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4.後宮は魔窟?

 カチャンッ

 何か固い物がぶつかった音が部屋に響いた。途端に静羽の目がいっぱいに見開かれる。次の瞬間、静羽は飛び起きてシーツを胸元に握り締めたままベッドの上を後退る。

 慌てて辺りを見回すと、侍女が驚いた目をこちらに向けていた。片手に陶器の水差しの載ったお盆を持ち、テーブルの上にグラスが倒れていた。

「も、申し訳ありません! 手が滑ってしまい・・・」

 侍女が慌てて謝った。どうやらさっきの音はグラスを倒したときのものらしい。

 静羽は状況を理解してやっと肩の力を抜いた。一瞬ここが何処なのか理解出来なかったのだ。

「・・・そっか、家じゃ・・・なかったんだよね・・・」

 そういうと静羽はそっと溜息をついた。

「お休みのところ申し訳ありませんでした。何度か声をお掛けしたのですが・・・」

 侍女が申し訳なさそうに言うのを、静羽は笑顔で答える。

「いえ。気にしないで下さい。起きなかった私がいけないんです。・・・あ、もうこんな時間。だいぶ寝坊してしまったわ」

 いつもの習慣で枕もとに置いてあった携帯電話の時計を見ると、もう十時近くになっていた。

「お召し物をご用意致しておりますので、後ほど隣のお部屋へお越しください」

 そう言うと侍女は丁寧にお辞儀をして退出していった。

 一人になった静羽は、暫しベッドの上でぼんやりしていたが、不意に身震いして自分の両肩を抱いた。夕べのことを思い出したのだ。

「怖かった・・・・・・とり殺されるかと思った・・・・・・」

 あれほどの恐怖を味わったことは嘗てない。実体感を持ったあまりにも生々しい霊体。そして闇のような眼。その霊が発する恨みの念と、それに倍する悲しみの念に静羽は押し潰されそうだった。

「赤ちゃんを探してた・・・ きっとあれは、ソフィア王妃の霊なのね・・・」

 エトヴァから聞いていた残忍王の王妃ソフィア。身篭った愛する人の赤ちゃんを殺されてしまったのだ。現世に残した恨みの念もさぞ大きかったことだろう。

 静羽は足元の置いてあったクロスを取るとやっと安心した。こちらではこのクロスを肌身放さず持っていた方が良いようだ。

 静羽は気を取り直すとベッドから飛び降りる。

「よし! がんばろ!」

 

 しかし、その気合いもあまり長くは続かなかった。

「し、死ぬ・・・ 私、絶対くびれ死ぬわ・・・」

 静羽は、大きな鏡の前でそう呻き声をもらす。息をするのも困難だった。

「もう少しです。我慢して下さいませ」

 そう言って少し年配の侍女が、静羽に着けているコルセットの紐を思いっきり引っ張った。

「うぐぅ・・・」

 静羽は苦しそうに唸る。

 少し前。

 寝室から隣の部屋に移った静羽が見たものは、色とりどりの豪華なドレスだった。

「うわぁー! すごーい!」

 腰からフワッと広がったものや、裾が広がったもの、生地を重ねた感じのものや可愛いフリルがいっぱい付いたものなど、様々な形や色のドレスが部屋いっぱいに並べられていた。

 静羽はそれらをウットリと見て回った。およそ結婚式の時にしか着れないようなものばかりである。静羽自身の結婚式もまだ当分は先の話(その前に相手を見つけなければだが)だから着る機会など、まず無い。

「おはようございます。オクムラ・シズハ様。お召し替えのお手伝いをさせて頂きます」

 部屋のドレスとは対象的な質素な服装の侍女たちが四人ほど控えていた。

「あ、おはようございます。 ・・・て、もしかして、これを着るんですか?」

 少し引き攣った顔で静羽が訊くと、侍女が微笑んで答える。

「はい。陛下よりそのように賜っております。お好きなものをお選び下さい」

「・・・あのう、できればもう少し普通というか、もっと質素な服の方が・・・」

 静羽も女の子なので着てみたいとは思うが、さすがに始終こんなドレスでいるわけにはいかない。そう言うと侍女は怪訝そうな顔をした。

「そう仰られましても・・・これが王侯貴族さまの一般的なお召し物なので・・・」

「そうなんですか? でも、さすがにこれは・・・ あ、私の服はどこでしょうか?」

 こうなるとまだ制服の方がましだ。静羽が訊くと、その年配の侍女は明らかに顔を顰めて言った。

「着ておいでだったものはただ今洗濯させて頂いております。しかし、僭越ながら、あのようにお御足をさらけ出したようなものは、誠に失礼ながら娼婦が纏うようなものでございます。そのようなお姿で国王陛下のお傍に寄らせる訳には参りません」

 きっぱりと言い切られ、静羽は苦笑するしかなかった。確かにこちらの人にしてみたら裸同然に見えるのかもしれない。とにかくお好きなのをお選び下さいと言われて、渋々ドレスたちの前を行ったり来たりして、出来る限り地味で動き易そうなのを探した。そうして選ばれたのは、限りなく白に近い淡いブルーのタイトなドレスで膝から裾にゆったりと広がっていて、肩から二の腕あたりが軽く膨らんでいる。胸元が大きく開けているのが気になるが、他のゴテゴテのドレスに比べれば比較的地味で動き易そうだ。

 ドレスが決まってからの侍女たちの動きは迅速だった。年配の侍女の指示で、あっと言う間に部屋着が脱がされ、抵抗する間もなくブラジャーを剥ぎ取られた。真っ赤になって胸元を隠す間もなく、カップ付きのコルセットを着けられる。そして背中で分かれていた部分に運動靴のように紐が通されると二人掛かりでそれを左右から引っ張った。

 そして、今に至る。

「く、苦しい・・・」

 ぜぇぜぇと喘ぎながら静羽は再度唸った。息をしようと思っても、容赦なく締め付けられるコルセットに胸郭が膨らまず、ろくに息も吸えない。運動をしていて無駄な贅肉など付いていない静羽にコルセットなど必要ないはずだが、ウエストが細く見えた方が美しいとされるらしく、侍女たちは細いウエストを更に細くしようと躍起になっている。

 締め終わって細くなった静羽のウエスト、この年齢にしては豊かな胸も下から押し上げられ寄せられて見事な谷間を作っており、そのスタイルの良さを侍女たちが口々に褒め称えたが、酸欠気味でクラクラする静羽はそれに応える余裕はなかった。

 椅子に座らされると、長い髪はさっと結い上げられ、化粧が施されていく。その都度、美しい黒髪ですね。とか、肌の木目が細かくて羨ましいなどと言われていたが、静羽はもうどうにでもしてという感じだった。

 一時間ほど掛けて出来上がった完成品を見て、侍女たちはウットリと溜息をついた。等身大の大きな鏡の中には、うら若いお姫様が映っていた。スラリとした細身にタイトなドレスがよく似合っている。結い上げた髪には真珠の髪飾りが散りばめられ、艶やかな黒髪に良く映えている。薄っすらと頬紅をさして、ピンクの口紅が可愛らしさを強調していた。僅かに伏せられた瞼(実は酸欠で朦朧としていただけだが)が若いながらも妖艶さを漂わせている。

 しかし、ここまでが限界だった。

 とてもじゃないが、このままでは一歩も動けない。こんな状態で除霊など不可能だ。しかも、この着飾った状態でラクロスのクロスなど持っていたら、似合わないを通り越して滑稽以外の何物でもない。


 エトヴァとアルフが揃って静羽の部屋を訪れると、部屋の中から何か言い争う声が聞こえてきた。二人は顔を見合わせて首を傾げると、とりあえず部屋に入っていく。

「どうした? なにがあったのだ?」

 部屋に入ったアルフが言うと、部屋に居た者達が一斉に振り返った。そして侍女たちはそれが国王陛下と判ると、慌てて部屋の壁際まで下がって恭しく頭を下げる。部屋の中央にはだた一人が残っていて、憮然とした顔をこちらに向けていた。

 アルフはその人物を見ると茫然と立ち尽す。美しい貴婦人が佇んでいた。決して華美ではないが人物自身の美しさが十分引き出されている。その人物が物怖じしない異世界からの来訪者だと気付いて、素直に感嘆した。

