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隣に立つ  作者: 松本ゆきみ


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7/16

何も起きなかった夜

インターホンが鳴ったとき、

佐藤玲奈は一瞬、時計を見た。

まだ、遅すぎる時間ではない。

けれど、

家族が起きている時間だった。

扉を開けると、

須郷迅が立っていた。

制服のまま。

鞄も持っていない。

「……急に悪い」

声は低く、

いつもより抑えられている。

「少しだけなら」

そう言って、

玲奈はドアを開けた。

玄関で靴を揃え、

迅は一歩だけ中に入る。

居間から、

テレビの音が聞こえた。

迅は、それに一瞬だけ目を向ける。

「……家、いるんだな」

「はい」

それだけで、

今日の距離が決まった。

廊下の端、

人目につかない場所に並んで立つ。

「昨日」

迅が、先に口を開いた。

「言いすぎた」

玲奈は首を振る。

「正しいことでした」

即答。

「でも、

 同じ速さじゃなかった」

迅は、少しだけ息を吐いた。

「俺さ」

声が低い。

「立ってるつもりだった」

視線は床。

「でも、

 夜は立てなかった」

その言葉を、

玲奈は抱きしめなかった。

代わりに、

少し距離を詰める。

「……私も」

小さな声。

「全部決めるの、

 やめました」

迅が顔を上げる。

「止まるの、怖いです」

正直な言葉。

「でも、

 置いていくほうが、

 もっと怖かった」

沈黙。

廊下の向こうで、

食器の音がした。

迅は、

それ以上近づかなかった。

「……今日は」

ぽつりと。

「ここまでだな」

「はい」

二人とも、

それでいいと分かっていた。

迅が靴を履く。

「明日」

短く言う。

「ちゃんと話す」

「……待ってます」

扉が閉まる。

玲奈は鍵をかけてから、

しばらく、その場に立っていた。

迅は、一人で帰る。

私は、家に戻る。

同じ夜なのに、

立っている場所は、決定的に違う。

居間に戻ると、

母がテレビを見たまま言った。

「寒くない?」

それだけだった。

心配も、詮索もない。

でも——

見られている、という感覚だけが残る。

「大丈夫」

そう答えると、

母はそれ以上、何も聞かなかった。

自室に戻り、

進路票を机に置く。

消した文字の跡が、

まだ残っている。

迅は、

帰る場所を選べない。

私は、

帰る場所があるのに、

そこに本音を置いていない。

(何も起きなかった)

でもそれは、

逃げた夜じゃない。

選ばなかったことを、

ちゃんと選んだ夜だ。


迅は一人で帰る。

玲奈は家に戻る。

それでも——

同じ方向を向いている。

その確信だけが、

この夜に残った。


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