第4話:銀の断罪
謁見の間を支配していたのは、酸素さえも凍りつくような絶対的な静寂だった。
かつて私の「死」を願った者たちが、今、目の前で腰を抜かし、浅ましい姿を晒している。その光景は喜劇であり、同時に悲劇でもあった。
「あ、あ……あ……」
ベアトリスは床にへたり込んだまま、口をパクパクと開閉させている。厚塗りの白粉が汗でドロドロに溶け、目元の化粧が黒い涙となって頬を伝っていた。かつて社交界で「薔薇」と自称していたその顔は、今や醜悪な老婆のそれだった。
「ひ、人違いよ……! そう、人違いだわ! エリーゼは死んだのよ! 谷底へ落ちて、跡形もなく消えたはず……! お前は誰だ!? どこの魔女だ!?」
恐怖のあまり錯乱したのか、ベアトリスは金切り声を上げて私を指差した。その指先が震えているのが、ここからでもはっきりと見て取れる。
私はゆっくりと、優雅な所作で扇を開いた。その動き一つで、周囲の空気がビリリと震える。背後に控えるヴォルグが喉を鳴らし、その殺気を増幅させたからだ。
「魔女、ですか。……ふふ、あながち間違いではありませんわね。私は一度死に、竜の魔力を得て蘇ったのですから」
私は大理石の床を滑るように歩き、彼らの目の前まで進み出た。
「お義母様。あなたが一番よくご存じのはずですわ。私が生きていては困る理由を。……だからこそ、あのような杜撰な証拠を捏造し、私を消そうとなさったのでしょう?」
「な、何を……でたらめを言うんじゃないわよ! 横領したのはお前だ! 国を売ろうとしたのもお前だ!」
「往生際が悪いですわね」
私はヴォルグに向かって片手を上げた。
竜が短く咆哮する。すると、何もない虚空から銀色の光の粒子が集まり、数冊の分厚い帳簿と、束になった手紙が実体化した。
ドサリ、と重たい音を立てて、それらはベアトリスの目の前に落ちた。
「ひっ!?」
「見覚えがおありでしょう? あなたが屋敷の地下室の、隠し金庫のさらに奥底に隠していた『真の帳簿』です」
ベアトリスの顔色が、白を通り越して土色に変わった。
「そ、それは……燃やしたはずの……!」
「ええ、あなたは燃やしたつもりだったのでしょう。ですが、竜の眼は全てを見通します。灰になった過去さえも、真実ならばこうして復元できるのです」
私は国王陛下に向き直り、恭しく一礼した。
「陛下。これが動かぬ証拠でございます。ベアトリス・フォン・ヴァイデルは、長年にわたり領地の税を不正に搾取し、あろうことか王家からの支援金までも横領しておりました。その額、国家予算の数パーセントにも及びます」
広間中の貴族たちが息を呑み、ざわめきが広がった。
「さらに、彼女はその罪を私になすりつけるため、敵国の密偵を金で雇い、偽の書簡を作成させました。……ここにある手紙が、その密偵とのやり取りの記録です。代金の支払い証明まで残っていますわ」
大臣の一人が震える手で書類を拾い上げ、中身を確認する。
「……ま、間違いない。これはベアトリスの筆跡、そして相手は……先日捕縛された敵国のスパイの名だ!」
決定的な証言が響き渡った。
ベアトリスは「嘘よ! 嘘よ!」と叫びながら帳簿を奪おうとしたが、近衛兵に腕をねじ上げられ、冷たい床に顔を押し付けられた。
「離しなさい! 私は侯爵夫人よ! 無礼者! ……ジェラルド! ジェラルド、何とかおし!」
彼女は息子に助けを求めた。しかし、ジェラルドは焦点の定まらない目で私を見つめたまま、動こうとしない。
「ジェラルド! 聞こえないの!? この魔女を斬り捨てなさい!」
「……母さん」
ジェラルドが、掠れた声で呟いた。
「もう……終わりだ」
「何ですって!?」
「全部、本当だったんじゃないか……。エリーゼが横領していたんじゃない。母さんが……母さんが、僕たちの家を食い潰していたんだ……!」
ジェラルドは頭を抱え、獣のような嗚咽を漏らした。
彼は知らなかったわけではないだろう。薄々は気づいていたはずだ。母の異常な浪費癖も、エリーゼの献身も。けれど、「母が悪いことをするはずがない」という盲目的な信仰と、「波風を立てたくない」という弱さが、彼から思考力を奪っていたのだ。
真実から目を逸らし続けた代償は、あまりにも大きかった。
「静粛に!」
国王陛下が立ち上がり、雷のような大音声で告げた。