 エトヴァに至っては、空いた口を閉じるのも忘れて静羽に見惚れているようだ。

「こいつは驚いたな」

 アルフがいつもの皮肉っぽい表情に戻って静羽に言った。

「どうせ、馬子にも衣装だとか言いたいんでしょ」

 美しい顔を不機嫌そうに歪めて静羽は言い返す。それでもその美しさは少しも損なわれない。

「そんなことは言わんよ。正直、予想以上だったな。ただ素材を褒めるべきか、仕上げた侍女たちを褒めるべきか悩んでいるところだ」

 素直に綺麗だと気恥ずかしくて言えないアルフは逆に憎まれ口をきいた。

「なら彼女たちを褒めるべきですね。ここまで化けるとは自分でも思わなかったから」

 静羽は肩を竦めてそう言い返す。自分が美人だなどと、これっぽっちも思っていない静羽は侍女たちの化粧技術には素直に感嘆しているのだ。

「まあ、それを差し引いても十分美しいよ」

「え?」

 予想外のアルフの言葉に、静羽は思わず訊き返した。しかしその時にはアルフは知らん顔で他所を向いている。心無し頬が赤いのは気のせいか。褒められたと判って静羽は我知らず顔を赤くする。

 そのとき素っ頓狂な声が上がった。

「ああー! なんてお美しい! シズハ殿!」

 エトヴァが満面に賞賛の色をたたえながら叫んだ。

「あ、ありがとう・・・」

 静羽もとりあえずお礼は言ったものの、あまりの勢いに思わず苦笑した。

「素晴らしいです! 昨日までとは全然違いますね! こんなにあなたがお美しいと気付かなかった私は愚か者です!」

 これでもエトヴァは最大の絶賛をしているつもりらしいが、静羽の形の良い眉がピクリとした。

「・・・・・・そこはかとなくムカツクのは気のせいかしら・・・」

 素直に褒め言葉を口にできるエトヴァを羨ましいと思いながらも、アルフは先ほど件を尋ねた。

「それで、いったい何をもめていたのだ?」

「そう! それよ! とてもじゃないけど、こんなの着ていられません!」

 静羽が強くいうのを、アルフは不思議そうに首を傾げた。

「なぜだ? よく似合っていると思うが?」

 アルフの隣でエトヴァも何度も頷いている。

「そういう問題じゃなくて! 苦しくて身動き取れないんです! こんな恰好で除霊なんかできないですよ。もっと簡単な服にして下さい」

「ああーなるほど。そういうことか。まあ、確かに動き回るのに相応しい恰好とは言い難いかもな。しかし、女が着るような服は他にはないしな・・・」

 アルフは顎に軽く手を当てて考え込んだ。そうした何気ない動作が若いくせに様になる。

「せめてその侍女さんたちみたいなのとか、なければ自分の服着てます」

「いや、君に侍女の恰好などさせられない。かといって昨日の服装でいられてもなぁ・・・」

 うーんと唸って考え込むアルフの隣を見やって、静羽はポンと手を打った。

「それだ!」

 突然静羽に指差され、エトヴァは思わず後退る。

「え、え? な、なんです?」

「それよ、それ。エトヴァさんの神官服がちょうどいいわ! 動き易そうだし。肌の露出も少ないし」

 静羽は得たりという満面の笑顔で言った。

「え? えー! こ、これですか? い、いやー、でもこれ、男物だし・・・」

 言われたエトヴァは焦ってシドロモドロになる。

「もしかして、こっちでは女は男の服装しちゃいけないとかってあるの?」

「あ、いえ。特にそのような決まりはありませんが・・・・・・」

「なら問題ないじゃない」

 静羽はどうだというばかりに、肘まである白い手袋に包まれた手を腰に当てて得意げに言った。

 アルフは暫し考えて一つ頷く。

「うむ。その方が良いかもしれないな。確か巫女用の神官服が神殿にあっただろう。あれを借りてくればいい。作りは対して違わないからな。しかしな・・・・・・」

 そういってアルフはじっと静羽を見た。

「な、なんですか?」

 あまりじっと見られて、急に恥ずかしくなって大きく開いた胸元を両手で隠した。

「折角の目の保養が・・・勿体無い」

「ええ。ほんとに勿体無いです・・・」

 エトヴァまで至極残念そうに呟いた。

 静羽は鏡台の脇に立て掛けてあったクロスを手に取ると、底冷えする低い声で言う。

「殴るわよ」

 アルフとエトヴァは悪戯小僧が叱られたように、揃って首を引っ込めた。


 着替えの神官服が届くまでの間に、静羽は昨夜部屋にきたソフィア王妃の霊の話を二人にした。しかし、何故か話を聞いた二人は揃ってギョッとなる。

「どうしたの?」

 静羽が訝しんで訊くと、エトヴァが静羽の顔色を窺いながら恐る恐る言った。

「あ、あの、あくまで、ただの確認なのですが・・・」

「なに?」

 エトヴァはアルフを見やる。そしてアルフが小さく頷くを見て大きく深呼吸して言った。

「・・・ご、ご懐妊しては、いらっしゃらないですよね?」

「え? ご懐妊? 懐妊って・・・妊娠してるってことだっけ? だれが?」

 話が見えなくて静羽は訊き返した。何故ここで妊娠の話が出てくるのか分からない。

「い、いや、あの、・・・シズハ殿が」

 一瞬キョトンとして、やっと意味が判った静羽は真っ赤になって声を荒げる。

「な! ば、馬鹿なこと言わないで! 妊娠なんてしてないわよ! なに言い出すのよ?!」

 怒った静羽に慌ててエトヴァは言い訳する。

「あ、あくまで確認です! お、怒らないで下さい」

「なんの確認よ!」

 エトヴァが救いを求めるようにアルフを見る。アルフは表情を少し厳しくして話を継いだ。

「シズハ。これは重要なことなのだ」

「何がどう重要なんです?!」

「まあ、落ち着け。これまでにも何度か王妃ソフィアの霊は見掛けられたことはあった。シズハの言うように亡くした赤子を探していたそうだ。そしてこの霊にあった女性、特に身籠もっていた女性は、例外無く赤子が流れてしまうのだ」

 それを聞いた静羽はとりあえず怒るをやめて神妙になった。

「流れて・・・そっか・・・自分の子だと思って連れていってしまうんですね・・・」

「うむ。そのようだ。だから、失礼とは思ったが確認する必要があったのだ」

 事情が判って静羽はエトヴァに素直に謝る。

「そうだったんだ・・・ごめんね。怒ったりして」

「いえ。私も説明が足りませんでした。不快な思いをさせてしまい申し訳ありません」

 エトヴァも誤解がとけ解けてホッとする。そして本題を切り出した。

「それで、今後のことですが・・・とりあえず霊が原因というのはわかりましたが、どうすれば良いのでしょうか?」

 訊かれた静羽も考え込んだ。今まではただ自分に寄ってくる霊を追い払っていただけなので、本格的な除霊などどうやればいいのか見当もつかない。

「うーん、私もよくわからないけど・・・ そうだ。神殿の人に頼んで御祓いしてもらうとかは?」

 それを聞いてアルフは苦笑してエトヴァを見やった。エトヴァは肩を落として悲しそうな顔をする。

「・・・御祓いは、何度もやったのです・・・ 一応、私は顧問神官長なので・・・ ソレル神殿にも何度かお願いしたのですが・・・」

 落ち込んでしまったエトヴァを見て静羽はしまったという顔になる。エトヴァも八方手を尽して、どうしようもなくなって眉唾ものの救世主などに救いを求めたのだ。静羽は慌てて話を切り替えた。

「え、えーと、じゃあ、とりあえずソフィア王妃のこと調べてみる?」

「うむ。ソフィア王妃か・・・」

「はい。あの恨みの念は半端じゃなかったです。王様への憎しみも強いだろうし」

「そうだな。呪いの原因に一番近い人物かもしれぬな。どうだ? エトヴァ。・・・おい、エトヴァ!」

 エトヴァはいつの間にか部屋に隅で床に“の”の字を描いていた。

「どうせ私は、名ばかりの神官長で・・・・・・え? はい? 呼びましたか?」

「いじけてないで、こっちへ来い。とりあえずソフィア王妃を調べてみよう」

「ソフィア王妃・・・ということは、後宮ですか・・・」

 ヨーロッパ文化にあまり詳しくない静羽は後宮がどういったところなのか判らない。

「その後宮って?」

「後宮は、その名の通り王城の裏手にあって、国王の愛妾たちを住まわせていたところです。大分昔に閉鎖させていますが」

「えーと、愛妾っていうのは、つまり・・・」

 聞き慣れない言葉に静羽が意味を思い出そうとしていると、アルフがいつもの皮肉っぽい口調で言った。

「つまり国王の愛人ということだ」

 元々は万が一にも王家の血を絶やさないために、王妃以外に愛人を持って子供を多く持つようにしていたのだ。その子供もちゃんと国王の子として認知されて王位継承権を持つので、愛人と言っても、それ相応の身分の者しか愛妾にはなれなかった。政治的な発言力はないが地位としては王妃に次ぐ者として扱われるが、やはり王城に住まうのは正妻である王妃だけなので、いつしか愛妾のために後宮が建てられ、国王が会いに出向くという形が取られるようになった。それが、どことなく秘密裏な逢引という雰囲気があったためか、徐々にその主旨から外れて、ただ快楽のために愛人を後宮に集めるといった時代もあった。

