23
ネットは人身事故の話題で持ちきりだった。持ちきりだった、と言ってもその沿線上の話だ。最悪。迷惑。また人身かよ。人身事故起こしたやつ死ねばいいのに。言いたい放題のSNSに目を閉じて謝罪をしてから、ぼくはスマートフォンの画面を消した。
「……酷い言い草だよねえ。僕は好きで轢かれ死んだ訳じゃないのに。気持ちはわかるけどね。実際僕もついこの間まで、すぐどっかしらで止まる電車に毎日イライラしてたよ」
みことくんは自身のスマートフォンを弄びながら自嘲混じりにそう言い、それからすっと目を伏せた。その視線には淀んだ暗さが宿る。
「いや、文句言われるのは別にいいんだ。仕方のないことだから。それより――自殺者と一緒くたに馬鹿にされるのが気にくわない。なんで自分から死んだ人と同じように疎まれなきゃいけないんだろう? 自分が世の中の迷惑になるとわかって線路に飛び込むような、陥されることを望んでるような人と。理不尽な世の中だよ。そう思わない?」
みことくんは言う。
「ねえ――――さつきくん」
蔑むようなみことくんの瞳にぼくがうつった。ぼくはその視線に安堵して微笑む。
ガタン、ゴトンと揺れる電車。穏やかな初夏の空。流れてゆく車窓のむこうの田舎景色。揺れるつり革、向かい合わせの座席に、誰もいない車内。ぼくと、みことくん以外は。懐かしいこの景色が、あまりにもふわふわとした優しい幸せを伴うものだから、ぼくは思わず笑ってしまっていた。そんなぼくを刺すようにみことくんは吐き捨てる。寄せられた眉根も細められた目もなんだか知らない人のようで不思議な気持ちになった。
「なんで自殺なんかしたの」
記憶の中よりもだいぶ鋭い声ですら、彼からぼくに発されたことが嬉しくて余計に顔が緩んでしまう。ああ、みことくんだ。ぼくはまたみことくんとあの小旅行の続きをしているんだ。ぼくは、自分の声が弾みすぎてどこかへ飛んで行ってしまうんじゃないかとすら思った。
「あなたに会いたかったからですよ。みことくん」
口元を押さえながらぼくは言った。
十年の月日はぼくだけに訪れたようで、ぼくの声だけが低くなっていた。ぼくの身長だけが伸びて、ぼくとみことくんの目線は同じくらいになっていた。ぼくは大学生でみことくんは高校生だけれど、きっと並べば同じくらいの高さだ。別にぼくが小さいわけではないと思う。あの頃みことくんの背がすごく高く見えたのは「お兄さん」というイメージゆえだけではなく、実際に彼は背が高いほうだったのだろうと思った。
みことくんは不機嫌そうに手すりに寄りかかる。首をかしげた拍子に、あまり日に焼けていない頬に髪が垂れた。
「何それ? 正直言って気持ち悪いよ」
「ああごめんなさい、別にそういうつもりじゃないんですよ。ただ、まさかみことくんを突き落としたのがぼくだったなんて、思ってもみなくて」
ゴトン! と電車が大きく揺れる。みことくんの不機嫌さはいっそう増したようだった。
ぼくは言う。
「……人間って結構思い込みが激しいでしょう。ぼくなんか特にそういう部類みたいで。ぼくの中で『みことくん』は神格化されてたと言っても過言じゃありません……あはは、引かないでくださいよ。幼い頃の憧憬って消えないものです。むしろどんどん美化されていってしまう。
――怖くなったんですよ。あのとき、一瞬で体の内が凍りついて何も聞こえなくなりました。今までぼくの柱になっていたものは何もかも夢想だったのかと。あの電車から戻ってきた後も、十年間もずっとぼくを心の中から支えて笑いかけてくれたみことくんは、全てぼくの妄想だったのかと」
「……ふうん。で、どうだった? 君の美しい思い出の中の『みことくん』と僕は、一致した?」
「ええ、それはもう。全く噛み合いません。それでもぼくは満足です。みことくんとぼくのあの小旅行は夢でなかった。あなたは確かにここにいた。内容はどこまで本当だったのか問い詰められたら困ってしまいますが、ぼくにとってはその事実だけで十分すぎるほど価値がある」
「死ぬ予定のなかった人生を捨てた価値が?」
「ありましたね」
「反吐がでるよ。さつきくん。きみ、そんなに薄気味悪い子だった? 鳥肌通り越して吐き気がする。よくそんなことできたね、よくそんなこと僕の目の前で言えるよね。頭おかしいんじゃない?」
「あはは。みことくんってそんな暴言吐くんですねえ。なんか新鮮です」
ぼくは楽しくて仕方がなかった。
「多分気持ち悪いって思うんでしょうけど、もう思ってるんでしょうからいいですよね?
