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処刑台の露と消えたはずの侯爵夫人は、白き翼と共に舞い戻る ~無実の罪で捨てられた私が、国を救う竜の巫女になるまで~  作者: jnkjnk


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第2話:銀の契約と崩れゆく侯爵家

全身が砕け散ったかのような激痛と、骨の芯まで凍りつくような寒さ。それが、私の意識が泥沼のような闇から浮上した時に最初に感じたものだった。


目を開けることさえ億劫なほど、まぶたが重い。呼吸をするたびに肺が軋み、鉄錆のような血の味が喉の奥に広がる。

私は生きているのか、それともここが死後の世界、地獄の入口なのか。

『竜の谷』の底。光の届かぬ奈落。


「……う、ぅ……」


呻き声が漏れる。指先一本動かせない。身体の下には硬く冷たい岩の感触があり、周囲には腐臭と、何か焦げたような匂いが漂っている。

薄目を開けると、視界の端に白骨化した何かの死骸が見えた。人のものか、獣のものか。ここは死者の墓場なのだと、朦朧とした頭で理解する。


その時、頭上の闇が大きく揺らいだ。

風が止まった。いや、もっと巨大な「圧力」によって空気が押し潰されたのだ。

地響きと共に、巨大な影が私の目の前に降り立つ。


『ほう……まだ息があるとはな。人間にしては頑丈だ』


頭蓋骨に直接響いてくるような、重低音の声。

私は霞む視線を必死に凝らした。

そこにいたのは、闇そのものを切り取ったかのような、巨大な竜だった。

鱗の一枚一枚が夜空のように黒く、それでいて月光を受けた刃のように鋭く輝いている。山のように巨大な体躯。そして何より、私を見下ろす二つの瞳は、融解した銀のように美しく、冷酷な輝きを放っていた。