 しかし、そんな乱れた状態は長くは続かず、堅実な国王によって後宮は廃止され、王家の世襲制も廃止された。残った後宮は貴賓客用として使われていたが、ソフィア王妃が幽閉されて悲惨な最期を遂げた後、しばらくして閉鎖されたのだった。

 とにかく行ってみようと話をしているところに、やっと静羽の神官服が届けられた。

「さ、着替えるから二人とも出てって」

 静羽が言うと、二人は心底残念そうな顔をしたが、言うとまた殴られそうなので、渋々一旦部屋を出た。

 巫女用ということで若干エトヴァの着ているものとは形が違っていた。ゆったりとしたノースリーブのワンピースのような感じだ。それに和服のように幅広の腰帯をして背中で大きく作られたリボンが可愛らしい。神殿の者は雑用も全て自分たちで行うので基本的に動き易いように出来ている。

「うん! いい感じ!」

 これならばクロスを振り回しても大丈夫そうだ。本来の巫女であれば、肩にショールを羽織るのだそうだが、羽織るのが決まりということではないらしいので、それは無しにした。髪は折角結ってもらったので今日一日はこのままでいることにする。

 着替えが終わって侍女がアルフたちを部屋に呼んできた。

「お。いいじゃないか」

また違う雰囲気になった静羽に、アルフも今度は素直に褒める。

「ありがとうございます。これなら動き易いです!」

 そして、またしても静羽に見惚れていたエトヴァは我に返って言った。

「すっごく可愛いですね! シズハ殿が着ると、うちのダサい神官服もドレスみたいですね!」

 手放しの褒め言葉に静羽も我知らず赤くなる。

「ちょっと褒め過ぎよ・・・でも、ありがとね!」

「さて、では行くか」


 三人は連れ立って後宮に向かった。一応護衛のために衛兵が二人付いてきていた。

 道すがら出会った者たちは、アルフに対して恭しく頭を下げていく。その際にチラリと静羽を見て、一向が通り過ぎると小さい声でヒソヒソと話しをするのだ。異世界からの救世主の噂は、既に城中に広まっていりようだ。始めのうちは、皆一様にまたかと嘲るように話していたが、たった一晩で見違えるように元気になった若き国王の姿を目にすれば、今度のは本物かと半信半疑になっているのだろう。それにその救世主が若く眉目麗しい美少女だというので、誰もがその姿を見たいと思っている。こちらでは珍しい黒髪にファラミス神殿の白い巫女服をきっちり着込んでいる姿は、どこか神秘的に見え、見慣れないラクロスのクロスも霊験新たかな神具に見えてしまうから不思議である。

 そんな注目の視線を浴びながら、静羽たちは城内を横切るようにして裏手へと向かった。そして豪華な装飾の施された扉の前に辿り着く。観音開きの扉の両取っ手には鎖が幾重にも巻き付けられ、長年使っていなかったことを証明するように赤茶けて錆付いていた。

 アルフの指示で衛兵の一人が鎖に掛けられた鍵を解き、鎖を外していく。そして、扉の鍵も外して、ゆっくりと開いた。

 明るい日差しの中に一歩出たところで、三人は立ち止まって茫然と辺りを見回す。エトヴァはもちろん、アルフもここに立ち入るのは初めてだった。

 扉を出たところは屋根付きの渡り廊下になっていて、少し離れた後宮まで続いている。渡り廊下の左右は、嘗ては、色とりどりの花々が咲き誇っていた庭園であったが、今は見る影もなく荒れ放題になっていた。雑草が生い茂り、屋根を支える柱には蔦がびっしりと絡み付いている。

「・・・これは、想像以上だな。城内にあって、これほど荒れた場所があるとは・・・」

 アルフは苦笑しながら呟いた。後宮はその性質上、外界からは隔離されたようになっており、回りは高い塀に囲まれ、本宮への道はこの扉ただ一つだけであった。そのため、ここが閉鎖されて扉が封印されて以来、誰もここに踏み入れることはなかったのだ。

 何やら異様な雰囲気の中、後宮へと近付いていく。平屋造りの建物は全ての窓の雨戸が閉ざされて、庭園同様ひどく荒れ果てていた。嘗ては白かったであろう壁も雨風に晒されて黒ずみ、所々崩れている。

「ここも酷いな。この一件が終わったら、全て取り壊さなければな。 ・・・シズハ、大丈夫か? 顔が真っ青だぞ?」

 アルフは、静羽が自分の肩を抱いて青い顔をしているのに気付いて声を掛けた。

「・・・や、やっぱり、ここ、入らなくちゃ・・・駄目、ですよね?」

 静羽の様子からあることを思い至って、アルフは幾分声を顰めて訊く。

「ここも、か? なにか見えるのか?」

「いいえ、姿は見えないんです。・・・でも、あちこちから無数の視線を感じるんです・・・」

 静羽が気に悪そうに言うのを、それまで黙っていたエトヴァも厳しい顔で言った。

「今回は私も判ります・・・ そこら中から憎しみの篭った視線を痛いほど感じます・・・」

「そうか・・・・・・」

 霊感のないアルフは厳しい顔で後宮を見やった。明るい日差しの中、そこだけは別世界のように暗い影を落としている。


 静羽たちは後宮の重厚な扉の前に立った。近付くにつれ強くなる霊気に、静羽は警戒を強めてクロスを持つ手に力を込めた。エトヴァも落ち着きなく辺りを見回している。

 アルフは衛兵から鍵を受け取ると、自ら扉に近付いて鍵穴に差し込んだ。そしてゆっくりと鍵を回す。

 ガチャリッ、と異様に大きな音がした途端に、辺りに潜んでいた鳥達が叫び声のような声を上げながら一斉に飛び立った。

「ひっ!!」

 驚いた静羽が近くにいたアルフの腕にしがみ付く。

「大丈夫だ。ただのクミラスだ」

 妙に肝の据わっているアルフが、クミラスという、見た目がカラスにそっくりな鳥が飛び去った空を見上げながら落ち着いて言った。

「びっくりしたぁ 急に出て来るんだもん」

「長い間誰もいなかったから、恰好の巣場になっていたのだろうな。・・・しかし、シズハに抱き付かれるのは嬉しいが、お前に抱き付かれても嬉しくないぞ・・・エトヴァ」

 見ればアルフのもう一方の腕に、青褪めた顔をしたエトヴァがしっかりとしがみ付いていた。

「・・・・・・あ?」

 間抜けな声を出したエトヴァはアルフを見上げ、反対側にいる静羽を見て、自分の手元を見下ろすと、やっと状況を把握して、慌てて手を放した。

「い、いやぁ、ついですよ、つい。あは、あはは・・・」

 慌てて弁解するエトヴァが可笑しくて静羽はクスクスと笑ったが、自分もまだアルフにしがみ付いていたままなのを思い出して、少し赤くなりながらそっと手を放した。そんな二人の様子を見てアルフは苦笑する。

「今からそんなでは先が思いやられるな」

「ちょっとビックリしただけです。もう大丈夫で」

「そ、そうですよ。ちょっと驚いただけですよ」

「そうだといいが。・・・・・・では、開けるぞ」

 アルフがそう言うと、二人も表情を改めて頷いた。アルフは扉の取っ手を掴んで慎重に回すと、ゆっくりと扉を引き開く。

 外気とは違う、カビ臭いような埃っぽい空気が静羽達の方に流れてきた。その瞬間、ゾワゾワを大量の霊が動く気配が静羽とエトヴァを襲って、二人は揃って身震いする。

 窓の雨戸が全て閉じられているので中は真っ暗で、扉付近しか様子を窺うことは出来なかったが、外観ほどには内部は荒れてはいないようだ。

「真っ暗だな・・・窓を開けるにしても、まずは明かりが必要だな」

 アルフはそう言うと衛兵の一人に灯りを取りに行かせた。それを待つ間にアルフは、書庫から探し出してきた後宮の間取り図を出して、静羽たちに後宮の造りを説明する。

「ざっと見て、中には十一部屋あるようだな。ここから見て突き当たりが国王を迎える客間になっていて、食堂と書斎がそれに続いている。残るは愛妾たちの部屋のようだ」

「結構広いですね。それで、ソフィア王妃がいた部屋は判っているんですか?」

 間取り図を横から覗き込んでいた静羽が訊くと、アルフは首を横に振った。

「いや、残念ながら、どの部屋に幽閉されていたのかまでは、記録が残っていなかったのだ。年嵩の者にも訊いてみたんだが・・・」

「それでは、端から見ていくしかなさそうですね」

 エトヴァがそう言うと、アルフもそれに同意したが、少し考えていた静羽が軽く手を上げる。

「でも、仮にも王妃だったんだから、そんなに粗末な所には入れられなかったんじゃないかしら?」

 静羽の意見に、アルフは顎に手を当てて考えた。

「うむ。シズハの言うことにも一理あるな・・・ とすると、うむ、この部屋が他の部屋より造りが大きくなっているな。まあ、大きいから豪華だったとは言えないが、端から見ていくよりはましだろう。まずは、ここから攻めてみるか」

