先生の千里眼
その後、先生はカシオペア新人賞を除いて、全ての選考委員をやめることやあおいのことなどを話した。先生はろくに仕事場にいないのに、僕があおいから迫られていることを知っていたのにはびっくりした。
「せっかく好きになってくれる人がいるんだから結婚したらどうだ。越前も、もう四五だろうこれを逃したらもう二度とこんなチャンス訪れないぞ。私でも泰葉がずっといてくれたから何とかやって来れたようなものだ。そろそろ、あいつのためにも籍を入れてやろうと思っている」
泰葉さんは先生の内縁の妻である。先生は苦労させたくないがためにずっと泰葉さんを遠ざけようとしていたらしいが、泰葉さんは先生を信じてずっと寄り添って来られたそうだ。素晴らしい話である。
この言葉は僕に強い印象を与えたらしくて、頭の中で何度も繰り返されるのであった。しかし、それ以上に小説家としての意地が強くて、頭の中で何度も小競り合いをするのであった。そんなことをしているうちに一週間の旅行は終わりを告げた。
一二月二八日、去年の九月一日からずっと書き続けていた新聞小説の連載を無事に終了させることができた。約一年四ヶ月の間、新聞休刊日を除いた四七七回にわたって連載したことになる。
この小説は「南風新」として出した最初の小説であり、自分の活動範囲を大きく広げてくれるきっかけとなった。初めは日曜版での短編で終わるはずだったが、多くの方から高い評価をして頂いたことで通常版でも書くチャンスを与えられたのである。
三月から始めたマガジーンヌでの連載もすごく順調で、読者アンケートではいつも一位か二位であった。そのため、編集部から小説家ではなく漫画原作作家になったらどうだと誘われるほどだった。それはそれでうれしかったが、
やはり小説家として大衆文学新人賞が欲しい。今年は「日付は進む、されど就職は決まらず」と言う就職氷河期の大学生を主人公にして、失われた十年が日本にもたらしたモノを考えていく社会派小説である。
自分で言うのも何だが、これは僕が小説家を志してから最もできがよかった小説であり、今度こそぜひ新人賞を頂きたいものである。
一方、五番弟子のあおいは先生のところに去年の十月から弟子入りしてから、ようやく第一作目の「あなたの瞳に私は映らない」を大衆文学新人賞用に仕上げた。
彼女の小説を読ませてもらったが、まだまだ不十分な所も多く内容もありきたりなものである。これでは一時選考通過も厳しいのではないか…。しかも、内容が僕への当てつけではないかと思うほど、ノンフィクションな内容であった。
彼女は「生徒と教師の壁」と一一月末に単行本化されたばかりの「先生の大きな背中」の二冊を見て、
「これで最終選考で選外になるなんて、レベルが高過ぎですよ」
と頼りないことを言う。まだ、以前ほどではないが、やはり自分への好意をほのめかしてくる。
「どうして、そんなことを言うんですか。『他の人を好きになればいい』だなんて…ひどすぎますよ。恋愛は理屈や建前でするものじゃありません。好きになったら相手が自分のことをどんなに嫌っていても、どうすることもできないですよ。そんなこともわからずによく小説がかけますね」
ろくに小説を書いていないくせによく言うよ…と思ったが、あえて何も言わないことにした。最近は彼女との距離をしっかり取って、彼女のペースに巻き込まれないようにしている。
最近、兄さんは一年ぶりに小説を出した。「犯罪者の娘の一生」と言う被害者と加害者、そして加害者の娘の三者が織り成す人間模様が描かれている。娘は父みたいにならないようにまじめに生きようとするが、「殺人、強盗、誘拐の前科三犯の父」のせいで、いつも最後に全てを台無しにしてしまう。
そのたびにいつも獄中の父を恨んでいたが、あるとき自分はそういう父を持ったのだからあきらめるしかないことに気付き、昼間の世界を捨てて闇の世界に入っていくと言う話である。
年末に兄さんから新刊をもらってから、夢中で読んでいるうちに年が明けてしまった。独り者とは言え、まったく大掃除や新年の準備もせずに年を越したことを後悔した。
去年は自分専用の仕事場ができたばかりできちんと大掃除したのに…。それ以前は先生の仕事場で働いていたので、仕事場で年を越すことはありえなかった。
先生はこの一年間何も小説を書かなかった。「下根多羅部」としての官能小説も書いていなかった。やはり、選考委員と養成学校の副学長の兼任は多忙を極めるのだろう。
それでも以前の先生であれば、必ず何らかの作品を仕上げて来た。それができなくなったということは、やはり、長年にわたる激務による疲労が相当たまっているのだろう…。
しかし、年が明ければ、カシオペア新人賞を除く全ての新人賞の選考委員から外れることが決まっている。そのせいか先生はいつもより生き生きとした正月を過ごしているようだった。
しゃしゃ丸は新人賞を取ってから一年半が経つと言うのに、未だに音沙汰なしである。すると、約一年半ぶりに先生の仕事場にやってきた。しかも、嫁さんと子供を連れて…。
子供は一歳ぐらいだろうか、とてもかわいかった。どうやら、学校での仕事をもっと増やして欲しいと先生にお願いしたらしい。しかし、妻と子供のためとは言え、プライドの高い彼がこんなことをするのは意外だった。
その後、彼は先生をぜひ自宅へ誘いたいと言って、先生を連れて行った。先生は一人では行きたくなかったらしく、あおいを連れて行った。兄さんは自分の家庭があるので、当然仕事場にくるはずもない。誰もいなくなったフロアでむなしさを覚えた僕は一週間ぶりに誰もいない部屋へと帰った。




