3.王様はイケメン?
程なくして二人は豪華な扉の前に来た。扉の両脇には衛兵が立っている。エトヴァがその衛兵に国王に会いたい旨を伝えた。その衛兵は横柄な態度で、国王陛下はお休み中だから用件は明日にしろと言ったが、エトヴァは食い下がった。救世主を連れてきたからとエトヴァが言うと、その衛兵はあからさまに蔑んだ目を静羽に向けた。またかという思いがその目から読み取れた。まあ今までの来た人たちがひどかったらしいから無理もないかと静羽は気にしないことにした。
渋々と衛兵が開けた扉を入ったところで静羽は途端に立ち止まった。
(こ、これは、またきついわ・・・)
胸に手を当ててゆっくりと息を吐いた。部屋に一歩入った途端に空気が重くなって、また息苦しくなってしまった。しかも地下よりもひどい。それでも静羽はなんとか我慢してエトヴァに付いて部屋に入っていった。
入ったところは執務室のようだ。大きな豪華な机があり書類が山積みになっている。さすがに国王の執務室だけあって、置いてある調度品はどれも豪華で高価そうなものばかりだった。
隣に続く扉の前には比較的質素な服装の侍女が立っていた。エトヴァがその侍女に一言二言話すと、侍女はその部屋に入っていき、少しして戻ってきて告げた。
「国王陛下がお会いになります。どうぞお入り下さい」
そう言って侍女は脇に避けて二人を促した。エトヴァに続いて部屋に入ろうとした静羽は、一歩踏み込んだ所でよろめいてエトヴァの袖を掴んだ。驚いて振り向いたエトヴァは静羽の蒼白な顔を見て気遣わしげに訊いた。
「大丈夫ですか? 真っ青ですよ? ・・・・・・やっぱり、ここもですか?」
「・・・・・・ええ、それはもう・・・悲鳴を上げないでいるのが精一杯よ・・・・・・」
静羽は喘ぐように言って袖を掴んだ手に力を込めた。
この部屋はまるで部屋そのものが霊のようだった。静羽の眼には部屋全体が白いもやのようなものに包まれ、その中を既に形を為していない霊たちが飛び交っているのが視えていた。霊たちは飛び周りながら時々顔のようなものを浮かべるが、その顔はどれも苦悶の表情をしていた。
普通ならば、こんなところに入るのは謹んでお断りするが、自分で協力すると言った以上引き下がる訳にもいかない。護符の付いたラクロスのクロスをしっかりと胸に抱き、気合を入れ直す。
「・・・大丈夫よ。負けないわ」
そう言って静羽はエトヴァの袖を離し、しゃんと背筋を伸ばした。
そんな静羽をエトヴァは心から尊敬の眼差しで見詰めた。いじめられっ子だったエトヴァは、こうした意志の強い人間に自然と惹かれる。いつも守ってくれていたアルフも、エトヴァには眩しい存在だった。
静羽はできるだけ霊を意識しないように入っていった。そこは寝室だった。天蓋付の豪華なベッドに横になっているのがアルフだろう。
「陛下・・・」
エトヴァが遠慮がちに声を掛けると、その人はベッドから起き上がり、天蓋の薄絹を引いて二人の前に立った。
見上げるように背が高い。色白で線の細いエトヴァとは対象的に引き締まった体格をしている。明るい水色の瞳に、茶褐色の長い髪を後ろで一本にまとめている。
(これはまた、カッコイイわー)
静羽は色目なしの素直な感想を思った。神官の修行をしていたというが、騎士の方が似合いそうである。しかし、その端正な顔も今は憔悴の色が濃い。目に力がなく、唇の血色も悪そうだった。こんな部屋にいたらそれも当然だと静羽は思った。
「陛下、お加減は如何でしょうか?」
エトヴァは心底心配そうに言った。そんな友人の姿を見るのが辛そうだった。
「・・・陛下はよせ。俺達の仲でそんな堅苦しいのは無しだといつも言っているだろう」
答えたアルフの声はしっかりしていた。エトヴァに余計な心配を掛けまいとしているのが判る。そこに意志の強さが感じられた。
エトヴァは僅かに苦笑すると言い直した。
「具合はどうですか? アルフ」
「別にいつもと変わらないさ。・・・・・・ちょっと体がだるいだけだ」
なんでもない風に肩を竦めてアルフは言ったが、それが強がりであることはエトヴァにも判っていた。
アルフはそこでエトヴァの後ろにいる静羽に目をやり、エトヴァに問い掛けの視線を向けた。