 とりあえずの目標が決まったところで、ちょうど灯りが届けられたので、一向はいよいよ後宮の中へと足を踏み入れた。


 静羽以外の四人がそれぞれ灯りのカンテラを持ち、アルフを先頭にエトヴァの隣に静羽が並び、衛兵二人は後ろを警戒しながら進んでいく。灯りといっても静羽の世界のような懐中電灯ではないので、自分達の周囲を僅かに照らすだけで、周囲の様子を探るのにはあまり用をなしていない。

 静羽は隣のエトヴァの袖を掴んで少し寄り添うように歩いていた。

(シズハ殿が私に掴まっている! 大丈夫です! シズハ殿! 私が必ずお護りします!)

 本来はアルフを護るべきなのだが、女の子に頼られることなど滅多にないエトヴァは、それだけで舞い上がってしまい本来の使命を忘れていた。実は静羽は足元がよく見えないので、とりあえず近くのものに掴まっているだけなのだが、それは知らない方が幸せだろう。

(なんか、やな感じ・・・ あちこちから見られてる・・・)

 静羽は、中に入って急激に増した息苦しくさに耐えていたが、未だにここの霊たちは姿を見せない。十字に交差した廊下の暗闇に目をやると、物影から無数の目だけが見え隠れしている。

「・・・ん?」

 エトヴァは右の視界の隅で何かが動いた気がして、立ち止まって右手の廊下の方へ灯りを向けた。一瞬白いドレスの裾のようなものが壁際に見えたような気がしたが、今は何も見えない。

「・・・気のせい、かな?」

 エトヴァの独り言が聞こえて静羽が訊いた。

「どうしたの? なにかあった?」

「あ、いえ。気のせいでした。 ・・・私に見えるはずないですから・・・・・・」

 

「ここだな」

 アルフは灯りで間取り図を確認しながら一つの扉の前で止まった。その扉に灯りを近付けると、何かの模様が織り込まれた朽ち掛けたタペストリーが付けられている。

「これは、確か何代か前の王家の紋章・・・ 当たりだな。シズハ」

 アルフの口調は軽いが、さすがに表情は真剣だ。

「・・・開けるぞ。いいな?」

 アルフが確認すると、静羽はクロスを胸元に引き寄せて、度胸を決めてゆっくり頷く。アルフがそれに頷き返し、扉の取っ手をゆっくり回した。

「ちょ、ちょっと待って下さい!」

 突然のエトヴァの大声に一同は飛び上がった。さすがのアルフも驚いて取っ手から手を放して飛び退る。

「なんだ! どうした! なにか、あったか?」

 アルフが灯りを右に左に素早く振って警戒し、衛兵たちも腰の剣に手をやって辺りを見回す。静羽はクロスを構えて、いつでも九字の呪文を唱えられるようにする。

 皆の慌てぶりにエトヴァはしまったという顔をした。ちょっとタイミングが悪かった。

「すみません! 驚かせるつもりでは・・・ ただちょっと準備を・・・」

 何でもないのが判って皆が大きく溜息をついて、次いでエトヴァに非難の眼差しを向ける。

「もう! びっくりさせないでよ! 準備ってなんなのよ!」

「あ、いや、あのーとりあえず色々持ってきたので・・・」

 そういうとエトヴァは懐から何やら取り出し始めた。

「えーと、まずこれがソレル神の護符のペンダントで、これは守護の盾で、それから、これが破邪の剣。それから、それから・・・」

 どれもこれも金装飾の豪華な品物で、見るからに高価そうなものばかりだ。エトヴァは抱えきれないほどの神具を持って嬉々として言った。

「さあ、どれでも好きなもの使って下さい! いっぱいありますから遠慮なく!」

「・・・・・・」

 言われても手を出す者はいない。ただ呆れたように見ているだけだ。エトヴァが不思議そうに言う。

「どうしました? ちゃんと正式なルートで手に入れた本物ですよ? ・・・アルフ?」

 訊かれたアルフは返事に困りながら、いつもの苦笑を浮かべる。

「あ、いや。俺はいい。持っていても使いこなせそうにないからな」

「そうですか? あ、アルフの得意な弓があればよかったですね。じゃあ、シズハ殿は?」

「あー、私もいいわ。これ、あるから・・・」

 そういって静羽は手に持つクロスを軽く掲げた。エトヴァは衛兵たちにも訊いてみたが、そちらも要らないと断られて残念そうに気落ちして肩を落とした。アルフがそれを見て気の毒に思ってフォローを入れる。

「エトヴァ。それはお前が自分で使え。それでもって皆をしっかり護ってくれ」

 それを聞いたエトヴァは少し考え込んで、打って変わって明るい声で言った。

「・・・わかりました! 私が皆さんをお護りします! じゃあ、ちょっと待って下さい。準備しますから!」

 鼻歌交じりで神具を身に着け始めたエトヴァを見て、アルフはそっと溜息をつく。それを見て静羽が小声でアルフに声を掛けた。

「単純ね」

「まあな。その分あいつには裏表がない。良きにしろ悪きにしろ、な。あれでも一生懸命やっているのだ」

「そうですね。それは判ります。あなたを救おうと一生懸命でしたから。それで私も協力する気になったんですから」

「うむ。あいつには随分心配を掛けてしまったな。シズハにも迷惑を・・・」

「済んだこと言っても始まらないですよ。それに、あなたのせいではないでしょう? 大丈夫です。これでも結構楽しんでいるんですよ?」

 そう言って屈託なく微笑む静羽を、アルフは眩しそうに見つめた。

「さあ! 準備できました! 行きましょう!」

 完全装備になったエトヴァが張り切って言う。それを見た静羽とアルフは顔を見合わせて、プッと小さく吹き出した。

「・・・どうしました? どこか変ですか?」

「いや、なんでもない。よし、では開けるぞ」

 いよいよ王妃のいた部屋の扉がゆっくりと開かれた。

 

 三人は警戒しながらゆっくりと部屋に入っていく。衛兵の一人は廊下に残り、もう一人は扉付近で警戒している。

やはり室内は真っ暗でどうなっているか全く判らないが、今のところ霊の気配は感じられない。

「これではどうにもならん。とりあえず雨戸を開けよう。俺が開けてくる。エトヴァはここでシズハを」

 そういってアルフは足元を灯りで照らしながら壁伝いに移動して、一番手前にあった窓の雨戸を開けた。

 明るい日差しが差し込み、暗闇に慣れていた目には眩しく、皆一様に手を翳す。明るさに慣れて改めて部屋を見回してみると、思ったよりもシンプルな感じだ。長椅子とテーブルが一組に、壁際に暖炉とキャビネット、枯れた花の入った大きな花瓶があるだけだ。もちろんその一つ一つは高価なものであることは見て取れる。テーブルに積もった埃が過ぎた年月を物語っている。

 だいぶ明るくなったので、アルフはカンテラをその場に置いて、他の窓も開けていく。静羽たちも警戒を解いて何となくアルフが開けていく窓を眺めていた。

<・・・・・・だれ?>

 突然見知らぬ声が聞こえた。皆が驚いて辺りを見回すと、誰も居なかったはずの長椅子に一人の女性が座っている。長い金髪に白いドレス。俯いた目は閉じられている。

「・・・ソフィア・・・王妃・・・」

 静羽が呆然と呟いた。間違いない。昨夜自分のところに現れたソフィア王妃だ。しかし静羽は異様な違和感を感じた。ソフィア王妃は霊体のはずだ。だがそこにいる王妃の霊はまるで生きている人のようだ。普通の霊のように半透明でもなく、髪の毛一本一本からドレスの皺まではっきりしていて、窓からの光に対して影まで出来ている。そういえば夕べも王妃がベッドに上がってきたときに重みでベッドが軋んだのだ。この霊はいったい・・・