ぼく、ことあるごとにあなたのことを考えてきたんですよ。別に四六時中考えてたわけではありません、もちろん。ただ何か起きたときにどうしてもふっと考えてしまうんです。辛いことがあった時も楽しいことがあった時も、青空も夕暮れも夜も花火も、暗闇も田舎町も高層ビルも電車も踏切も駅も影も。ぼくが何かに心動かされた時、連想するのはどうしてもあなたのことでした。
みことくんが今も見守ってくれてたりしないかなって、心の支えだったんです。笑っちゃいますよね。ぼくの記憶の中では、ぼくはずっとみことくんに生意気なことばかり考えていたのに。
そんな思い出の中のみことくんが本当は存在しないかもしれないと気付いた時、ぼく、ほんとに焦ったんですよ。――焦ったなんてもんじゃないな。
絶望。あれは絶望でした。
みことくんが亡くなり際に感じたものと同じかは分かりませんが、少なくともぼくの人生の中では一番の。今まで踏みしめてきた地面がぼくの足元だけぱっとなくなって、ジェットコースターで落ちる瞬間の内臓が浮く感覚が永遠に続くような。
思わず、死んでしまうくらいの。
ぼく、思ったんです。死んだらみことくんにまた会えるかなって。もしかしたら死んだ先にみことくんはいないかもしれないけれど、少なくとも、このまま生きながらえたらみことくんはきっと気分を害するだろうと思って。慌てて追いかけてきました。
だって不公平でしょう? お互いの不注意でぶつかってしまったとして、あなただけが死んでしまうのは。ほら、今ならぼくとあなたは対等です」
「……本当に馬鹿げてるね。きみが死んだら僕は生き返れるの? できないよね? ならきみの自殺に価値なんかないよ。本っ……当に馬鹿みたい。きみのせいで何千人の人間が予定に遅れたことか」
「SNSの愚痴程度でおさまる恨みなんかどうでもいいですよ。こっちは人生がかかってたんです。仕方ないでしょう」
「へえ。そう。気持ち悪いね。きみの人生ってなんなの? なんでそんなに好かれちゃったかな。そこまで親切にした覚えもないんだけど」
「どうでしょうね。もう分からないですよ。みことくんの憶えてるぼくがどこまでぼくだったか、ぼくの憶えてるみことくんがどこまでみことくんだったか。もう誰もわかりません」
「はああ……くだらない。なんかもう目眩すらしてきたんだけど。もう少し面白い話してくれない? じゃなかったら黙って二度と口開かないでそのまま僕の認識できる範囲から消えてそしたら僕は少しは気が楽になれるはずだから」
「あはは。すみません。途中から早口で聞き取れませんでした。目眩って、体調悪いんです? それは大変だ。面白い話……そうですねえ……
……あ。
そういえば、学生証。
スマホ落ちてたのを見つけたとき、思わずホルダーから引き抜いて確認しちゃいました。斎木御如、くん、って仰るんですね。漢字、初めて拝見しました」
「……個人情報だよ」
「いいじゃないですか別に。ぼくたち友達でしょう?」
「……」
――次は、◇◇。◇◇。お忘れ物のございませんよう――
そんなアナウンスを特に何も感じず聞いていると、手すりに寄りかかって空を見ていた御如くんがおもむろに「じゃあ僕次の駅で降りるから」と立ち上がった。
「さようなら」
「いやいやいや」
引き止めながら、ぼくは少し驚いていた。
「御如くんはまだ旅を続けてるんですね」
ぼくが御如くんと初めて会った時、彼はホームに立っていた。別れた時にはまたホームへ降りて歩いて行った。