「あ、紹介します。彼女はオクムラ・シズハ殿です。シズハ殿、こちらがエクリムス国王、アルフレッド・キルウォルフ・リーク・エクリムス陛下です」
エトヴァに紹介されて、静羽はペコリと頭を下げた。アルフも軽く顎を引いてそれに応えたが、訝しげな顔をしてエトヴァに言った。
「名前と服装から察するに、この娘はあちらの者か?」
「はい。さすがによくお判りですね」
エトヴァが機嫌良くいうのに、アルフは大きな溜息をついて言った。
「・・・またか」
それを聞いてエトヴァが慌てて言った。
「い、いえ! 今度こそ大丈夫ですよ! 間違いないです!」
アルフは言い繕うエトヴァに疑わしげな目を向けて冷たく言った。
「そう言って何人目だ?」
エトヴァは、うっと言葉に詰まる。
「でも、でも、今度こそは本物です!その力もこの目で見ましたから! 本物の救世主様です!」
エトヴァが必死に言うので、アルフは改めて静羽を見た。顔はまあ美しい部類に入るだろう。しかしそれ以外は普通の娘だ。エトヴァの言う何かしらの力を持っているようにはとても見えない。それにしても、あちらの服装はこちらに比べると極端に布地が少ない。膝上のスカートから伸びる白い足に目のやり場に困ってしまう。
「エトヴァがそこまで言うなら信じないでもないが、まあ期待はしないさ」
その物言いに、静羽はムッとして言い返した。
「期待されても困ります。私は別に、魔法使いでも何でもないですから」
そう言って静羽はアルフの目を真っ直ぐに見返した。アルフはそんな静羽の眼差しに以外な意志の強さを見て取って、確かに今までの偽救世主たちとはちょっと違うなと思ったが、口では相変わらず皮肉っぽく言った。
「まあ、執務の邪魔をしない程度にしてくれよ」
「もちろんです。やるだけやったら、さっさと帰らせてもらいますから」
負けずに静羽も言い返す。睨み合う二人にエトヴァはオロオロとして、なんとか取り繕うとする。
「えー、と、とりあえずやってみてから、ということにしたらどうでしょう? アルフ?」
「・・・・・・好きにしろ」
静羽から視線を外すと、少し億劫そうにベッドに腰を降ろした。
「し、シズハ殿、お願いできますか?」
まだアルフを睨んでいる静羽にエトヴァが恐る恐る訊いた。
「・・・いいわ。やるって言っちゃったんだから。でもご期待には沿えないかもしれませんけど」
静羽の皮肉にもアルフは一つ肩を竦めただけだった。
「えーと、どうすればいいですか? またお塩が必要ですか?」
「そうね。あった方が効果あるかもしれないわ」
「判りました。大至急お持ちします。少しお待ち下さいね」
そう言ってアルフを見ると、アルフは小さく頷いた。それを確認してエトヴァは足早に寝室を出て言った。
それから十五分程してエトヴァが戻ってくるまで、静羽とアルフは無言で睨み合っていた。静羽は若くて格好いい外見の割りに偉そうなおやじっぽい人だなどと考えていて、アルフは逆に、国王相手にも物怖じせずに真っ直ぐ見返してくる異世界の娘に少し興味を持ち初めていた。
エトヴァが息を切らして戻ってきた。今度は小さな壷のようなものに塩をたっぷり入れてきていた。
「はぁはぁ、お待たせしました。ワイン三本で何とか分けてもらいました。これを先ほどと同じようにすればいいのでしょうか?」
「うん。また同じようにして」
エトヴァは小壷を抱えて寝室の四隅に塩を盛っていく。今度は惜しみなく塩をたっぷり使う。
「・・・塩なんて、どうするんだ?」
アルフはエトヴァが作った塩の山を不思議そうに見ながら訊いた。
「まあ、見ていて下さい。すごいですよ!」
エトヴァはまるで自分のことのように興奮していった。アルフはまだ疑わしげに見ているだけだった。
静羽は部屋の中央あたりに立って、大きく深呼吸した。塩を盛った辺りから霊たちが俄かに騒ぎ始めていた。これほどの霊に対するのは初めてだったので、祓えるかどうかは自信がなかった。でもやれるだけやってみようと、あの偉そうなアルフを見返してやろうと気合いを入れた。
背筋を伸ばして護符の付いたクロスを振り上げた。すると突然部屋の空気が動いた。蝋燭の炎が激しく揺れる。さすがにアルフも異変に気付いて辺りを見回した。
「エトヴァ、これはいったい・・・」
「しっ! 静かに。ここは黙って見ていて下さい」