「・・・これが、ソフィア王妃・・・」

 アルフが表情を厳しくして呟いた。霊感のないアルフにも見えている。やはりこの霊には実体があるのだ。

「あなたは、ソフィア王妃か?」

 アルフは確認するように問い掛ける。そんなアルフを見て静羽は呆れるやら感心するやらだった。初めて霊を目の当たりにして、どうしてあんなに冷静でいられるのか。エトヴァなど固まったままピクリとも動かないというのに。

<王妃・・・そう呼ばれていたときもございました・・・そう、わたくしはソフィア・・・ソフィア・フェアリアン・シーク・エクリムス・・・>

 王妃の霊は俯いたまま答えた。口が動いているようには見えないが声ははっきりと聞こえる。

<あなたは・・・だれ? ・・・だれなのです? ・・・わたくし・・・陛下? 国王・・・また、わたくしを苛めにきたのですか?>

 そう独り言のように呟いているうちに、王妃の霊が小刻みに震え出しているのに静羽は気付いた。

「おれは・・・」

「い、いいえ! 王妃様。もう国王はいないの。みんなに討ち取られて、もういないの。だから大丈夫よ」

 アルフが答えようとしたのを遮って静羽は王妃の霊に言った。王妃は霊になっても残虐王バムトを恐れている。長い間誰も訪れることのなかった部屋に突然人が入ってきたので、当時の恐怖を思い出してしまったのだと思ったのだ。話しをするには、まずはその恐怖を取り除いて、こちらが敵ではないことを判ってもらわなければならない。静羽はその意味を込めてアルフに無言で首を振ると、アルフも察し良く無言で頷いた。

<・・・いないのですか? 陛下・・・来ないのですか? ・・・本当に・・・?>

「ええ。本当よ。だから安心して」

 静羽が優しく言うと、王妃の霊の震えが止まって、口元が微かに微笑んだ気がする。その場にいた四人はホッと息をついた。そこへ廊下に待機していた衛兵が様子を見にきて声を上げた。

「陛下。いかがですか? や! そこの者! なにも、うぐぐ・・・」

 三人は顔を歪めて扉の方を見る。扉近くにいたもう一人の衛兵が慌てて同僚の口を塞いだが遅かった。

<・・・陛下? ・・・やっぱり・・・・・・>

 王妃の霊が先ほどまでと打って変わって低い声色で呟く。

「違うの! これは・・・」

 静羽が言うのを無視して、王妃の霊は顔を上げて、カッと漆黒の目を見開いた。

 その途端、ものすごい勢いで扉が閉じられ、衛兵たちは廊下へ弾き飛ばされた。そして、アルフが開けた窓が音を立てて次々に閉じられていく。カンテラの灯りも吹き消されて、部屋はまた暗闇に戻ってしまった。しかし王妃の霊だけはぼんやりと鈍く光っている。

 今まで感じられなかった憎悪の念が一気に押し寄せてきた。

 王妃の霊はゆっくりと立ち上がる。


 部屋に閉じ込められた三人は愕然と王妃の霊を見ていた。見開かれた漆黒の瞳があまりにも禍々しい。

<陛下・・・ お恨みします・・・・・・私の、大切な赤ちゃん・・・何処に・・・>

 王妃の霊は低く囁きながらゆっくりとアルフの方へ歩いてくる。

 最初に我に返ったのは静羽だった。

「王妃様! 違うんです! その人は王様じゃないんです! あ、いえ、今の王様だけど、だけど、バムトじゃないんです! バムトはもういないんです!」

 静羽は必死に説得しようとしたが、王妃の霊は聞こえていないのか止まることはなかった。

<・・・どこ・・・わたくし・・・・・・陛下・・・赤ちゃん・・・>

 アルフも少しずつ後退っていたが、すぐに背中に壁が触れる。

<どこ・・・赤ちゃん・・・どこ・・・どこ・・・>

 うわ言のように赤子のことを繰り返す王妃の霊に、静羽は思わず叫んだ。

「赤ちゃんは、もう何処にもいないのよ!」

 王妃の霊が立ち止まる。

<・・・いない・・・の? ・・・赤ちゃん・・・いないの?>

 震えたような声で聞き返してくるのを、静羽は畳み掛ける。

「そう! もういないんです! あなたの赤ちゃんは・・・もう死んでしまったのよ! だからもう何処にもいないの!」

 現世への未練を断ち切るのが除霊の第一条件だと、どこかで聞いたような気がして、ならば王妃が探している赤子はもういないのだと説得しようとした。しかし、それを聞いた王妃の霊はまた小刻みに震え出した。垂らしていた両手で下腹の辺りをゆっくりと撫でる。

<いない・・・いない・・・赤ちゃん・・・いな、いい・・・いいいぃ・・・いいいいぃ!!>

 徐々に声が大きくなり、自らの下腹を掻き毟る。

<あ、あ、あ、ああああぁー!!>

 耳をつんざくような叫び声を上げると、漆黒の両目から何かがどっと溢れ出してきた。顎を伝って垂れたそれは、純白のドレスを真っ赤に染めていく。それは血の涙だった。その間も絶え間なく叫び続けている。

 悲惨な光景に静羽は声もなく立ち尽くした。そこへエトヴァが遠慮がちに声を掛ける。

「あ、あの、シズハ殿・・・」

「・・・なに?」

「あの、ちょ、ちょっと言い難いことなのですが・・・」

「だから、なに?」

「・・・これって、逆効果、だったのではないでしょうか?」

 静羽の頬がピクリと引き攣る。

「・・・偶然ね。私もちょうどそう思っていたところよ」

「やっぱり・・・」

 唐突に王妃の霊の叫びが止まった。見ると、王妃の霊はまるで力尽きたように両腕をだらりとし、首もがくりと垂らしている。すると、王妃の背中が見る間に盛り上がっていく。そして何か大きな固まりが王妃の背におぶさるように現れた。

「な、なに?・・・あれ・・・」

 もちろんそれに答えられる者などいない。三人が愕然と見守る中、それは更に形を変えていった。異形の固まりから無数の突起が現れてスルスルと伸び、そして人の倍以上にもなったそれはユラユラと空中を漂う。まるで何かの触手のようだ。

 今のうちにとアルフが二人の所へ戻ろうと二、三歩動くと、突然触手の一本が唸りを上げてアルフに襲い掛かった。

「ぐわっ!」

 避ける間もなくアルフは弾き飛ばされ、背中から壁に激突し床に崩れ落ちた。

「アルフ!」

「アルフさん!!」

 二人が同時に叫んだ。後先考えず静羽が飛び出した。エトヴァもそれに続こうとしたが、なぜか足が付いて来なく、その場にガクッと膝を突いてしまった。そこで初めて自分の膝が震えていることに気が付く。

「くっ!! なんて不甲斐ない!?」

 エトヴァは肝心な時に怖気づいてしまった自分自身を罵った。女の子の静羽が動けるのに何故自分が動けないのか。

「しっかりしろ! この!?」

 エトヴァは自分の震える膝を殴りつける。

 静羽は何も考えずに反射的に飛び出していた。こんな異常な状況でも不思議と恐怖感はない。それよりもアルフを助けなければという思いの方が強い。

 向かってくる静羽に対して異形の物は触手を振り下ろしてきた。静羽はそれをサイド・ステップで難なく躱す。続け様に別の触手が水平に襲ってきたが、それも素早く身を屈めてやり過ごすと、しゃがんだ勢いで大きく前に跳んだ。ラクロスで鍛えたフットワークと天性の反射神経で襲い来る触手を次々に躱して、あっという間にアルフのところに辿り着いた。

<オオオォォーンン!!>

 異形の物が叫び声をあげる。まるで悔しがっているようだった。

「アルフさん! 大丈夫??」

 異形の物とアルフの間に立って、静羽は眼前にクロスを構える。

「ぐ・・・ だ、大丈夫だ。それより私に構わず、逃げろ・・・」

 アルフは苦痛に耐えながら言った。

「そんなことできるわけないでしょ! 私が引きつけます! その隙に逃げて下さい!」

「む、無茶だ! 私のことはいい! 君も逃げろ!」

 言いながらアルフは壁に手を付いてなんとか立ち上がる。

「・・・もう遅いみたいよ」

 異形の物が雄叫びを上げて全ての触手を振り上げた。静羽も思わず一歩下がったが、すぐにクロスを構える。

「負けるもんですか!!」

 静羽が力強く言うと、それに呼応するようにクロスに巻きつけた護符の辺りが淡い光を発した。

「臨!兵!闘!者!皆!陣!列!在!前っ!!」

 九字の呪文と共にクロスを縦横に振るうと、一振りごとに異形の物が苦痛のような叫びを上げて、触手を一斉に振り下ろしてきた。しかしそれは、光の軌跡によって作られたマス目状の光の壁によって弾かれる。静羽は身動ぎもせずに光るクロスを構え、次々に襲い掛かる触手を尽く弾き返す。

