02
地下鉄に乗ったのは初めてだったし、車両をみっつまたいでも誰もいなかったことも初めてだったから、ぼくは心細くて仕方なかった。
そんな時のための校外学習のしおり。
万が一乗り過ごしてしまったらすぐに降りて先生に連絡するようにと書いてあったため、膝の上で拳を握りしめながら次の駅で絶対に降りるんだとぶつぶつ呟いていた。正直怖いから早く降りたいというのと、何か一つのことを考えていると少し気楽になったというのもあって、ひたすらぶつぶつぶつぶつとずっと呟いていた。
あの時はまるでお守りのように、これだけが自分を守ってくれるのだと信じて疑わずにしおりを握っていたのだけど、確かあれは後日あっさり捨ててしまった気がする。そんなものだ。
随分と経ってから車内アナウンスが流れた。声を機械でぐにょんぐにょんにいじったような聞き取れない機械音だったけれど、電車が減速し始めたことがぼくを安心させてくれた。
放送機械の調子が悪くて音が変だったのだろうと思ったし、そんな機械の不調なんてどうでもよかった。外に出られるなら。
ぼくはどきどきしながら手すりとズボンを握って停車するのを待っていた。だけど、ふと振り返って見えた駅のホームに真っ黒い人型の何かが沢山蠢いているのを見た途端、ぼくは慌てて席に戻って、かたく目をつむって寝たふりをした。
心臓が鼓膜に張り付いていたのかと思うくらい自分の鼓動がうるさかったのを覚えている。
それは、焼き付いた影のようなものだった。
手足と首が異様に長くて、枝みたいな、真っ黒な人間じゃない人間の影。それらが、風で枝がざわざわと揺れるように大量にホームで揺れていた。とてもじゃないけどあの中に降りていく勇気はなかった。
——ぼくは何も見てない。この駅はなし。この駅は降りられない。うっかり寝過ごしちゃったから、この駅では降りられない。ぼくは何も見てない。
むしろそんなことを自分に言い聞かせていた。
ドアの窓越しに見えたあの人影が大量に乗車してきて、すぐそこの吊り革を持って電車に揺られているのを感じながら、ぼくは死んだふりをしていた。
何駅くらい人影の乗降を見守っていた……見守っていた? 感じていたかは分からないけれど、寝たふりをするうちにいつの間にかぼくは本当に寝てしまった。目を覚ました時には影は一人も見当たらなくて、地下鉄は出たらしく、車内は明るかった。
窓の外は……そう、田んぼ。一面の田んぼと山。古き良き日本の夏、そんな感じの景色がゆるゆると窓の外を流れていた。
校外学習があったのは確か木の葉の落ち始める晩秋のことだ。だから田んぼにまだ青い稲が並んでいるなんておかしな話なのだけど、当時のぼくが肝を冷やしたのはそこではなかった。
見たことのない田舎の景色。一体ぼくはどこまで来ちゃったんだろう。もしかしたら県外に出てずっと遠くまで来ちゃったのかもしれない。
先生に親を呼ばれて怒られてしまう、余裕があった訳ではなくて本当に真っ先に心配したのがそれだったのは今となっては少し笑える。話を戻そう。田舎の夏の景色。その流れがゆっくりになって、やがて電車は駅に停車する。
がらんとしたホームには青年が一人、携帯電話をいじりながら立っていた。