よくよく考えれば当然なのかもしれない。きっとあの時の彼は乗り換えをしていただけで、まだ行く先にはたどり着いていないのだ。でなければこうしてまた電車に乗り合わせることなんて、あるわけがないのだから。
そんなことに今更気付きながら、ぼくは改めてこの再会に感謝していた。お互いの時間軸がどうなってるのか、というより十年前のぼくと別れた後の御如くんの時間がどのくらいどう流れたのか見当もつかないけれど、とりあえずこの状況は相当な奇跡の上に成り立っているのだと分かった。ああ、それとももしかして必然だったりするのだろうか。なんて。我ながら、自分勝手な考察をするものだと笑ってしまう。
「まあね」
ふん、とでも言いたげな顔で御如くんはぼくの声に応える。随分と刺々しい視線をぼくに一瞬僕に向けた後、彼はふいと遠くを見る。その横顔にはぼくへの悪意とはまた違った仄暗さが差していた。
彼と別れてからたった十年、ぼんやりと空想に縋りながら日常を生きてきただけのぼくには、その表情の意味を推しはかることはできなかったけれど。
「けど、これは僕の意思だよ。あの時とは違う。……もう僕は、どこへだって行ける」
そう言って一瞬目を伏せてからまっすぐ前を向いた御如くんを追って、ぼくも腰を浮かせる。
「ぼくも次の駅で降りようかなあ」
もう住む世界が違うとは言わせない。彼のために死ぬのが、彼に全てを捧げるのが怖いとも思わない。なぜなら結局自分のためだからだ。ぼくは彼に愚直についていくぼくでいたいのだ。
なんなら十年前のあの時、電車を降りる御如くんを追っていればよかったかもしれない。それなら今の彼との関係は、こんな針のむしろのようなものではなかったのかもしれないのに。
あれ? そういえば、あの時御如くんに、『そう』誘われたような気が――したような、気のせいなような。
まあなんでもいいや、とぼくは思い直した。虚実の入り混じった貼り合わせだらけの思い出を検証するなんて、時間を費やすだけ無駄だ。
御如くんは妖怪でも現れたような目でぼくを見た。
「はあ? 別にどうでもいいけどついてこないでよ」
「でもぼくはこの旅に意義がありません。あなたと一緒にいることくらいしか」
「僕はきみといたくないんだ。言わせないでくれない?」
「またまた」
足早に去ろうとする御如くんの行く手を、大股で回り込んで塞ぐ。いとも簡単に彼との距離は縮まる。昔から自分は作り笑いが得意だと思っていたけれど、今はなんて虚しい特技だと馬鹿にしてやりたい気持ちだ。だってほら、ぼくはこんなにも、自然に笑える。ぼくは御如くんの手首をとった。
「友達だって、言ってくれたじゃないですか」
永遠にも思えるような一瞬の間ののち、減速する電車の車内に小さく舌打ちが響いた。
苛立ちを殺しきれていない、「ああ面倒だなあ」とでも言いたげなその視線。僅かに上目遣いになったその視線がかちりとぼくとあった瞬間、その瞬間、ぼくの心は崩れんばかりの大歓声に湧いた。
覚えている。ぼくはその顔を覚えている。そのあとに続く彼の声色を覚えている。
どこか異世界のような摩天楼の間を縫う線路。
脳を揺さぶる不安定な踏切の音。
夢想するぼく。
穏やかに眠る「みことくん」。
――数もまともに数えられないのか。
ぼくの肩に爪を立てながら舌打ち混じりにそう吐き捨てた「みことくん」を。
彼を。
――――「斎木御如」という人間を!