「す、すごい・・・」

 アルフはその様子に場違いながら感嘆していた。こんな小さな身体で巨大な化け物と対等に戦っている静羽が信じられない。結い上げていた髪がいつの間にか解け、フワリと広がっていた。しかも淡い光の粉が艶やかな黒髪から発せられていて、本当に女神のように見えた。

「・・・・・・くっ・・・」

 しかし、絶え間なく襲い掛かる触手の攻撃に、ついに静羽の口から苦悶の声が発せられた。クロスや九字の壁の光が徐々に弱まっていく。それを悟った異形の物が更に攻撃を強めると、ついに九字の壁が破られてしまった。

「キャーッ!?」

 弾かれた静羽がアルフにぶつかって、もつれるように二人は倒れた。

「シズハ! 大丈夫か?!」

 アルフはなんとか体勢を戻すと静羽を助け起こす。

「だ、大丈夫です・・・こ、これくらい・・・」

 静羽は荒い息を必死に整えながら、アルフの手を借りて何とか立ち上がった。

「も、もう一度・・・・・・」

 そう言って弱々しくクロスを構えようとする静羽を、アルフは慌てて止める。

「もういい! もう無理だ!」

「でも・・・」

 そこへ異形の物が再び雄叫びを上げた。今度はまるで勝利を確信して喜んでいるかのようだ。

 アルフは静羽を背中に庇って身構える。自分が攻撃を受けて、その隙に静羽を逃がすしかない。

 異形の物が再び触手を振り下ろそうとした瞬間、凛とした声が上がった。

「化け物! 今度は私が相手です!!」

 エトヴァが厳しい表情でゆっくりと歩いてくる。その足取りもしっかりとしていて怯えた様子は既になかった。

「エトヴァさん! 駄目よ!!」

「エトヴァ! 来るな! 逃げるんだ!」

 静羽とアルフが口々に止めようとしたが、エトヴァは首を横に振る。

「いいえ。今度は私が助ける番です。いつも護られてばかりの私はもう終わりです!」

 自信満々にいうと、エトヴァはキッと異形の物を睨みつけた。

「ファラミス神殿はエクリムス王国顧問神官長エトヴィエル・シーブック・アクトバスがお相手します!」

 言葉が通じたのか異形の物はじりじりと移動し、矛先をエトヴァに変える。

 エトヴァは破邪の剣をスラリと抜き放ち、眼前に翳した。そして素早く祈りの言葉を唱える。

「慈悲深き尊きファラミスよ。その偉大なる力をもって大地に恵みをもたらし賜え。地に水を、天に光を、空に風をもって、生命の息吹をもたらし賜え!」

 力強い朗々たる声で祈りを捧げるエトヴァは、この時ばかりは神官長らしい自信と威厳に満ちているように見えた。しかし、

「・・・・・・よく判らないけど、あれって、豊作とかを願うお祈りじゃないの?」

 静羽が躊躇いがちにアルフに訊くと、アルフも溜息をつきながら答えた。

「うーむ・・・ ファラミスは農耕の神だからな・・・・・・」

<オオオォォーンンッ!!>

 異形の物が怒りに震えたように触手を揺らすと、エトヴァに向かって触手を振り下ろした。

「来いっ!!」

 エトヴァも剣を構えて迎えうつ。触手が唸りを上げて襲い掛かった。

 ギィーンと金属音が響く。

「え」

「あ」

「な」

 三人が同時に間の抜けた声を発した。霊権あらたかなソレル神の破邪の剣は、半ばからポッキリと折れて無くなっている。

「あ、あれぇ??」

 エトヴァが呆然と折れた剣を見ていると、異形の物は躊躇いなく次の触手を振り下ろしてくる。慌ててエトヴァは守護の盾を構えた。が、しかし、これもあっさりと弾き飛ばされてしまう。

「な、なぜだ!? 五万メシアンもした特注品なのに!?」

 エトヴァの嘆きにもお構いなく、触手は次々と襲い掛かってくる。

 護符のペンダントも叩き落とされ、水晶球の付いた錫ももぎ取られる。その度にエトヴァの顔が青褪めていく。

「なぜだ! なぜだーっ!」

 ほとんど涙目になりながら、自棄になったエトヴァは持っているものを次々と投げ付け始めた。無論そんな攻撃など効くはずもない。給付金や私財のほとんどを費やした高価な神具は触手に弾き飛ばされて折れたり、落ちてバラバラになったりと、ただのガラクタと化していく。

「・・・駄目、ですね・・・」

「・・・ああ。駄目、だな・・・」

 その気の毒やら、情けないやらの光景を見ていた静羽とアルフは諦めたように大きな溜息をついた。

 エトヴァはじりじりと壁際まで追い詰められて、ついに投げ付けるものもなくなってしまった。異形の物はそんなエトヴァを嘲笑うかのように、触手をユラユラと揺らしながら近付いてくる。

 エトヴァは必死に自分の身体をまさぐって、何かないかと探した。そして腰の辺りで何か固いものに触れた。急いでそれを取り出してみて、エトヴァはがっくりと肩を落とす。それは親指ほどの小瓶だった。中にはちょっとしたお清めに使う水が入っているだけだ。

「こんなものでは・・・・・・」

 あれだけの神具がまるで通用しなかったものを、こんな水ではどうにもならない。しかし、嘆いている間もなく触手が襲い掛かってきた。エトヴァは慌てて避けながら反射的にその小瓶を投げ付ける。触手の一本がうるさげにそれを打ち払った。何でもないただのガラスの瓶は割れて、中の水が飛び散る。

<グガ、ガアァァァー!!!!>

 突然異形の物が叫び声をあげながら苦しみ始めた。

「・・・え?」

 エトヴァは逃げるのを忘れて呆然とした。異形の物に水が掛かったところから白い靄のような物が立ち昇っている。そして、その部分の触手の輪郭がぼやけて、粉々になって霧散していった。

 静羽はそれを見て、異形の物の正体を悟る。粉々になったものの一つ一つは苦悶の表情をした霊たちだった。おそらく王妃の霊の怨念に吸い寄せられて取り込まれてしまったのだろう。それが長い年月蓄積され、ついに実体を持つまでになったのだ。

「シズハ! 今のうちだ!!」

 この機を逃さずアルフが静羽の腕を掴んで、扉に向かって走り出す。

「エトヴァ! 逃げるぞ!」

 返事を待たず、アルフと静羽はエトヴァの両腕を左右で抱えて引き摺るように連れて走る。

 扉に辿り着いて、静羽が取っ手に飛び付いた。

「駄目! 開かないわ!?」

「シズハ! 脇に避けていろ! エトヴァ、行くぞ!!」

「は、はいっ!!」

 アルフとエトヴァが扉に体当たりした。だが、扉はビクともしない。二度、三度体当たりを繰り返したがやはり駄目だ。

「くそっ!」

「イタタ・・・開かない! どうします?!」

 エトヴァが体当たりで痛めた肩を擦りながら涙目で言う。そこで、静羽はハッとした。

「そうだ! 試してみる! ちょっとどいてて!」

 言うが早いか静羽は扉の前に立って、扉に向かって九字を斬る。呪文を唱え終わった途端に扉がビシィと鳴った。

「今よ!! やって!!」

 静羽が脇に避けると同時に、アルフとエトヴァは渾身の力で扉に体当たりする。すると僅かな抵抗の後、ついに扉が開いた。アルフとエトヴァは体当たりの勢いのまま廊下へ倒れ込んだ。後に続いた静羽が急いで扉を閉じる。

「陛下!? ご無事でしたか?!」

 締め出されていた衛兵が慌ててアルフを助け起こす。

「お怪我はありませんか? いったい何が起こったのですか? あの女は一体・・・」

「説明は後だ。とにかく、まずはここから出るぞ!」

 そう言うと他の者を急き立てて出口に向かった。

 後宮から飛び出すと暗闇に慣れた目が一瞬眩んだ。目が慣れた頃、三人はやっと安堵の息を吐いてその場にへたり込む。

 静羽が後宮の方を見やると、無数に感じていた霊の視線が、今はまるで嘲笑っているかのように感じられた。


 本宮に戻ったアルフは、一旦主治医に怪我の具合を診てもらった後、休む間も無く、主だった家臣たちを協議の間に召集した。長い間臥せっていた若き国王が自ら召集を掛けることは滅多になかったので、集まった家臣たちは何事かと囁き合う。