エトヴァは静羽の方を見たまま唇に指を当てて言った。
「臨!」
静羽はクロスを鋭く振り下ろした。その途端に静羽に向かって突風が巻き起こった。オオーンという風鳴りのようなものが聞こえる。スカートやポニーテールの長髪が風に翻弄されるのを無視して、静羽は微動だにしない。
「兵!闘!者!」
クロスを縦横に鋭く振るう。突風が効果ないとみた霊たちは、今度は固まりになって次々と静羽に襲い掛かってきた。しかし静羽の作り出す九字の壁に弾き返される。
「皆!陣!列!」
静羽は集中して九字を斬っていく。霊が視える者がこの場にいれば、静羽の周りを霊たちが苦悶の呻きを上げながら渦巻いているのが見えただろう。アルフも霊が視えないまでも異常な空気を感じて身じろぎもせずに静羽を見ている。
「在!、前!!」
最後の一言で一際大きな風鳴りが響いて、部屋が真っ暗になった。しばらくして静かになると再び蝋燭の炎が灯って明るくなった。そして重苦しかった部屋の空気も軽くなり白いもやも無くなっていた。
静羽も大きく深呼吸してやっと肩の力を抜いた。こっちに来てから護符の威力が増しているような気がする。とりあえずは何とかなったようで、ホッと息をつく。
「どうですか! すごいでしょ! アルフ!」
エトヴァが満面の笑顔でアルフに言う。まるで自分がやったかのように胸を張って自慢している。アルフも予想外の現象に茫然自失としていたが、我に返ると苦笑しながら立ち上がった。
「・・・確かに、いつもの息苦しさが無くなったな。体も嘘のように軽くなった気がする」
「そうでしょう! だから言ったじゃないですか。彼女は本物だって!」
アルフはそれに頷くと、静羽の方へ歩み寄ってじっと静羽を見詰めた。
「な、なによ」
あまりにじっと見詰めてくるので、我知らずクロスを胸に抱えて静羽は言った。
するとアルフは表情を和らげ、頭を下げた。
「先ほどの失礼をお詫びする。オクムラ・シズハ殿」
「え?」
急な態度の変化に静羽は思わずキョトンとしてしまった。
「外見だけで今までの者たちと同じと見てしまったのは、こちらが浅慮だった。これまでエトヴァから霊やら救世主やらの話を聞いていても半信半疑だったが、その考えも改めた方が良さそうだ」
「あ、い、いえ、私の方こそ、なんか失礼な言い方をしてしまって・・・ごめんなさい」
そう言って謝る静羽にアルフは笑い掛けた。その笑顔に静羽は思わずドキッとしてしまった。
「いや、落ち度はこちらにあったのだ。君が気に病むことではない」
「・・・はい」
「君を歓迎する。オクムラ・シズハ。ようこそ、エクリムスへ」
そう言ってアルフに笑い掛けられて、静羽は頬が火照る気がしてアルフから視線を外した。別に好みのタイプという訳ではないが、こんな美形に見詰められたことなどないのでなんだか気恥ずかしい。
なんとか和解した二人にエトヴァはホッとしていた。また間違いを素直に認めるアルフの度量の深さにも感動していた。
「だいぶ体が楽になった。やはり霊の仕業だったのか?」
「はい。そうだと思います。部屋中に霊が詰まっていたみたいな感じでしたから」
なんとなくアルフ相手だと言葉使いが丁寧になってしまう。相手が国王だというのもあるが、アルフの雰囲気に自然とそうなってしまうのだ。これが威厳というものなのだろうか。
「でも、もう大丈夫なのでしょう? 今はもう霊も感じられないですし」
「う・・・うん。だと思うんだけど・・・」
エトヴァが嬉しそうに言ったが、静羽は何かはっきりしなかった。
アルフがそれに気付いて訊いた。
「なにか気に掛かることがあるみたいだな?」
「はい・・・霊たちが去る間際に、微かに声が聞こえたんです。『諦めぬ』って・・・」
「そうか。まだこれだけでは終わらないということか・・・」
アルフが腕を組んで思案していると、エトヴァが少し表情を暗くして言った。
「で、でも、またシズハ殿が・・・」
「だから期待しないでって言ってるでしょ。それに、今回のはちょっとやばいかもしれないわ」
そう言うと静羽は部屋の四隅に盛られた塩を指差す。エトヴァはそれを見てギョッとした。真っ白だった塩の小山が真っ黒に変色していた。これが意味するものは説明されるまでもなく、霊の力が並みのものではないことが予測できた。
