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ここから短編となります。
お客様一人ひとりの物語をお楽しみくださいませ。
「綾さん、さっそくお客さまがいらっしゃいました。カウンターまで来てください」
翌日の午後三時過ぎ、黒地に真っ赤な椿の咲いた着物を着て、厨房の食器の位置などを確認していたわたしに、さっそく仕事がきた。
「はい」
結局あのあと、わたしはこれから住むことになる部屋に泊まった。夜も遅いというのもあったけど、なんとなくこの薄鳴館から出ていくのが億劫だったのだ。
厨房から出て、薄暗いカウンターへ小走りになりながら向かう。カウンターにはちいさな黄色い明かりが置いてあり、そこだけぼんやりと明るく、あとは目を凝らさないと見えづらい。
それなのに、カウンターのはじの席に座っているお客さんの姿は妙にくっきりと見えた。別にそこだけ明るい光が当たっているわけではないのに、ぼうっと浮かび上がるように見える。
さらに近づくと、女の人はまだ二十代後半から三十代くらいに見えた。
出されたお茶のカップにそっと口をつけ、白く細い喉がコクリと動く。それから、ゆっくりと首をこちらに向け、
「ここのお茶は、美味しい。懐かしい味がするわ」
そう言った。
女の人の目元には、泣きぼくろがあった。切れ長の一重の目のせいもあるのか、その顔は哀しげで、どことなく儚い。その女の人はそんな不思議な色気を纏っていた。
「桜茶でございます」
カオルさんは微笑んで、女の人にお茶を注いだ。
「そう、桜茶……すきだった、わたしも、あの人も」
女の人は茫洋とした瞳で桜茶を見つめている。
その桜茶が、彼女の記憶の中の何かを掻き立てているのだろうか。
「厨房の二番目のたなにある、お香を一つ持っておいで」
カオルさんは、わたしの耳元でそう囁いた。
え? お香?
うなずいて、急いで厨房に向かう。
二番目の棚の中には桜色のお香が一本、入っていた。
「ねぇ、なんだか昔話がしたくなってきたわ……桜茶の、せいかしらね」
桜色のお香を持ってカウンターに戻ってくると、女の人はそんなことを言って、一冊の日記をめくり出した。カオルさんはそれを見て微笑んだ。
「もちろん、よろしいですよ。薄鳴館は、そういう館でございますから。……そうだ、その日記の一ページを破ってこちらに渡してください」
え! 大切な日記を?
でも女の人は頷いて、一ページ破ってカオルさんに手渡した。
カオルさんは小さな受け皿を持ってきて、その紙に火をつける。するとたちまち薄紫の炎が燃え上がり、わたしたちの顔を照らした。女の人は、ゆらゆらと揺れる火を見つめながら、ぎゅっと何かに耐えるように顔を歪めている。
一方カオルさんはそれを気に留めることもなく、お香の方にも火をつけた。ゆっくりと煙が立ち上り、そこから仄かに桜の香りがする。
煙は細く長く伸びて行き、薄紫の炎に絡みつく。
「あぁ……あれはまだ、わたしが十代のころだったわ」
哀しそうな笑みを浮かべながら話し出す女の人の声と呼応するように、煙と炎は絡み合い、一幅の絵のような二人の男女がよりそう姿を作り出していた。
それが、いま、ゆっくりと動き出した。