴葉を宥め、二人で静かな朝餉を済ませた。食後、立ち上がろうとする十五郎を制して、琴葉が流しで洗い物を始めた。その背中に向かって声をかける。
「本当にいいのかい。上げ膳に据え膳で申し訳ないが」
「いえ、寝床から何から世話になりまして。家内で立ち働くぐらいしか能もなく」
「いつも一人の食事だ。今日は幸せな気分だったよ」
「何も愉快な話もできませんが、そう言っていただけると助かります」
「はは、自分としては、ずっとうちにいてもらえると嬉しいね」
冗談交じりの言葉に、陶器の割れる乾いた音が響いた。琴葉が皿を取り落としたのである。大丈夫かと立ち上がった十五郎に頭を下げる。
「大丈夫です。すいません、大事な御皿を割ってしまいました」
「二束三文の皿だ。怪我はないか?」
言って、琴葉の手を取った。不意に手を取られて琴葉の顔は真っ赤である。
俯いた琴葉が、ほんの一時の間をおいて、くすくすと笑いだした。上げてきたその顔は普段どおりに白く艶やかで、ただ目だけが妖しく輝いており、あだっぽい声で言うには、
「まったく、十五郎様は御上手で。あまり琴葉を困らせないでくださいな」
「あ、葛葉か」
「ところで、いつまで手を握られます?」
言われて慌てて手を離したところが、再びくすくすと楽しげに笑う。
「ふふ、琴葉に戻してもいいのですよ。その方が御好みでしょうか」
「いや、あのな。からかうのは止めてくれな」
「からかっているのは貴方の方でしょう? いけずなことで」
いやいや、と言い返そうとしたが、葛葉から静かにするよう人差し指を出されて黙り込んだ。表に人の気配がする。十五郎が見たときには、すでに誰の姿もなかった。ただ表には、鮮やかな桜色の風呂敷に包まれた荷物がひとつ。
何であろうかと手を出しかけたところ、葛葉が心当たりがあると言い、風呂敷包みを開いて見せた。
中にあったのは、洋服と手紙である。
十五郎と初めて出会ったときに琴葉が身につけていた男物の服と帽子だった。神尾しのが、亡くなった息子、即ち琴葉の父を探して彷徨うために、面影の似た琴葉が男装して慰めていたもの。
さて、手紙の方はと言えば、
『祖母の元へ、疾く参れ』
と短く書かれていた。振り向いた葛葉の目は真剣そのもの。普段は見せない表情に、驚くやら魅きつけられるやら。とにかく急いで行こうと言うほかない。