 国王入室の先触れがあって、家臣たちは一斉に立ち上がる。扉が開かれ、長身の国王が颯爽と入ってきた。足取りも確かで顔色も良い。二日前までの立つのもやっとだった状態との差に、皆一様に驚きと安堵をもって国王を見詰めた。

 そして国王に続いて入ってきた人物に視線が集中する。ファミラス神殿の白い巫女衣装に、こちらでは珍しい艶やかな黒髪がゆったりと背中に流れた清楚とした小柄な女性。静羽だった。

 静羽は、部屋に入った所で皆の視線を受けて思わず立ち止まってしまう。

(うわぁ・・・なんか、偉そうなおじさんたちがいっぱいだ・・・)

 アルフから重鎮たちと協議を開くと聞いて、自室に戻ろうとしたが、アルフが皆に紹介するから一緒に来るようにと言われて渋々着いてきたのだが、さすがの静羽も緊張していた。

 入り口で固まってしまったが、すぐ後ろから入ってきたエトヴァに促されて、テーブルからは外れているが、アルフの少し後ろに用意された椅子のところまで、なるべく皆の方を見ないようにして歩いていった。エトヴァもテーブルの末席に着く。

 アルフが上座の、他より少し作りが豪華な椅子に座ったところで、家臣達も着席した。そして、アルフのすぐ右手に座っていた初老の男性が再度立ち上がって、アルフに対して深々と頭を下げる。

「これより協議を開催致しますが、まずは、陛下がご快気なされましたこと、心からお喜び申し上げます」

 そう言って再び顔を上げた時には涙ぐんでいた。アルフは立ち上がってその者の肩に手を掛けて、優しく座るように促す。

「宰相、心配を掛けたな。皆の者にも長く心配を掛けたが、もう大丈夫だ。この通り良くなった」

 アルフは両手を広げて自分の健康状態が良いことをアピールした。皆ホッとした表情で国王の回復を喜んだ。

「これも、異界からの救世主殿のお陰だ。まずは紹介しよう。シズハ殿。こちらへ」

 突然言われて、静羽はどうしたらいいのか判らない。不安な顔をアルフに向けると、アルフは微笑んで大丈夫だと頷いた。それを見て静羽は立ち上がってアルフの横に並んだ。

「オクムラ・シズハ殿だ。異界からわざわざお越し頂いて、王国に巣食う呪いを祓うようご尽力頂けることになった」

「は、初めまして! 奥村静羽と申します。 よ、宜しくお願いします」

 静羽は緊張しながら挨拶して、丁寧にお辞儀をした。

「シズハ殿は、まだお若いが実力は確かだ。その力の程は、今の私を見れば語るまでもないと思う。先程も悪霊から命を救って頂いた」

 皆、軽い驚きと好奇の視線を静羽に向ける。中にはまだ不審そうな視線を寄越す者もあったが。

「シズハ殿には、暫くこちらに逗留して頂いてご協力頂く。その間は国の賓客として扱う。宜しく頼む」

 アルフがそう言うと、先程の宰相が立ち上がって、静羽に対して恭しく礼をした。

「ようこそ、我がエクリムスへ。オクムラ・シズハ様。心より歓迎致します。私は宰相を務めております、カーチス・ブックレト・ハプスバレスと申します。以後お見知りおきを。此度のこと国民すべてを代表致しまして、我が国王陛下をお救い頂きましたこと、深く御礼申し上げます」

 宰相が頭を下げると、他の家臣たちも同じように静羽に礼ととった。それを見て逆に静羽の方が焦ってしまう。

「い、いえ、あの、 私はそんな大した者じゃないので・・・ た、だたの女子高生なので、そんな・・・」

 シドロモドロになってしまった静羽に対して、宰相は優しい目を向ける。

「いいえ。アルフレッド様は、玉座に就いて以来ずっと臥せっておられました。どんな名医にも神官にもその病を癒すことは敵わなかったのです。日に日に衰弱していく様を見るのは非常に辛いものでした・・・ それをたった一日でこのように回復されて! そのことだけでも王国にとってどれだけ救いになるか・・・ こちらにご滞在される間は誠心誠意おもてなしさせて頂きたいと存じます。これまで行き届かない点が御座いましたでしょうか?」

「あ、いえ、もう十分にして頂いてますから・・・」

 宰相はその静羽の謙虚さを好意的に受け止めた。これまで連れてこられた偽救世主とは全く違う。今度こそは本物であろうと確信する。

「では、なにか不自由な点が御座いましたら遠慮なくお申し付け下さい」


 そこで静羽の紹介は終わりになって、協議に入る。アルフがこれまでの経過を皆に説明した。

「シズハ殿のお陰で、王国を、いや王家を蝕んでいた呪いの原因が判ってきた。先程言ったように悪霊によるものだったらしい」

「悪霊、ですか?」

 宰相が眉を顰めて聞き返す。俄かには信じられないらしい。他の者も同様だった。

「信じられないのは無理もないが、実際にこの目で見てきたから間違いない。予てから噂があったように、あのソフィア王妃が深く関わっているようだ」

「ソフィア王妃ですか・・・ 確かに恨みの念は強いでしょうね。それにしても、そんなに昔の人物の霊が?」

「うむ。それについてはシズハ殿に聞いた方が早いだろう。シズハ殿?」

 もう喋ることはないだろうと思って気を抜いて、アルフの国王ぶりを感心して見ていた静羽は慌てて姿勢を正して答えた。

「は、はい! えーと、私も詳しいことは判りませんが、どうやらソフィア王妃の国王に対する強い恨みの念に、他の霊達が呼び寄せられ、肥大化して実体を持つまでに至ったのではないかと思います。でも王妃自身はただ亡くした赤ちゃんのことがずっと気に掛かっているだけのようなので、呼び寄せられた中に悪霊がいて、それが王妃の霊を利用しているのだと思います」

「なるほど・・・ しかし、そんな物をどうやって相手すればよいのでしょう?」

「うむ。それについては、何か手立てを考えなければならないが・・・」

 アルフが指を顎に当てて考え込んだところで、家臣の中で、一人手を上げた者がいた。

「陛下。少し宜しいか?」

「近衛長。なにか?」

 近衛長と呼ばれたのは、がっしりとした体躯に、ちょっと厳つい顔に豊かな髭を生やした人物だった。軍隊を持たないエクリムスでは、近衛兵団が城と国の護りを担っている。言わば自衛隊と警察を併せたようなものだ。その総指揮官がこの近衛長であった。

「化け物のことは部下より聞き及んでおりますが、失礼ながら、そのような物、なかなか信じ難いことであります」

 近衛長の言葉に宰相が表情を少し厳しくする。

「陛下のお言葉が信じられないと仰るか? 近衛長殿?」

「自分は剛の者であります故、我が目で見た物しか信じられませぬ。・・・陛下がまやかしを見せられたということも考えられるかと」

「少し言葉が過ぎるのではありませんかな? ガレアス殿」

 宰相が厳しく諌めるも、近衛長、ガレアス・メイス・サフィバは態度を変えずに言い募る。

「その可能性も全くなくはない、と申し上げているだけのこと」

 要するに陛下が異界の娘に騙されているのではないかと言っているのだ。家臣達がざわついた。皆悪霊のことは半信半疑でいたが、こうまではっきりと疑わしいという勇気はない。

 宰相が困惑顔でアルフを見やったが、アルフは表情を変えずにただ黙って顎に手を当てている。そんな中、エトヴァは憤然として爆発寸前だった。事もあろうに、静羽がアルフを騙しているなど言われるとは。静羽を疑うということは、彼女を連れてきた自分も揃って、アルフを騙しているのだと言っているようなものだ。それ以前に、異世界の、この王国に対して何の義理もない静羽が、協力を約束してくれ、しかも自身の危険を顧みずにアルフを助けてくれたにも関わらず、そのような疑いを掛けるなど許せない。普段は自分から意見を言うようなこともないエトヴァだったが、この時ばかりは我慢出来なかった。テーブルの下の両手を真っ白になるほど握り締め、抗議の声を上げようとしたが、冷たく、それで怒りを含んだ静羽の声の方が早かった。

「それは、私のことを言っているのですか?」

 全員の視線が静羽に集中する。静羽は姿勢良く座ったまま、臆する事なくそれらの視線を受け止めた。そして近衛長と呼ばれていた男を真っ直ぐに見返す。

「私がアルフさんを騙していると?」

 近衛長は、静羽の方をチラッと見たが、すぐに視線を外して腕を組んで答えた。

「そう聞こえたのであれば、耳は悪くないと見える。しかし陛下を愛称で呼ばわるのは不遜であるな」

 静羽は暫く黙って近衛長を見ていたが、溜息一つつくと、スッと立ち上がった。

「判りました。そのように仰るなら、私は必要ないですね。元々私はこっちには何の関係もありませんから。アルフさんや、エトヴァさんと、いい友達になれるかと思いましたけど、それも許されないようですから」