「ベアトリス・フォン・ヴァイデル! その方の罪は明白である! 国を欺き、無実の者を陥れ、私利私欲のために民を苦しめた大罪……万死に値する!」
「い、嫌! 嫌ぁぁぁっ! 私は悪くない! 私は被害者よ! お金が欲しかっただけなの、綺麗なドレスが着たかっただけなのよぉぉぉ!」
「連れて行け! 地下牢へぶち込んでおけ!」
ベアトリスは髪を振り乱し、見苦しく暴れながら兵士たちに引きずられていった。その絶叫が扉の向こうに消えるまで、広間には誰も口を開く者がいなかった。
残されたのは、抜け殻のようになったジェラルドだけ。
彼はふらふらと立ち上がろうとして、足がもつれて再び転んだ。這いつくばったまま、彼は私を見上げた。
その瞳には、涙が溢れていた。
「……エリーゼ」
私は冷ややかな視線で見下ろす。かつて愛おしいと思っていたその碧眼も、今では濁った水溜まりにしか見えない。
「何でしょう、ジェラルド様。何か申し開きでも?」
「すまなかった……!」
彼は叫び、額を床に擦り付けた。貴族としての矜持もプライドも捨て、なりふり構わぬ土下座だった。
「僕が馬鹿だった! 母さんの言うことを鵜呑みにして、君の言葉を聞こうともしなかった! 君がどれだけ家のために尽くしてくれていたか、いなくなって初めて分かったんだ! 毎日、君のことを思わない日はなかった!」
必死な言葉が続く。周囲の貴族たちは、そのあまりの情けなさに眉をひそめている。
「君を愛していたんだ、エリーゼ! 今でも愛している! だから……戻ってきてくれないか? やり直そう、二人で! 母さんはいなくなった、もう邪魔する者はいない! 君さえ戻ってくれば、家はまた再興できる!」
なんと浅ましい。
謝罪の言葉に混じるのは、「家を立て直したい」「楽な生活に戻りたい」という本音。彼は私を愛しているのではない。私という「便利な道具」を愛しているだけだ。
「……愛していた、ですか」
私は扇で口元を隠し、小さく笑った。
「ええ、そうでしょうね。あなたは優しい方でしたもの。……自分にとって都合の良い時だけは」
「エ、エリーゼ……?」
「ジェラルド様。あの日、竜の谷の崖の上で、私はあなたに問いましたね。『後悔なさいませんね?』と」
ジェラルドの顔が凍りつく。
「あなたは答えました。『君が悪かったんだ』と。……あの言葉が、あなたの本質です。あなたはいつだって、自分の選択の責任を誰かに押し付けて生きてきた」
私は一歩踏み出し、彼の目の前にしゃがみ込んだ。
そして、涙と鼻水で汚れた彼の手が、私のドレスの裾に触れようとした瞬間、パチンと扇でその手を払い除けた。
「あ……」
「気安く触れないでくださいませ。汚れますわ」
拒絶。明確な、絶対的な拒絶。
ジェラルドの手が空を切り、力なく垂れ下がった。
「やり直す? 家を再興する? 寝言は寝て仰ってください。私はもう、ヴァイデル侯爵家の人間ではありません。私は竜の契約者、エリーゼ。……あなたとは住む世界が違うのです」
私は立ち上がり、冷徹に見下ろした。
「それに、その言葉……『愛していた』『許してくれ』という言葉」
私はニッコリと、最高に美しく、そして残酷な微笑みを浮かべて告げた。
「死ぬ前に、聞きたかったですわ」
その一言が、ジェラルドの心を砕いた音がした気がした。
死ぬ前。そう、私は一度殺されたのだ。彼の手によって。今更何を言おうと、あの絶望の淵にいた私には届かない。過去は決して覆らないのだ。
「あ、ああ……うあぁぁぁ……」
ジェラルドは床に突っ伏し、子供のように泣き崩れた。
もはや彼にかける言葉は何もない。憐れみさえ湧かない。ただ、一つのゴミを処理し終えたような、無機質な感情があるだけだった。
「陛下、判決を」
私が促すと、国王は重々しく頷いた。
「ジェラルド・フォン・ヴァイデル。その方もまた、共犯として同罪である。侯爵家は取り潰し、全財産を没収とする。そして両名には、北の鉱山での強制労働を命じる。……一生、泥にまみれて罪を償うがよい」
「ははっ、ありがたき幸せ」
鉱山送り。過酷な労働環境で、貴族として育った彼らがどれほど生き延びられるか。
だが、それは彼らが私に与えた苦しみに比べれば、生温い罰かもしれない。
衛兵に引きずられていくジェラルドは、最後まで私の名を呼び続けていた。