「……覚えていますよ」
思わずそう呟いたのはぼくの頭の中だろうか、それとも彼にも聞こえる声になっただろうか。ぼくは掴んだ御如くんの手首を力の限り握りしめていることに気付いた。気付いたけれど、それを緩めたり、まして離したりするつもりもなかった。
正直ぼくは彼に物申したいことがある。御如くんはぼくを快楽殺人鬼か何かを見る目で見てくるけれど、あれはどう見たって事故だった。勿論過失はぼくにある。御如くんを殺したのは間違いなくぼくだ。けれど、御如くんは? 御如くんだって同じでしょう? あなただって、少し間違えたらぼくを殺していたでしょう。
だからと言ってぼくは御如くんに否を認めさせて謝らせたい訳ではなくて、とはいえ百パーセントぼくが悪かったと土下座するのは避けたくて、要するにぼくは言い訳がしたかった。御如くんが怒っているなら、あなたが失ったものはお詫びにぼくも捨てました、それにお互い様だったしょう、謝るから許してくださいよと、どうにかして仲直りがしたかった。そのために自殺してまで追いかけてきたのだ。
けれど、言うのは一生やめておこうと思った。
そう、そうだ。忘れていた。御如くんは逆ギレを指摘するとやたら自己嫌悪に陥ってへこんでしまうのだった。あの時の気まずさと言ったらなかったなあ。懐かしい。なんて懐かしい。
追いかけてきて正解だったなあ、とぼくは思った。
あの頃からもう十年も経った。ぼくは大人になった。猫をかぶって微笑んで、彼が心地よくいられるようにいい子を心がける必要もない。ぼくは正直に生きることにしたのだ。
あれ? ああ、死んでたっけ。それならこうしよう。夢か現か分からないあの日の御如くんの言葉を借りてみよう。
――死後の世界も、捨てたもんじゃない。ぼくはこれ以上ないくらい楽しかった。幸せだ、と思った。
きっとそんな夢想も一瞬の出来事だったのだろう。御如くんはまっすぐにぼくを見つめたままだ。ぼくは首を傾げて微笑んでみせた。ちょうどその頃、電車が停車する。
御如くんは「きみは……」と何か言いかけた後、ああ、いいや、と諦めたようにかぶりを振った。ぐっ、と腕に力を入れる。
「離してくれない?」
「ああ、すみません。痛かったですか?」
「それ本気で言ってるの?」
御如くんは掴まれていた腕を軽くさすりながら電車を降りた。当然ぼくも後に続く。
なんだか見覚えのある無人改札だと思った。駅員も切符を吸い取る機械もないそれを抜け、御如くんの背中越しに遠く田園風景を見渡す。どこからか太鼓の音が聞こえた。
「……ほんとについてくるの?」
「もちろん」
「僕は一人旅をしようと思ってたんだけど」
「急な予定変更って旅行じゃよくあることじゃありません?」
「ストーカーって知ってる?」
「ここには警察も駅員も、電波の通ったスマートフォンだってありませんよ」
「そういえばそうだったね。でも僕の意見を尊重するという選択肢は今からでも作れると思うのだけど、どう思う?」
「ちょっとぼくには分からないですね。それよりどこ行くんですか?」
「勝手に話を終わらせないで。僕と話したいんじゃなかったの?」
御如くんはスラックスのポケットに両手をつっこみ目線を流しながら、さつきくんひどいなあ、悲しくなるよ、なんて血迷ったって思わなそうなことを言う。
ぼくはといえば、お互いよくもこう口が回るものだと楽しくなってしまって笑っていた。それがいっそう彼の苛立ちを募らせていたのは理解していたのだけれど、仕方ない、ぼくはこんなにも楽しいのだから。
「ああ、悲しませてしまってごめんなさい御如くん、そんなつもりじゃなかったんです。ねえ。仲良くしましょうよ。旅は道連れって言うじゃないですか、ご存知でしょう?
ここにはぼくと御如くんしかいないんです。お互い有意義に過ごしましょうよ。あなたはもう十分ひとりぼっちでいたじゃないですか。もういいと思いません?」
もちろん、はいそうですね、なんて返事が返ってくるとは思っていなかった。御如くんは気難しいのだ。ぼくが心をこめて気を遣ったって、なかなか思い通りに受け取ってくれやしない。だって、御如くんはぼくが辟易していたような馬鹿な大人ではないのだから。たった一人、心から尊敬する友人なのだから。なんて。
少し煽った自覚はあった。だから、彼は嫌な顔をするだろうな、また舌打ちをされてしまうかも、なんて期待しながら返事を待っていたのだが、ぼくの言葉は存外御如くんの心には響かなかったようだ。御如くんは呆れたような顔でぼくを見ると、不意に思い出したようにふっと笑った。
それはどうやら御如くんの心を妙にくすぐるものだったらしく、初めは笑みをたたえただけだったのが、次第にくすくすと口元を覆うほどになった。御如くんは笑う。
優しげに目を細めて、その虹彩に挑発するような色を浮かべて、それはまさにぼくの記憶と目の前の現実が重なるような光景で。
「……ねえ」
御如くんは言う。
「あの時、言わないでおいたことを言ってあげるよ。
きみって、本当に、イヤミの通じない子だよね。僕のともだちの、さつきくん」
「わあ偶然。ぼくもあなたに同じことを思っていましたよ。
行き先はあなたが決めてくれるんですよね? 車掌さん」
ぼくは彼の目を見て微笑む。彼はそれににこりと笑い返す。
二人きりのホームに発車ブザーの音が鳴り響いて、電車は再び走り出した。