「ど、ど、ど、どうしましょ!」
エトヴァが狼狽して言うのを、アルフは落ち着いて言った。
「落ち着け、エトヴァ。確かに彼女に頼り過ぎるのも良くない。相手が霊だと判れば神殿の方でも何か手立てがあるだろう」
「そ、そうですね。私たちの神殿は農耕の神ですから、ソレル神殿の天空神の方がいいですね。でもあそこは高価だし・・・」
なにやらぶつぶつと費用の計算をしているエトヴァに、静羽が重りを落とした。
「その何とか神殿のって、あそこに掛けてある金ピカの丸いやつ?」
「え? あ、はい、そうです。よく判りましたね」
「まあ、いかにもって感じだから・・・ でも、あれ、全然効果ないみたいよ」
それを聞いたエトヴァは顔を青くしてショックを受けた。
「そ、そんな・・・二万メシアンもしたのに・・・給付金の二ヶ月分が・・・」
がっくりと肩を落としたエトヴァにアルフは笑いを堪えながら言った。
「残念だったな。エトヴァ。まあ、いずれにしろ今日はもう遅い。明日対策を練ろう。彼女も慣れない場所で疲れただろう。今日はゆっくり休んでもらえ。部屋を用意させる。それに・・・」
そう言ってアルフはじっと静羽を見詰めた。静羽も不思議そうに首を傾げた。
「なにか?」
アルフはニヤリとして悪戯っぽく言った。
「明日にはこちらの服を用意させよう。美脚だとは思うが、そんな恰好でウロウロされては、目のやり場に困るのでな」
え?っと言って静羽が自分を見下ろすと、霊たちが起こした突風でスカートの裾がまくれて白い腿が半ばまで見えてしまっていた。
「え、あ? キャー!!」
静羽は慌ててスカートを引き降ろした。アルフはそれを見て声を上げて笑う。
真っ赤になった静羽はアルフをキッと睨み、クロスを大上段から振り降ろした。
「この! すけべー!!」
「あ、危ない!」
ガンッという痛そうな音が寝室に響く。静羽の性格をだいぶ掴んできたエトヴァがアルフを守ろうと後先考えずに二人の間に割り込み、見事に脳天に乙女の鉄槌を受けてしまった。うーんと唸ってバタリと倒れる。
「あらら、また・・・ なんで、あなたが出てくるのよ」
静羽は溜息を突きながら倒れたエトヴァに冷たく言った。
アルフも憐れそうにエトヴァを見下ろして言った。
「己を犠牲にした、その忠誠心。しかと見届けた。安らかに眠るがよい」
そう言ってまじめな顔でファラミス神殿の祈りの印を結ぶ。静羽も両手を合掌させて念仏を唱えた。
「・・・だー! まだ死んでいません! 勝手に殺さないで下さい!」
がばっとエトヴァは起き上がって叫んだ。
「あ、復活した。今回は早いわね」
「うむ。エトヴァはこう見えても打たれ強い。昔から苛められてきたからな」
しれっと言うアルフを見上げて静羽は面白そうに言った。
「いい性格してますね」
「君もな」
そう言ってアルフは笑って片目を瞑ってみせた。
爽やかな笑顔にちょっぴりドキドキしながらも、この人達となら異世界も悪くないかもと静羽は感じた。
「すごーい! ふかふか~!」
静羽は、上機嫌でキングサイズより更に大きいフカフカのベッドに腰掛けていた。子供っぽくちょっと跳ねてみたりする。
静羽は豪華な客室を使うことになった。あまり華美ではないが趣味の良い、それでもやはり高そうな調度品が並ぶ。ベッドはもちろん天蓋付き。案内してくれたエトヴァは、小さくて質素な部屋で申し訳ありませんがなどと言っていたが、一般庶民の静羽にとっては、まるでお姫様にでもなったような気分だった。
またアルフの計らいで、城の王族専用の湯殿を使わせてもらったが、これがまたプールのように広いお風呂で薔薇の香りがたちこめていた(ちょっときつ過ぎたが)。侍女が数人控えていて、身体を洗ってくれると言ったが、さすがにそれは謹んで辞退した。それでもやっぱり本物のお城なんだと実感する。
「それにシルクよ。シルク! 初めて着たわ~」
部屋着として用意されていたのは絹の肌触りの軽いドレスだった。異世界なので本当に絹なのかは判らないが感触はそのものだ。
興奮しながらもベッドに横になって、今日のことの出来事を考えていたが、色々あった疲れから徐々に眠りに落ちていった。
