ズレが見える日常
最初に気づいたのは、
音だった。
朝、キッチンで包丁がまな板に当たる音。
玲奈は、そのリズムが少しだけ早いことに気づく。
(……急いでる)
声には出さない。
須郷迅は、
いつもより早くネクタイを締めていた。
「……今日、
早いんですね」
玲奈が言う。
「会議」
短い返事。
それで終わる。
本当は、
それだけじゃない気がした。
夜。
先に帰った玲奈が、
夕飯を作っている。
迅は、
遅れて帰ってきた。
「……ただいま」
「おかえりなさい」
鞄を置く音が、
少し強い。
(……疲れてる)
でも、
それも口にしない。
食事は、
静かに進む。
「……味、
薄いか」
迅が言う。
責める声ではない。
確認の声。
「……少しだけ」
玲奈は、
そう答えた。
迅は、
何も言わずに調味料を足す。
それで終わる。
なのに——
胸の奥に、
小さな引っかかりが残った。
(……言えばよかったかな)
(……言わなくてよかったかな)
どちらでもない。
洗い物を終えて、
ソファに座る。
いつもの距離。
「……なぁ」
迅が言う。
「最近、
俺、
家であんま喋ってねぇか」
唐突だった。
玲奈は、
一瞬だけ言葉に詰まる。
「……少し」
正直に答える。
「でも、
嫌ではないです」
迅は、
少しだけ眉を寄せた。
「……嫌じゃない、
が増えてるな」
玲奈は、
それを否定しなかった。
「平気、
とは違います」
静かな指摘。
「嫌じゃないけど、
嬉しいとも限らない時、
あります」
迅は、
ソファに深く座り直した。
逃げない姿勢。
「……それ、
俺のほうだな」
「はい」
即答。
でも、
責めていない。
「仕事、
持ち帰ってますね」
「……あぁ」
「話さなくなったというより、
“一人で処理しようとしてる”
感じがします」
迅は、
目を伏せた。
「……クセだ」
短い言葉。
「頼らない、
って決めたから」
玲奈は、
そこで首を振った。
「頼る、
じゃないです」
一拍。
「共有、
してほしいです」
迅が、
ゆっくり顔を上げる。
「……違い、
分かるか」
「はい」
玲奈は、
迷わなかった。
「私は、
一人で立つのは得意です」
「でも、
隣に立つ人が
何と戦ってるかは、
知りたい」
迅は、
しばらく黙っていた。
やがて、
短く息を吐く。
「……ズレてきてたな」
認める声。
「喧嘩には、
ならねぇズレだ」
「はい」
「でも、
放っとくと、
距離になる」
玲奈は、
小さく頷いた。
「……今日は」
迅が言う。
「仕事の話、
少しする」
義務じゃない。
宣言でもない。
選択だった。
玲奈は、
ソファの位置を少し詰めた。
「聞きます」
それだけ。
話は、
長くなかった。
専門用語も多く、
玲奈には分からない部分もある。
それでも、
聞いた。
遮らない。
解決しない。
「……以上」
迅が言う。
「すみません、
上手く話せなくて」
「大丈夫です」
玲奈は、
即答した。
「全部分からなくても、
共有はできました」
迅は、
小さく笑った。
「……それでいいか」
「はい」
ズレは、
消えない。
でも、
見えた。
それで、
十分だった。
夜、
布団に入る前。
迅が、
ぽつりと言う。
「……言ってくれて、
助かった」
玲奈は、
少しだけ間を置いて答えた。
「ズレたら、
言います」
「俺も」
同棲は、
幸せを積むだけの生活じゃない。
ズレを言葉にできるかどうかの、
連続だ。
この夜、
二人は一つ、
それを覚えた。




