赤野あじさい(2)
僕は何も分かっていなかった。この話を聞いて先生も兄さんも全く動じない所を見るとすでにこのことを知っているようだ。
「でも、それでは読者をだましていることになりませんか?」
「はあ、何を言っているの? もし、私がまったくSMやお水の経験がないのに働いていたと言えば嘘ついたことになるけど、私は働いたことがある。働いたと言う経験が大切なのよ。読者が求めているのは現実の汚い話ではなく、少しばかり現実離れした輝かしくてきらびやかな世界。だから、私は読者をだましてなんかいない。と言うより、私と読者はお互いに共犯の関係なの」
なるほど、僕は本を作るということに誠実すぎたようだ。誰も本の世界に誠実さなんか求めていない。最低限の現実性さえ守られていれば、後は読者と作者の求める世界を好きなように描いてよかったんだ。
「赤野は成長したな。そうだ。本はまず読者ありき。読者のいない本なんか書いても、それは作者の自己満足だし、オナニーにすぎない。いいか、越前!」
「そうですね。先生。くらげ君、先生の今の言葉…メモっておきな。『本はまず読者ありき』だよ」
「そうだ越前君。先生の一語一句に一人前の作家になるために必要な心得が詰まっている。しっかり心に刻みなさい」
やがて、祝会はお開きになった。祝会はとても有意義なものであった。
その後、仕事の合間に姉さんの小説を読んだ。先生の官能小説と違って官能小説の王道と言った感じだ。エロい所とそうでない所のメリハリがはっきりしているのもいい。
女性特有の視点で描かれたエロスがまたいい。男性が書く官能小説はとにかく直線的でチラリズムの要素が全くないが、姉さんが書いた小説はチラリズムがふんだんに使われていて、それがかえってエロスを引き立てる。
「オナニーしか知らない君が私の体を通じて成長していくのがとてもほほえましかった。君は一人でして自分の顔にかかったときにむなしさを感じたと言っていたけど、私の顔にかけたときはとても満足そうにしてたよ。私を通じて君は女を知り、どんどん男に目覚めていく。そのことが私の幸せだった」
こんな上品にエロスを表現しながら、生々しくエロスの情動を呼び起こすことができるとは…。その表現力のすごさに、ただ驚かされるばかりだった。冒頭の三行で小説の世界に深く引きずる力が今の僕にはなかった。