下根多羅部
先生の弟子となってから二ヶ月が過ぎた。六月に入り、曇や雨の日が増えたが、仕事場に通うとき以外はさほど気にならなかった。一度、仕事場に入ってしまえば、雨が降ろうが槍が降ろうが関係ない。
仕事の合間にふと外を見る。ガラス越しから見る外の景色はほとんどが灰色だった。時々、カラフルな傘が下の道を通り過ぎる。そして、また原稿に目を向ける。
そんなことを繰り返しながら、僕は仕事を進めていく。今進めている仕事は先生が久々に書いた三部作であった。
それぞれ「好色一代物語」「男色一代物語」「両刀一代物語」であった。いつもと同じように先生に打ち込みをお願いされたとき、ペンネームが下根多羅部になっていたことへ真っ先に目が行った。
「先生、下根多羅部って誰なんですか?」
「私のもうひとつのペンネームだよ。今まで君には黙っていたけど、私は二つのペンネームを使い分けているんだ。一つは御金持好。もう一つは下根多羅部。もともと御金持好だけでやっていたんだけど、官能小説詩を書き出してから、出版社から御金持好のイメージが崩れると困るから官能小説専用のペンネームを考えて欲しいと言われてね。それで下根多羅部が生まれたんだよ」
下根多羅部…シモネ、タラブ…シモネタ、ラブ…下ネタ、ラブ。またしても先生特有の言葉遊びの世界をかいま見た。ここまで来るとすごいの一言である。
ここでふと一つの疑問がわく。御金持好と下根多羅部が同一人物であることに気付く読者はいなかったのだろうか? 試しに聞いてみる。
「御金持好と下根多羅部が同一人物だと疑われたことは一度もないよ。まず、読者層が違うからね。それにもし両方読んだとしても、普通は同一人物だと思わないものだよ。読者は一般小説を書いている人と官能小説を書いている人が同じことは絶対にありえないと思っているらしい。だから、出版社も別の名前で書いてくれと言うのだろう。まあ、回りが何と言おうと私はやりたいようにさせてもらうけどね。そのためだったらペンネームが何個あってもかまわないよ」
実に先生らしい答えだった。書きたいモノは何でも書く。そのためだったら、ペンネームが何個になろうともかまわないらしい。大先生はその辺りからして僕らとは違っていた。
梅雨の間はひたすら三部作の打ち込みに追われた。締め切りは七月三日であったため、いつもの打ち込みのように徹夜する必要はなかった。そのため、作品をいつもよりゆっくり読むことができた。
「好色一代物語」はとても面白かった。官能小説として出すにはもったいないぐらい実に上品な仕上がりだった。この小説は一人の男性が次から次に女性を求めていくと言う内容でありながら、とてもさわやかなのだ。官能小説特有のドロドロとしたエロさは全くなかった。
『どうして男は全裸の女性よりもスカートをめくり上げたり、ブラウスのボタンをすべて取ったりした着衣を乱した状態の女性の方にエロスを感じてしまうのだろうか。これは一生かかっても解けない謎である』
なるほど言われてみれば、確かにそうだと妙に納得してる自分に驚かされた。まあ、そのようなモノを男なら誰でも持っているのだろう。
「男色一代物語」はボーイズラブの世界を描いたものである。男が男を好きになることが、女性しか好きになったことのない自分には未知のモノであった。これがボーイズラブだと妙に感心した。
しかし、ドロドロとしたエロさが全面に出ていて、打ち込みをしていて気分が悪くなった。妙に生々しい描写もたくさんあって、先生はこう言った体験をしたことがあるのかもと勘ぐってしまった。
「男色一代物語」の上を言ったのが「両刀一代物語」であった。題名だけではこれが官能小説だとわかりにくいが、内容を見て「両刀」の本当の意味が分かった。
この小説の主人公は男も女も好きだという、いわゆる「両刀使い」と呼ばれる人であった。打ち込みをしながら、世の中には「男色一代物語」や「両刀一代物語」を読んで快感や満足感を覚える人がいることに違和感を覚えた。世の中には本当にいろいろな人がいる。
それでいて、先生はきちんとバイセクシャルやゲイやレズビアン、トランスジェンダーなどについてきちんと勉強されていて、そのような方が不快な思いをされないように細心の注意をしている。これは僕もすごく勉強になったものである。