先生の葬儀
車車車(しゃしゃ丸)の「文学新人賞裏取引大合戦」が出版されてから10年が経った。この本の出版をきっかけに文学界は揺れに揺れた。それまでの談合まがいの新人賞選考システムや、談合の温床であった子弟制度などは全て撤廃された。
しかし、一方で文学界で後進を育てていく仕組みが小説家養成学校のみとなり、こじんまりとした作家しか出て来なくなってしまったような気がする。
やはり、大物を育てていくには、師匠と弟子の濃密な関係が必要なのかもしれない。もしくは、不景気続きの世知辛い世の中のせいかもしれないし、個性を必要以上に尊重する現在の教育にも問題があるのかもしれない。
僕は御金持一門の解散後も、何かにつけて、先生や兄さん、姉さん、しゃしゃ丸と一緒に仕事できる機会を作っていた。
やはり、かつて同じ飯の釜を食べた特別な仲間である。新人賞の選考を一緒にすることはさすがに出来ないが、週刊誌や新聞のコラムやテレビ出演などの仕事で一緒になった時は昔を懐かしみながら仕事したものだ。
そうしているうちに、僕も文壇の中ではそれなりに古株になり、小説協会の事務局長を引き受けたり、カシオペア新人賞の選考委員を任されたりするようになった。
また、書いた小説も安定して売れるようになった。僕の小説を欠かすことなく買って読む、熱心なファンのおかげである。
こんな日々がずっと続いていくと思っていたのに…。そうはいかなかった。
平成○○年二月二九日、少しずつ冬の寒さが緩み出した頃、御金持好先生は違う世界へと旅立たれた。
晩年は大腸ガンとの闘病生活で少しずつ体が弱っていた。見るたびに先生は小さくなり、いつしかベッドから起き上がることは無くなった。
それでも、先生は書くことへの情熱を失っておらず、「元気になったら、ガン闘病記を書いて、また一儲けしようと思う」なんて言っておられたのに…。それは叶わぬ夢となった。
私は長いこと先生に仕えていた。御金持一門が解散になった後も、迷惑がる先生の後を付いて回った。それなのに、先生の本名を知ったのは先生がガンで入院されてからのことだった。
「山田一」と病室に書かれていたのを初めて見た時は、何かの間違いじゃないかとさえ思った。この方はまぎれもなく「御金持好」だと信じて疑わなかったほどだ。
「先生の本名は『やまだ はじめ』だと言うことを今日初めて知りました」
「そうか。私は山田一というのか…。あまりにも久々に本名を聞くので、思わず忘れとったよ」
「うちの主人は二十四時間ずっと、御金持好なんですよ。本当に本を書くために生まれて来たような人です」
「泰葉、私のガンはもうすぐ治るんだよな…」
「ええ、もうすぐ治りますよ」
「そうか、それはよかった」
そう言うと、先生はまたしても眠りについてしまった。ガンが全身に転移してしまって、余命わずかの状態で体力がほとんどないらしい。ちょっと、目を覚ましてもすぐに眠りについてしまう。
僕は思わず、先生の右手首を触り、まだ脈があることを確認した。そして、奥さんが小さな声で言った。
「うちの主人はもって後一週間だそうです。ガンの発見が遅くて、もうすでに全身に転移していて、施しようがなかったようです…」
そんなやりとりを先生の奥さんと交えてやったのを、昨日のことのように思い出した。
奥さんは気丈に喪主を務められていた。この日は兄さんも姉さんもしゃしゃ丸も、そしてかつて先生の元で修行したことのあるあおいも葬儀に駆けつけていた。
あおいは一人前の小説家になる前に小説家の道をあきらめて、どこにでもいる主婦になる道を選んだ。この世界を離れて15年ほどになる。それでも、かつての師匠の永眠の知らせを聞いて駆けつけた。
出版関係者はもちろんのこと、多くの読者が葬儀に来て下さった。先生の人柄が改めて偲ばれる。
先生は天に召されたが、あの世でも本を書き続けているような気がする。まさに小説を書くために生まれて来たような方だった。
そんな偉大な方に拾い上げられて、ここまで育てて頂いたことを改めて感謝するのであった。私のような海の物とも山の物とも分からない物が、曲がりなりにも小説家としてやっていけているのは、紛れも無く先生のおかげである。先生は実に偉大な方であった。