「ふん。仮に化け物がいようとも、我ら近衛兵団が退治してくれるわ! しかも国王陛下のお友達だと? 所詮は庶民、常識がないと見えるな」

 静羽は近衛長の暴言に、静羽は怒りを通り越して逆に笑顔を浮かべた。

「そうですか。なら、頑張ってくださいな。では、これで失礼します」

 皮肉たっぷりに言うと静羽はわざとらしいくらい優雅にお辞儀をして、出口に向かって歩き始めた。それを見て慌てて宰相が止めに入る。

「お、お待ちください! オクムラ・シズハ様!」

 それを無視して静羽は出口に向かう。扉近くにいたエトヴァが慌てて立って静羽の行く手を塞いだ。

「シズハ殿、待って下さい! どうか落ち着いて!」

 静羽は立ち塞がったエトヴァを睨んで言う。

「十分過ぎるくらい落ち着いてるわよ。無理やりこんなところに連れて来られた上に、騙してるなんて言われては我慢できないわ! そこを退いて!」

 すごい剣幕にエトヴァは困り果ててアルフを見やる。

「陛下・・・」

 宰相もずっと黙っているアルフに助けを求めた。アルフは暫し目を閉じて考え込んでいたが、ゆっくり目を開けるとその視線を近衛長に向ける。

「・・・近衛長。仮に化け物の話が真実であったとすれば、その化け物を排除することは可能か?」

「無論であります! 我が兵団は日頃、有事に備えて常に訓練を積んでおります。そのような化け物など赤子の手を捻るようなもので・・・」

 ここぞとばかりに胸を張って自慢する近衛長の言葉を、アルフは途中で遮って勅命を下した。

「良かろう。では近衛兵団は、直ちに後宮に巣食う化け物の討伐に向かえ。異論はないな?」

「是非もありませぬ! お任せ下さい!」

 近衛長は自分達に討伐の命をもらい、優越感たっぷりの笑顔を静羽に向ける。静羽はその憎たらしい顔に思いっきりアカンベーを返した。

「但し、本件に関わりなく、シズハ殿は、国の賓客、私の友人として迎えることに変わりはない。これにも異論はなかろうな?」

 近衛長は途端に表情をムスッとさせて、それでも渋々承知する。そうしてすぐに討伐に向かうと言って、早々に退室して行った。しかし、静羽の方はそんなことでは怒りは収まらない。

「私は、お持て成しなんてして頂かなくて結構です! すぐ帰らせてもらいます!」

「まあ、落ち着け。帰るって言っても、次の満月まではどうにも出来ないのだろう?」

 苦笑交じりに言うアルフに、静羽は口篭る。

「うっ! そ、それは・・・・・・」

「ならば、ここは一つ。異世界の観光と思って、ゆっくり寛いでいけばいい。どうかな?」

 そう言って笑顔で片目を瞑ってくるアルフに、静羽はちょっぴりドキドキしながらも、表面上は渋々という感じで了解すると、宰相に促されて、再び元の椅子に戻った。

「しかし悪かったな。シズハ。家臣の非は、国王である自分の非でもある。謝罪する。近衛長も口は悪いが、根はそんなに悪い人間ではないのだ」

「いえ、もういいです。自分の世界でも悪霊なんて信じない人、いっぱいいますから・・・」

 そう。霊の存在なんて信じない人の方が多い。今までも視えることで疑われたことは数知れない。小さい頃はそれで苛められたこともあったのだ。

「しかし、陛下。宜しいのですか? 近衛長のことは・・・」

 宰相は遠慮がちにアルフに聞いた。堅物であることは有名なことだったが、今回は度が過ぎていると他の家臣たちも思っている。それに対してアルフはいつもの苦笑を浮かべる。

「あの手の者には、言葉で言っても余計態度を固くしてしまうだけだ。論より証拠だ。自分の目で見れば嫌でも信じるだろう。それでほんとに退治できれば、それに越したことはないさ」

「しかし・・・・・・」

「それに、エトヴァに対する対抗意識が強いだろうから、何を言っても無駄だろう」

「・・・それは、そうかもしれませんが・・・」

 心配性な宰相はそれでも不安気だった。静羽は、あの厳つい近衛長が何故エトヴァに対抗意識を持っているのか、そちらの方が不思議だった。後でそれとなく訊いてみよう。

「今更止められん。駄目なら逃げ帰ってくるだろう。それより今後についてだが・・・」

 そう言ってアルフは協議を再開する。化け物退治後に後宮をどうするかや、床に臥せっていて滞っていた執務の予定などが話し合われた。


 静羽は、それらを聞くとはなしに聞いていて、アルフの国王ぶりに一人感心していた。これまでのアルフとは人が違うようだ。神官から突然国王にさせられたらしいが、既に国王としての風格があるように見えた。おそらく生まれ付いての資質なのだろう。

 そして暫くすると、静羽は後宮に向かった人達のことが気になり始めた。さっきは頭にきていたので、勝手にすれば!と思っていたが、やはりただの武器は霊には何の効果もないのだ。しかも実体を持つまでに至った悪霊など敵うはずがない。自分の護符でさえも長くは防ぎ切れなかったのだ。あの人達は大丈夫だろうか? 無理せず逃げてくれればいいけど。とそればかりが気になって、何度もアルフを見たり出口を見たりと落ち着かなくなっていた。

 そんな静羽の様子に気付いてアルフが訊ねた。

「どうかしたのか? シズハ?」

「あ、いえ、あの・・・その・・・」

 言い淀む静羽を、アルフは不思議そうに見ていたが、ふと気付いたように言った。

「ああー、御不浄か? それなら、この部屋を出て・・・」

 御不浄とはトイレのことである。その言葉の意味を知っていた静羽は、真っ赤になって怒った。

「ち、違います!!」

「違うのか? ならば、どうした?」

「いえ、あの・・・ さっきの人、後宮に行ったんですよね? 大丈夫かなって・・・・・・」

 それを聞いてアルフは一瞬キョトンとしたが、すぐに優しい笑顔になった。

「近衛長のことか。君は優しいな。あんなに言われたのに安否を気遣ってくれるのか?」

「そ、そんな・・・ でも、きっと剣とかそういうものじゃ駄目だろうし・・・」

 そう言って少し赤くなりながらモジモジしている静羽を、アルフは可愛らしい娘だなと素直に思った。

「では、もしよかったら様子を見てきてもらえないだろうか?」

「それは、構いませんけど・・・」

「ありがとう。では、エトヴァ。お願いできるか?」

 指名されたエトヴァは勢い良く立ち上がって快諾した。そうすると挨拶もそこそこに静羽とエトヴァは退室して後宮へと向かう。

 二人が出て行った扉をアルフは暫く優しい表情で見詰める。同じく扉の方を見ていた宰相が笑顔になる。

「・・・お優しい方なのですね。シズハ様は・・・」

「そうだな。優しく、そして強く、真っ直ぐな娘だ。誰に対しても遜るところがない」

 アルフも本人がいなければ、素直に誉め言葉が出せる。優しい表情で言うアルフに宰相も優しい顔を向けた。

「随分、気に入られたようですね」

 宰相の言葉に少し慌てながらアルフは言い返す。

「い、いや・・・ 別に気に入ったなどとは・・・」

「こちらの世界の方でなくて、誠に残念でありますね」

「宰相、い、いったい何の話をしているのだ?」

 アルフが焦って聞き返すのを、宰相は素知らぬ振りをする。

「いえ、ただの年寄りの独り言でございます。さ、さ、続きを」

「う、うむ・・・」

 どうにもはぐらかされたような気もしたが、とりあえず議題は山積みなので、アルフは渋々協議を再開した。


 そして、後宮に向かった近衛兵団は、化け物の姿に度肝を抜かれ、更に重装備が全く役に立たず恐慌状態に陥っていた。近衛長も先頭に立って戦っていたが、化け物の触手に弾き飛ばされて気を失い掛ける。止めとばかりに打ち降ろされてきた触手を、ギリギリで間に合った静羽が九字の印で辛うじて弾き返した。そうして静羽が怪物を抑え込んでいるうちに、近衛兵団は転げるように後宮を逃げ出していったのだった。

 その後、近衛長は静羽に助けてもらったお礼と、疑って暴言を吐いたことを素直に謝罪し、そして静羽の力に最大限の賞讃を贈ったのだった。その時点で、静羽は名実共に王国の救世主として迎えられることになった。

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