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十二の空白

轟実(四)

作者: 石村真知

夜になって、外へ出ました。久しぶりの事です。長く雨が降っていたので、枝葉は少し重たそうに雫を絞り出そうと動いています。私は腰を屈めて、その周りの草を摘みました。摘んだ草は湯の沸いた鍋に入れ、小麦粉を水で練り、沸騰した湯の中に掬って落とし、一緒に少し煮立たてた後、味噌で味付けをして食べます。

草を摘み終わる頃に、木々の向こうが随分と賑やかな事に気が付きました。

他人様たちが何人もで話を交えているようなので、何か祝い事かと思いましたが、関係は無いので部屋に戻り、食事の仕度をしようと考え調理場へ向かいます。湿気で床は足の裏に付き、一歩踏み出すごとに、ぎゅうと音を立てました。

主人を亡くした調理場は灯りを点けても薄暗く、疲れ果てて居ました。可愛がってくれる主人がもう居なく、埃にまみれ、命が尽きていくことを知っているかのように翳りを見せるのです。私はというと、了承を得ずとも踏み入れても良いのですから、ゆたりゆたりと流しに向かいました。水で草を洗ってい、鍋や小麦を用意しながらも、包丁が目につきます。父の包丁には手をつけずに居ましたが、何故か私を見ているようなそれから目が離せずに、じっと見つめてしまうのです。そうして、その間に鍋の湯が沸いているのです。

「実さん」

声がして、驚いた私は包丁を掴み、振り上げ一回りしながら、声の主を視界に捉えました。主は調理場の暖簾を片手で上げ顔を傾けて笑った。見慣れた顔の様だが、誰だか思い出せずに、目を白黒させている私に言いました。

「こんばんは、私です。聡子です。」

「...聡子」

まさかの客人に、振り上げた包丁同様に、気持ちが下がって行くのを感じました。


彼女の名前は村岡聡子です。所謂、幼なじみという関係ですが、ここ八年ほど会っていませんでした。ですが、向き合ってみると、大して変わっても無いようです。少し鼻が低く童顔な聡子は、その顔に似合わない性格をしていました。頭がよく、負けん気で気が強く、家庭に事情が有りましたが、毎日しゃんと立っていました。私は昔に聡子のそういうものに憧れを抱いていました。そして聡子は幼い時と変わらずに、今もはっきりとした声と、真っ直ぐな背筋をしていました。

「お久しぶりです。御元気ですか?」

私を一度見て、また話を始める。

「まぁあまり、御元気そうではない様ですけど。御会いできて善かったわ。」

私が返答をしない事を彼女は知っているので、待たずに次の言葉を進める。それは昔からの事で、そして聡子はあまり笑いませんでした。その表情のせいか、怒っているのかと誤解をされて、他人様といさかいを起こしているのを私は何度も見たことが有りました。

「この度は知らぬ事とは言え、ご挨拶が遅れてしまい、申し訳ありませんでした。御悔やみ申し上げます。」

聡子は畳に手を付き、深々と頭を下げた。

「御両親には、生前良くして頂きました。」

聡子は、少女の面影を残した横顔でぽつりといました。

「御両親が居なければ、私は死んでいたかも知れません。」

聡子は、幼い頃から父親の暴力を受けていたのです。逃げ惑う聡子の髪を掴みあげ、殴る父親の姿はまるで鬼の様でした。それでも、助ける者は一人も無く、触らぬ神に祟りなしと言わんばかりに、聡子が助けを求めて近所の窓を叩いてもぴしゃりと閉められて終いました。そこで止めに入ったのが私の両親でした。後にも先にも聡子が助けを求め、また両親が助けたのもその時だけですが、それが尚更、その思い出を強くし、聡子はずっと忘れられずに居るようです。