しかし、その眠りも夜半過ぎには妨げられることになった。静羽は何か息苦しさを感じて覚醒を余儀なくされる。右に左にと寝返りを繰り返していたが、ふと部屋の中に他の気配があることに気付いた。ホテルのように部屋に鍵を掛けている訳ではなので、侍女か誰かが入ってきたのかと思い、眠い目を薄っすらと開けて辺りを見てみたが人影は見えない。それでも部屋の中を歩き回る気配だけは確かにある。
(誰・・・? あ、幽霊さんかな・・・)
そう意識した途端に静羽の目に白い影が視えた。もう少し意識を集中するとそれが白いドレスを着た女性の霊であるのが判る。長い金髪で顔は見えないが雰囲気から高貴な人物だったと思われる。その霊はゆっくり、ゆっくり部屋を徘徊している。時々立ち止まって何かを探している様子だった。
<・・・い・・・ない・・・>
霊がベッドの傍を通ったときに、何やら呟いているのが聞こえた。何を言っているんだろうと思っていると、今度ははっきり聞こえた。
<・・・ここにも・・・いない・・・何処・・・何処・・・・・・>
霊はそう呟いていた。
(いない? 誰かを探しているんだ・・・)
こちらに気付かれると厄介なので、静羽は寝た振りをしながら薄目で様子を伺っていた。最初この部屋に入ったときは霊が全然いなかったので、除霊もお清めも特にしていなかった。それで浮遊霊が入ってきたのだろう。
霊はしばらく部屋の中を探し回って、いない、いないと呟きながら隣の部屋に続く壁の方に消えていった。
静羽はそのまま少しの間じっとしていて、霊が戻って来ないのを確認するとホッと溜息をついた。その途端耳元で声がした。
<ねぇ・・・>
静羽はあげそうになった悲鳴を必死で抑えた。そして急激に息苦しさに襲われた。
左の方に気配を感じる。近い。顔を向けたくない。でも向けずにはいられない。
見てはいけないという本能と、確認したいという欲求がせめぎ合う。
しかし見なければ恐怖でおかしくなってしまいそうだ。ゆっくりと、まるでそうすれば気付かれないかもしれないと思うほどにゆっくりと左へ顔を向けた。
何もいない。目だけを動かして周囲を探すが集中しても姿は見えない。
しかし気配は間違いなくそこにいることを教えている。ここから見えないのは、死角になって見えないベッドの下だけ。静羽は何も考えられずベッドの端を凝視した。
音も無く、真っ直ぐに伸ばされた青白い指がベッドの縁からゆっくりと現れた。
静羽は思わず呼吸を飲み込んだ。
指から掌が現れ、パタリとベッドに手が載せられた。そして体重が乗せられたように青白い手が柔らかい布団に沈む。それに合わせてベッドが軽く軋んだ。
(ヒッ!)
静寂の中、異様に大きく響いたその音に、静羽は内心で悲鳴を上げた。それは普通の霊のようにぼやけたものではなかった。まるで生きた人間のように実体感がある。護符を巻きつけたクロスはベッドの足元の方に立て掛けてあり掴むことはできない。
そしてベッドの縁からゆっくりと金髪の頭が現れた。そのままベッドに乗ってくる。長い髪が顔に掛かっていて良く判らないが、髪の合間から見える目は閉じられている。
ドクンッドクンッと心臓が異様に強く打つのが感じられる。冷や汗が吹き出し額から目に流れてきたが、それを拭うことも出来なかった。
その霊はベッドを這うように静羽に近寄ってきて、静羽の顔の前、生前であれば息が掛かるだろうというところで止まった。
そして、閉じていた目をカッと見開いた。そこには瞳は存在しなかった。ただ漆黒の闇があるだけだった。静羽の目もまた極限まで開かれた。既に思考力はなくなっていた。吸い込まれるようにその漆黒の闇から目を放せない。
その霊は、静羽を凝視したあと、呟いた。
<ねぇ・・・ 私の・・・赤ちゃん・・・ 何処?>
静羽は弾かれたように激しく頭を振った。
(知らない! 知らない! 知らない! 私は知らない!)
そう叫んだつもりだったが、口からはヒューヒューという掠れた音しか出ない。体中が小刻みに震えた。未だ嘗てこれほどの恐怖を味わったことがなかった。
霊は暫し静羽を見詰めた後、ゆっくりと離れていき、まるで現れたときを逆再生するようにベッドの向こうへ消えていった。
(・・・い・・・行った・・・・・・)
静羽は、霊の気配が完全になくなったのが判ると、そのまま意識を失った。