08
次の駅に着くより早く、みことくんがぼくの名前を呼んだ。
「さつきくん」
そう言ってぼくを見た彼の表情は、出会った時と同じようなそれで、あの時の意味のわからない気持ち悪い動きをしていたモノと同じ生き物だとは思えないくらい普通だった。
あの時の奇妙な姿は今思い出してもどきりとする。みことくんの事に限らず、普通の人間が思いもよらない姿に豹変するのは、どんな場面であれ恐ろしい。
みことくんは「さつきくん、さっきみたいに向こうに座ってていいのに。僕が大人気なく子供を立たせているみたいじゃないか」と笑った。
みことくんには、車内はぼくとみことくんの二人きりに見えたのだろうか? よくわからなかったがとりあえず、みことくんが生気のない顔から元に戻ったことがぼくを安心させてくれた。
ついでに、それと関係があるかは分からないけれど、あの全身にざわざわと触れていた視線は感じなくなった。ちらりと窓に目をやると、反射ごしに見えた車内は、まだ満員だったけれど。
「大丈夫ですか?」
「ん?」
「みことくん、平気なんですか。どこもおかしくないですか?」
「……? 何で? 僕はどこもおかしくないよ。強いて言うなら……そうだな、ちょっとお腹がすいたくらいかな」
みことくんは冗談めかしてそんな事を言った。ホームに降りたことは記憶にないのかなと考えたけれど、それならそれでいいと思った。
何ともなくて、その上彼が覚えていないのなら、みことくんがあんな風になってしまったことをぼくが後ろめたく思う必要はない。
そんなことを考えながら、ぼくはなんとか身をよじってリュックを下ろした。中から校外学習のおやつの残り、残りといっても未開封のものを、みことくんにあげた。チョコのかかった小さめのクッキーのお菓子だったと思う。
ちょっとどころか余程お腹が空いていたのか、「え、くれるの? ……ありがとうね」と受け取られたお菓子はサクサク音を立てながらどんどんなくなっていった。
ぼくの視線に気付いたのだろう、みことくんは気恥ずかしそうに「実は、朝ごはん食べてなくて」とだけ言って苦笑いした。
朝ごはん? と訝しく思ったのを今でも覚えている。
ぼくが電車に乗ったのは校外学習が終わった夕方のことだ。ご飯を食べていないならお昼ご飯か、もしくは「朝から何も食べてなくて」だろう。そこまで考えて、不意にどうでもよくなった。
ぼくはそろそろこの状況があり得ないものだと認めていた。変な世界に来てしまったのかもなんて、まさか本気で考える日が来るとは。
ぼくは悲しいような呆れるような気持ちになりながら「そうなんですか」と曖昧に微笑んだ。
みことくんは溶けたチョコのついた指を舐めながら、反対の手でポケットからティッシュを出していた。それと一緒に、板ガムがポケットからころんと落ちる。
「あ」
座席から転がり落ちる前に、みことくんは綺麗な方の手でそれをキャッチし、良いことを思いついたという顔で「お礼に」とぼくにくれた。
辛いミント味は苦手だったけど、いりませんと断るほどのこだわりではない。ぼくはお礼を言った。
「ありがとうこざいます」
「んーん、こちらこそ。それにしても、死んでも味覚ってあるんだね。案外死人も捨てたもんじゃないな……」
包み紙を剥き終わり、口元に持っていっていた手がぎくりと止まった。ガムを食べようと開けていた口を閉め、手をおろす。
……みことくん。今、なんて?