古代竜。

おとぎ話や神話の中にしか存在しないはずの、伝説の災厄。


『我はヴォルグ。この谷の主であり、古の盟約に生きる者』


竜の鼻先から吐き出される熱気が、瀕死の私の顔を撫でる。それだけで皮膚が焼けつくようだ。


『人間よ。貴様は同族の手によって突き落とされたな。その身体からは、裏切りと絶望の匂いがプンプンするぞ』


竜は楽しげに喉を鳴らした。それは獲物を弄ぶ捕食者の笑みだった。


『さあ、泣き叫べ。命乞いをしろ。「助けてくれ」「死にたくない」と、無様に泥を啜って懇願してみせろ。そうすれば、苦しまぬように一思いに噛み砕いてやろう』


竜の言葉は、絶対的な宣告だった。

圧倒的な力の前では、人は虫けらに等しい。誰もが恐怖に屈し、惨めに許しを請うだろう。

けれど。


私は、ゆっくりと息を吐き出した。

砕けた肋骨が肺に刺さり、激痛が走る。それでも、私は口元を歪めて――笑った。


「……お断り……ですわ」


掠れた、今にも消え入りそうな声。だが、そこには明確な拒絶があった。


『……何?』

「命乞いなど……しません。私は、罪を犯してここへ落ちたのではありませんもの……」


私は残った力を振り絞り、竜の銀色の瞳を睨み返した。


「私が悔しいのは……死ぬことではありません。無実の罪を着せられ、汚名をそそげぬまま、あの愚かな者たちに嘲笑われたまま終わることが……ただ、無念なだけ」


涙は流さなかった。恐怖に震えることもしなかった。

侯爵夫人として、いや、一人の誇り高き人間として、最期の瞬間まで気高くありたい。あの義母や夫のように、保身のために魂を売るような真似はしたくない。

たとえ肉体が滅びようとも、私の魂の誇りだけは、誰にも傷つけさせない。


「殺すのなら……お早く。私は、あなたになど屈しません」


静寂が訪れた。

竜の瞳が細められ、私を値踏みするように見つめる。

次の瞬間、谷底を揺るがすような轟音が響いた。それは、竜の爆笑だった。


『カカカッ! 面白い! 愉快だ! 数百年ぶりに見たぞ、死のあぎとに頭を突っ込みながら、なお我を睨みつける人間など!』


竜の笑い声が衝撃波となって私を襲うが、不思議と恐怖は感じなかった。


『気に入った。泥に塗れても腐らぬその魂、実に美味そうだ。……だが、喰らうには惜しい』


竜――ヴォルグは、巨大な爪を私の目の前に突き出した。その鋭い爪の先から、銀色の光の雫が滴り落ちる。


『女、名を何と言う』

「……エリーゼ」

『よい名だ。エリーゼよ、我と契約せぬか?』

「……契約?」

『うむ。貴様のその無念、晴らさぬまま朽ちるには惜しかろう。我が血と魔力を分け与え、貴様を「死」から引きずり戻してやろう。その代わり、貴様の残りの命、我に預けよ』


竜の顔が近づく。その瞳には、先ほどの冷酷さはなく、どこか幼子のような好奇心と、深い知性が宿っていた。


『我は人間の「嘘」に飽いた。だが、貴様の言葉には一点の曇りもない真実がある。……どうだ? このまま終わるか、それとも我と共に「理不尽」を焼き尽くすか』


選択の余地などなかった。

復讐心だけではない。このまま歴史の闇に葬り去られることへの抗い。そして何より、私の潔白を証明しなければならないという使命感。


「……受けます。その契約」


私は震える手を伸ばし、竜の爪に触れた。

瞬間、銀色の光が視界を埋め尽くす。

体中を駆け巡る灼熱。砕けた骨が繋がり、裂けた皮膚が塞がり、血液が沸騰するような感覚。

それは再生であり、新生だった。


『よかろう。今この時より、貴様は「竜の巫女」。我が愛し子であり、我が代弁者なり』


意識が光の中に溶けていく。

最後に見たのは、優しく私を包み込むヴォルグの銀色の瞳だった。


***


それから数ヶ月。

王都にあるヴァイデル侯爵家は、かつてないほどの混乱の渦中にあった。


「おい、どうなっているんだ! なぜ朝食に果物がない!? パンもこんなに硬いじゃないか!」


食堂で、ジェラルドが食卓を叩いて怒鳴り散らしていた。

かつては毎朝、焼きたての柔らかなパンと、領地から取り寄せた新鮮な果物が並んでいた。香り高い紅茶が湯気を立て、花瓶には季節の花が生けられていた。

それが今では、冷めたスープとパサついたパン、そして安物の茶葉で淹れた薄い紅茶だけだ。


「申し訳ございません、旦那様。厨房からは、食材の納入業者が『支払いが滞っているため、これ以上は卸せない』と……」


老執事が申し訳なさそうに頭を下げる。彼の顔色も優れない。給金が遅配しているせいで、使用人たちの士気は下がりきっているのだ。


「支払いが滞っている? 馬鹿なことを言うな! 母さんが管理しているはずだろう!」


ジェラルドの問いに答えるように、食堂の扉が荒々しく開かれた。

現れたのは、朝から派手なドレスに身を包んだ義母、ベアトリスだった。だが、その顔にはいつもの余裕はなく、苛立ちが滲んでいる。


「うるさいわね、ジェラルド! 朝から喚かないで頂戴!」

「母さん! 食材が届かないそうだぞ。一体どうなっているんだ?」

「あら、そんなの業者が生意気なだけよ。ちょっと支払いが遅れたくらいでガタガタと……。それよりジェラルド、今月の王都での夜会費、もう少し工面できないの? 私の新しいドレス代が足りないのよ」

「またドレスか!? 先週も作ったばかりじゃないか!」


ジェラルドは頭を抱えた。

エリーゼがいなくなってから、家の金は湯水のように消えていく。

かつてエリーゼは、季節ごとの予算を厳格に管理し、無駄を省きつつも、侯爵家としての体面を保つための出費には糸目をつけなかった。業者の選定、価格交渉、在庫管理。それら全てを彼女が一人でこなし、さらには領地からの特産品販売ルートまで開拓して利益を出していたのだ。


ジェラルドもベアトリスも、それを「勝手にやっていること」「使用人に任せればいいこと」だと思っていた。

だが、エリーゼがいなくなった途端、その複雑怪奇な管理システムを扱える者が誰もいなくなったのだ。


「母さん、現実を見てくれ! 領地からの税収も激減しているんだ。代官から『灌漑施設の修理費が承認されないため、作物が育たない』という苦情が殺到している!」

「そんなの、あの子が……エリーゼが横領して隠した金のせいよ! まだ見つからないの!?」


ベアトリスはヒステリックに叫んだ。

あの日、彼女が捏造した「エリーゼの裏帳簿」。そこには架空の隠し資産が記されていた。ベアトリス自身、その捏造を信じ込みかけ、「エリーゼを追い出せば、その隠し資産が手に入る」と皮算用していたのだ。