「エリーゼ! エリーゼ!」と叫ぶその声は、広間の扉が閉まると共に途絶えた。
静寂が戻る。
私は大きく息を吐き出した。胸のつかえが取れたような、不思議な爽快感があった。これが復讐。これが断罪。
私の過去は、今ここで完全に精算されたのだ。
「……さて」
私は表情を切り替え、バルコニーへと歩みを進めた。
まだやるべきことが残っている。私的な復讐は終わったが、公的な「巫女」としての役目はこれからだ。
「ヴォルグ!」
私が呼ぶと、黒竜が翼を広げ、天を仰いだ。
私はその背に飛び乗ることはせず、バルコニーの先端に立ち、両手を広げた。
「契約に従い、我が魔力を糧とせよ! ヴォルグ、この乾いた大地に、命の水を!」
私の体から、莫大な魔力が奔流となって溢れ出す。
銀色の光が柱となって天を突き刺し、赤茶けた空に広がっていく。
ヴォルグが呼応して咆哮を上げた。その声は大気を震わせ、風を呼び、雲を集める。
ゴロゴロ……と、遠雷が響いた。
数年ぶりに聞く、雨の予兆。
「あ……雲だ! 雨雲だ!」
「おお、空が……空が泣いている!」
バルコニーの下、王宮広場に集まっていた民衆たちが歓声を上げた。
灰色の厚い雲が、瞬く間に王都の空を覆い尽くす。そして。
ポツリ。ポツリ。
大粒の雨が、乾いた石畳を叩き始めた。
それはすぐに激しい豪雨となり、王都全体を洗い流していく。
砂塵は消え、熱気は冷まされ、死にかけていた街路樹が息を吹き返す。
疫病の瘴気を含んだ淀んだ空気も、清浄な雨と竜の魔力によって浄化されていく。
「雨だ! 雨だぁぁぁ!」
「竜の巫女様、万歳! 国王陛下、万歳!」
歓喜の声が地鳴りのように響く。人々は雨に打たれながら踊り、抱き合い、天に感謝を捧げていた。
私はその光景を、静かな心で見下ろしていた。
「……これで、約束は果たしました」
私は振り返り、呆然と立ち尽くす国王と貴族たちに告げた。
「この雨は三日三晩降り続き、大地を癒やすでしょう。疫病も治まります。あとは……人間であるあなた方が、どう国を立て直すか次第です」
「ま、待ってくれ! 巫女よ、行かないでくれ! 我が国にはそなたのような力が必要だ! どうか、王宮に留まってはくれぬか!」
国王が慌てて呼び止める。
しかし、私は首を横に振った。
「いいえ。人の世の政に、人外の力が深く関わるべきではありません。それに……」
私はヴォルグの背に飛び乗り、手綱を握った。
「この国には、嫌な思い出が多すぎますの。……もう少し、空気の綺麗な場所で暮らしたいのです」
「そ、そんな……」
「さようなら、陛下。どうか、今後は『声なき者の声』にも耳を傾ける良き王であられますよう」
「行こう、ヴォルグ!」
『承知した、我が愛し子よ』
黒竜が力強く大地を蹴った。
巨大な翼が風を掴み、私たちは一気に空高く舞い上がった。
眼下には、雨に煙る王都が広がっている。
その一角にある、廃墟となりつつある侯爵家の屋敷。そして、護送車に乗せられ、泥道を運ばれていく二人の罪人。
彼らは雨に打たれながら、何を思っているのだろうか。後悔か、恨みか、それとも絶望か。
どちらにせよ、もう私には関係のないことだ。
雨雲を抜け、眩い太陽が輝く成層圏へ。
どこまでも広がる蒼穹の世界。
冷たい風が頬を打ち、私の銀髪をなびかせる。
「……ふふっ」
自然と笑みがこぼれた。
これほど空が青く、世界が美しいと感じたのはいつぶりだろうか。
私は自由だ。
誰かの顔色を伺うことも、理不尽な要求に耐えることも、もうしなくていい。
「ねえヴォルグ。どこへ行こうか?」
『どこへでも。世界の果てまで、貴様の望むままに』
「そうね……。まずは、誰も知らない静かな湖畔でお茶でもしましょうか。あなたが焼いてくれるお菓子、楽しみにしているわ」
『フン、我を料理人扱いするとは、いい度胸だ。……まあ、とびきり美味い鹿肉を焼いてやらんこともない』
愛すべき相棒との軽口を交わしながら、私たちは彼方へと飛び去った。
後に残った伝説。
国を救い、悪を断罪し、嵐のように去っていった「銀の処刑人」にして「慈悲の巫女」。
その物語は、長くこの国で語り継がれることになるだろう。
けれどそれは、私にとってはただの過去の一ページ。
私の本当の幸せな人生は、今ここから始まるのだから。