「お線香をあげても?」

黙ったままの私を訝しく感じたのか、眉を上げて聞きました。

「御仏壇は、どちらに?」

「...ありません。」

「無い?」

「棄ててしまったので...」

聡子は驚いて目を丸くしましたが、次の瞬間には元通りになり、

「そうですか...仕方が無いですね。」

仕方が無いとは、私の事なのか、仏壇が無い事なのか、分かりませんでした。聡子はふうと深い溜め息を吐いて何かを考えているようです。

暫く沈黙が続き、聡子が口を開きました。

「実は、もうすぐ子が産まれるのです。」

「その、様ですね。」

聡子が妊娠をしているのは気が付きましたが、敢えて触れずに居ました。

聡子は可愛がるように腹を撫でています。

「来月の半ばが予定なの。御両親にも見ていただきたかった。」

聡子は腹の下を押さえ、ゆっくりと立ち上がり、庭を見た。聡子の視線の先には、紫陽花がある。聡子は手を口元に持っていき、間を置いた。

「男など、生まれながらに大差などないのですね。」

突然厳しい声で言うと、こちらを向いた。

「私の気が強すぎるせいなのか。私は生まれてから死ぬまで、暴力から逃げられないのです。」

「御主人は暴力を...?」

聡子は首を縦に振りました。

「今までずっとです。きっとこれからも。このままこの子が生まれ、私はもっと逃げられなくなる。そして、そのまま死んでいくんだわ。私は...きっとバチが当たったの。」

聡子は、暗い目をした。

思春期の頃も、互いに口もきかずに居ましたが、私はある日、聡子が年のいった男と歩いている所を見てしまいました。聡子は売春をしていたのです。それはどこからともなく噂になり、聡子は陰口を叩かれ笑われいじめられて居ました。そしてその事が原因で学校を追い出され、突然居なくなっしまったのです。そこいら中で大騒ぎでしたが、いつしか、周りは納得し始めたのです。無理もない、聡子がこんなことになったのも、家を飛び出したのも、全部当たり前の事と大人は言いました。彼女は幼い頃からずっと父親から暴力に苦しみ、それは聡子が年を重ねるにつれ増してゆき、見るにたえない聡子がいつも家の玄関先で寝ていました。そうしているうちに聡子の気の強い部分が悪として出てしまったのです。聡子はきっと、金を貯めたかったのでしょう。聡子は一人で、誰も自分を知らぬ場所で新しい人生を歩みたかったのだと思います。唇を噛みしめて血を流す事に疲れ、どんなことをしても自分を捨ててしまいたかったのだと、聡子を知る人間は考えました。

「四国に行ったんです。あのお金で。暖かい土地で新しい人生を歩みたいと思っていました。」

壁に寄り掛かりながら、聡子は話します。

「そこで私を見初めてくれた方と親しくなり、結婚しました。ですが、実際結婚すると、人は本性を顕します。そうして、力で手に入れる度、人は変わってしまうのです。」

私達は互いに何も言いませんでした。

聡子に言える言葉の一つも思い付く筈もなく、私は口をつぐんでしまいました。

降りだした雨はやたらと強く打ち付けて、思い出と静かな空気をより重くしたのですが、私は現実とは何とも困難なものと感じていました。聡子は腹に子供が居ながらも男からの暴力を受けていた。そして、そんな体で生きている聡子があまりにも不憫に思ったのです。一生、逃れることの出来ない呪縛に締め付けられずに生きていくのです。こんな気持ちは初めてですが、痛みを知りながらも必死で生きている聡子に、私は柄にも無く、聡子となら生きていけるのではないかと一瞬にして思ってしまったのです。その気持ちを次の瞬間には打ち明けてしまいました。

「聡子」

「何ですか?」

「......私がお腹の子の父親ではいけないだろうか?」

「え?」

「まだ、顔も知らないのだし、聡子が嫌でなければ...まだ家には金も、あの箪笥の一番下にある。」

指さしをして見せる。聡子は指を折った。

「実さん...」

それは出来ないと首を横に振り、困った顔をして口に手を当てた。そして申し訳無さそうに言う。

「無理ですよ。」

「そうだろうか...」

「貴方には...それに此処では...」

「新しい土地を、探しに行かないか?」

「どこに?」

「いや...」

私はそんなことも考えておらず、ただ閃きで聡子に父親になると言ったものですから、言葉にもたついてしまいました。

「良いのですか?本当に?」

「...良いと思う。」

煮え切らない言葉に聡子は考え始めた。でも直ぐに終わったようでこちらを見据え、私には掛ける言葉を探していました。聡子は昔から話の早い人間だったのです。

「実さん、ありがとうございます。」

そう言って、聡子は笑った。難しい言葉が苦手な私に合った言葉は簡潔なものでした。

「傷の舐め合いを、する、つもりでは無いよ。」

私は聡子に言った。

聡子が、あまりにも嬉しそうに笑ったからです。私は初めて人に触れ、一瞬にして、邪魔者のない自由な愛を育んだのです。聡子なら、きっと私を受け入れ、また私も聡子の痛みを感じることが出来ると思いました。人と抱き合うことも出来ない私はその場から動くことはしませんでしたが、聡子は私の髪を撫でてくれました。それだけで、満たされたのです。







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