だが当然、そんな金は存在しない。あるのは、ベアトリス自身が長年使い込み、エリーゼが必死に穴埋めしていた借金の山だけだった。


「裏帳簿なんて、最初からなかったんじゃないのか……?」


ジェラルドが、恐る恐る口にした。

その言葉に、ベアトリスの顔が引きつる。


「な、何を言ってるの! お前、母親を疑うの!? 全部あの女が悪いのよ! 呪いだわ、あのアマの呪いに違いないわ!」


義母の金切り声を聞きながら、ジェラルドは深い溜息をついた。

執務室の机には、未決済の書類が山のように積まれている。読んでも意味の分からない専門用語、複雑な計算式、権利関係のトラブル。

エリーゼは、これを毎日涼しい顔で処理していたのか。

彼女がいかに優秀で、いかにこの家を支えていたか。その事実が、ボディブローのようにジェラルドの内臓を締め上げる。


「エリーゼ……」


ふと、彼女の名前を呟いた。

いつも完璧な微笑みで、「ジェラルド様、お茶が入りましたわ」「ここはこうすればよろしいのです」と支えてくれた妻。

彼女を切り捨てたのは自分だ。母の嘘を信じ込んだふりをして、面倒事から逃げた報いが、今こうして降りかかっている。


使用人たちは次々と辞めていき、屋敷の掃除も行き届かず、庭は荒れ放題。

かつて社交界で「最も洗練された家」と称賛されたヴァイデル侯爵家は、今や没落の一途を辿っていた。

そして、その崩壊はまだ序章に過ぎなかった。


***


三年という月日が流れた。


かつて豊穣を誇ったこの王国は今、未曾有の危機に瀕していた。

一年以上も雨が降らず、大地はひび割れ、作物は枯れ果てた。井戸は枯渇し、川は干上がり、家畜たちが渇きに倒れていく。

さらに悪いことに、弱った人々の間で原因不明の疫病が流行し始めていた。高熱と黒い斑点が身体を蝕むその病は、貧民街から貴族街へと瞬く間に広がっていった。


「神よ、慈悲を……」

「雨を、我らに雨を……!」


王都の広場では、痩せ細った民衆たちが空に向かって祈りを捧げている。だが、空は雲ひとつない蒼穹が広がるばかりで、太陽は容赦なく地上を焼き尽くす。


王宮の会議室は、重苦しい沈黙に包まれていた。

国王陛下をはじめ、大臣たちの顔には疲労の色が濃い。対策は全てやり尽くした。近隣諸国からの支援も限界に達している。


「陛下……神殿より、新たな神託が下りました」


神官長が震える声で報告する。全員の視線が彼に集まった。


「古代の契約に従い、『竜の巫女』が現れるであろう。彼女のみが、天に慈雨をもたらし、穢れを払う力を持つ……と」

「竜の巫女だと……? そのようなおとぎ話が、現実に存在するというのか」


国王が眉をひそめる。

だが、他に縋るものはない。国中にお触れが出された。『竜の巫女』に関する情報を求む、と。


その頃。

王国の北、かつて死刑場と恐れられた『竜の谷』の奥深く。

人間が立ち入ることのできない、クリスタルに囲まれた巨大な洞窟の中で、一人の女性が静かに目を開けた。


腰まで伸びた髪は、かつてのような茶色ではなく、月の光を織り込んだような純白の銀髪へと変わっていた。

肌は陶磁器のように白く、その身体からは人間離れした神聖な魔力が立ち上っている。

そしてその瞳。かつての理知的な藍色は、今は契約の証である「縦に割れた瞳孔を持つ、鮮烈な銀色」へと変貌を遂げていた。


「……時が来たようですね」


彼女――エリーゼの声は、鈴を転がすような美しさと、刃のような鋭さを帯びていた。


『うむ。下界の人間どもは、自らの業火に焼かれ、喘いでおるわ』


背後から、巨大な影が身を起こす。古代竜ヴォルグだ。

三年前よりもさらに絆を深めた一人と一匹は、今や魂を共有する唯一無二のパートナーとなっていた。


エリーゼはゆっくりと立ち上がり、洞窟の出口へと歩みを進める。

そこから見下ろす世界は、赤茶けた大地が広がるばかりの惨状だった。

その中には、かつて自分が愛し、尽くした領地も含まれている。


「ヴォルグ。私たちが動く時です」

『復讐か? それとも救済か?』


竜の問いに、エリーゼは薄い唇に優雅な笑みを浮かべた。


「両方ですわ。民を救うことは、為政者としての私の義務。そして……」


彼女は風になびく銀髪を押さえ、王都の方角を見据えた。


「罪深き者たちに、相応の罰を与えることもまた、神の代行者たる『巫女』の務めでしょう?」

『カカッ! 言うようになったな。それでこそ我が契約者だ』


ヴォルグが翼を広げると、突風が巻き起こる。

エリーゼはその背に軽やかに飛び乗った。


「参りましょう、ヴォルグ。王都へ。……懐かしき『家族』たちが待つ場所へ」


銀色の翼が羽ばたき、風を掴む。

一瞬にして空高く舞い上がった一人と一竜は、流星のように王都を目指して翔け抜けた。

その輝きは、絶望に沈む国にとっての希望の光であり、同時に、罪人たちへ振り下ろされる断罪の剣でもあった。


エリーゼの胸中には、冷徹なまでの静けさがあった。

かつての泣き寝入りするだけの侯爵夫人は、もういない。

これから始まるのは、誰にも邪魔されることのない、完璧で優雅な復讐劇なのだから。

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