2
薄鳴館で働く綾が初めて見たお客様の物語は、千華という女の、激しく哀しい恋の物語だった。
首から顎をゆっくりと撫でられ、あまりの気持ちよさに女は目を細めた。窓の外の蜜色の光はいつしか淡い青むらさきに変わり、夜の帳が下りようとしている。
初夏の生温かい風が吹き込み、女の髪を揺らせば仄かに芳香が漂う。
「千華、くすぐったい?」
「……気持ち好い」
京は微笑んだ。恍惚の表情を浮かべながら自分の手に身を任せてくれる千華が愛おしい。
千華と出会ったのは、まだ京が十の頃。当時彼女はまだ八つだった。
最初は可愛い妹のような存在だった。家も近く、しょっちゅう遊んであげたし、お互い家族のような存在として付き合ってきた。
でも、少女から一人の女として成長していく千華を、京は複雑な思いで見ていた。……同時に、美しくなる千華を腕の中に留めておきたいという激しい欲が芽生えた。
その思いを自覚してからというもの、京は常に千華と一定の距離を保つようにしてきた。こらえきれない一瞬が来て、それを越えてしまったら、もう、以前のような関係には戻れない。
でも、その一瞬は、たやすくやってきた。
六月の終わりだった。その日は千華の両親が帰らないとかで、千華は一人で留守番をしていたんだ。
雨の強い日だった。雷も鳴っていた。
突然の停電で、不安になった京が千華の家に様子を見に行くと、鍵は開けっ放しで、中に入ると、千華はぽつんと暗い部屋の真ん中に佇んでいた。
当時、千華の両親は喧嘩が絶えず、二人して家を留守にすることが多かった。千華はもうその時十六だったが、それでも寂しさや不安を抱えていたのだろう。
「千華、どうした……」
雷が光る。音がしばらくして聞こえてきた。
「け、い」
再び雷が光る。そのとき、千華の目がはっきりと見えた。真っ赤になったその目を見た瞬間、たとえようもない激しい愛おしさが溢れ出した。
「千華……!」
気づいたら小さな身体を抱え込んでいた。千華も抗うことなくその身を寄せた。雷が光ってすぐ落ちる。その音さえ掻き消されるほど、京は速まり大きくなる自分の鼓動を聞いていた。
今考えると、自分たちの間には不確かではあるが、そのような感情が昔からあったのかもしれない。
兄と妹のような関係から抜け出して、もう三年の月日が経つ。
千華は美しく成長したいまでも、京の腕の中にいた。
触れば吸いつくような瑞々しい肌も、少女のような薄紅の唇も、凛とした瞳も、全部、京だけのものだった。
じっとこちらを見つめる千華は、まだあどけなさが残っていたが、もう立派な十九の娘だった。
京が千華の小さな唇に口付けると、千華はそれに応えるように舌を絡めてきた。
「…………」
なにも知らない三年前とは、もう違う。千華はもう、口付けの味も、肌を合わせたときの気持ちよさも、知っている。京はそのことに頰を緩めずにはいられなかった。
「おいで、千華」
頷く千華を抱き寄せ首元に口をつけると、千華は僅かに顔を歪める。やさしく背を撫でると、千華は頰を上気させ、
「京……すき」
そう囁き、お返しと言わんばかりに京の唇の端に口付けた。
互いの匂いが身体に染みつくほどに濃密な時を過ごし、そんな関係を、ずっと続けていた。