第1話:断罪の宴と竜の谷
王宮の大広間を彩る数多のシャンデリアが、今宵ばかりは私の眼を灼くように眩しく感じられた。クリスタルの煌めきが、着飾った貴族たちの宝石と共鳴し、目も眩むような光の洪水を作り出している。管弦楽団が奏でる優雅なワルツの調べ、グラスが触れ合う軽やかな音、そして扇の陰で交わされる囁き声。それら全てが、どこか遠い世界の出来事のように思えてならない。
私は、エリーゼ・フォン・ヴァイデル。この国の侯爵家当主、ジェラルドの妻として、今夜もまた完璧な微笑みを貼り付けていた。
「あら、ヴァイデル侯爵夫人。今宵のドレスもシックで素敵ですこと。深い藍色が、あなたの理知的な瞳によくお似合いだわ」
「お褒めにあずかり光栄ですわ、伯爵夫人。夫人のワインレッドのドレスも、まるで大輪の薔薇のように鮮やかでいらっしゃいますね」
社交辞令の応酬。一分の隙もないカーテシー。侯爵夫人として求められる振る舞いを、私は呼吸をするように自然にこなしていた。けれど、ドレスの下の背筋は、冷たい汗で濡れている。胸の奥に鉛のような重りが沈殿し、息苦しさが消えない。
その原因は、広間の少し離れた場所で談笑している、私の「家族」にあった。
義母のベアトリスは、今日も年齢を顧みない派手な装いで、取り巻きのご婦人方に囲まれている。首元にも指にも、これ見よがしに大粒の宝石を飾り立て、甲高い笑い声を上げている姿は、良く言えば華やか、悪く言えば品がない。そしてその傍らには、私の夫であるジェラルドが、どこか落ち着かない様子で佇んでいた。
(……嫌な予感がする)
この数ヶ月、義母との関係は最悪と言っていい状態だった。侯爵家の財政は、義母の浪費によって傾きかけていた。夜会ごとの新調ドレス、宝石、そして不明瞭な交際費。私が帳簿を精査し、彼女の横領まがいの支出を指摘してからは、あからさまな敵意を向けられるようになっていたのだ。
「お義母様、少し支出を抑えていただかないと……」
「黙りなさい! 平民上がりの男爵家の娘風情が、由緒ある侯爵家のやり方に口を出すなんて生意気よ!」
何度諫めても、返ってくるのはヒステリックな罵倒だけだった。ジェラルドに相談しても、「母さんも寂しいんだよ。大目に見てあげてくれないか」と、苦笑いで逃げられるばかり。彼は優しい人だ。けれど、その優しさは時に残酷なまでの優柔不断さとなる。母に逆らえない彼は、妻である私を守ろうとはしなかった。
そんな冷え切った家庭内での空気が、今夜はこの華やかな王宮にまで持ち込まれている気がした。義母が私に向ける視線は、いつもの軽蔑を含んだものとは違う。もっと粘着質で、昏い喜びを孕んだような……そう、獲物を追い詰めた猛獣のような目つきだった。
音楽が止まった。
一曲が終わり、次の曲へと移るわずかな静寂。その隙間を縫うように、広間の中央に進み出た人影があった。
「皆様! 少々お耳を拝借願えますかしら!」
よく通る甲高い声。義母ベアトリスだった。
ざわめきが波のように引き、数百の視線が彼女に、そしてその視線の先にいる私へと集まる。嫌な汗が背中を伝った。ジェラルドが母の横に立ち、青ざめた顔で俯いているのが見える。
「わたくし、ヴァイデル家先代当主の妻として、恥を忍んで告発しなければならないことがございますの。我が家の恥部を、そしてこの国を蝕む毒婦の正体を!」
扇をバチリと閉じた義母が、私を指差した。その指先には、揺るぎない悪意が宿っている。
「そこにいる私の嫁、エリーゼ・フォン・ヴァイデル! 彼女こそが、侯爵家の財産を横領し、あろうことか敵国と通じて国家転覆を企む売国奴でございます!」
広間が凍りついた。
何を言っているのか、理解するのに数秒を要した。横領? 売国奴? あまりにも突飛な言いがかりに、怒りよりも先に呆れが込み上げてくる。
「……お義母様、何を仰っているのですか? そのような事実、あるはずがございません」
私は極力冷静な声を保ち、一歩前へ出た。ここで取り乱しては思う壺だ。貴族として、あくまで毅然と振る舞わなければならない。
「いいえ! 事実は明白よ! さあ、これをご覧なさい!」
義母が懐から取り出したのは、数冊の帳簿と、束になった手紙だった。彼女はそれを床にぶちまけるように広げた。
「これはエリーゼが管理していた裏帳簿ですわ! 架空の事業に投資したと見せかけ、その金を裏ルートで敵国の密偵に流していた証拠! そしてこの手紙は、彼女が敵国の将軍と交わした密書! 全て、彼女の部屋から見つかったものです!」
周囲の貴族たちがざわめき出し、私を見る目が変わっていく。疑惑、軽蔑、そして嫌悪。
「違います! その帳簿は……!」
私は床に散らばった帳簿の一冊を拾い上げようとしたが、近衛騎士に制止された。遠目に見ても、それは私が管理していた正規の帳簿ではない。筆跡こそ真似てあるかもしれないが、あまりにも杜撰な捏造だ。横領していたのは義母の方だ。彼女が自分の罪を隠すために、私に全ての罪を擦りつけようとしているのだと、すぐに理解した。
「ジェラルド様! あなたもご存知でしょう? 私が領地経営のためにどれだけ尽力してきたか。不正などするはずがないと、あなたが一番よく分かっていらっしゃるはずです!」
私は夫に救いを求めた。彼ならば、私が毎晩遅くまで執務室で帳簿と格闘していたことを知っている。義母の浪費に頭を抱えていた私を、見ていたはずだ。
しかし、ジェラルドは私を見ようとしなかった。視線を床に落としたまま、唇を震わせている。
「ジェラルド様……?」
「……すまない、エリーゼ」
蚊の鳴くような声だった。
「母さんの言う通りだ。君の部屋から、その証拠が見つかったと……執事から報告を受けた」
「な……ッ!?」
頭を殴られたような衝撃だった。嘘だ。そんなはずはない。彼が、あの優しいジェラルドが、こんな見え透いた嘘に加担するなんて。
「ジェラルド、しっかりなさい! この女に騙されていたのよ、私たちは!」
義母が息子の背中を叩き、けしかける。ジェラルドはびくりと肩を震わせ、意を決したように顔を上げた。その瞳には、私への愛も信頼もなく、ただ保身の色だけが浮かんでいた。
「エリーゼ……君には失望した。我が家の資産を食い荒らすだけでは飽き足らず、国を売ろうとするなんて。侯爵家当主として、君との離縁を宣言する。そして、国家反逆罪として突き出す!」
彼の言葉が、私の心の中で何かを決定的に壊した。
愛していた。頼りないところもあったけれど、その優しさに救われていた日々もあった。いつか二人で、穏やかな家庭を築けると信じていた。その全てが、義母の悪意と夫の弱さによって、泥の中に踏みにじられたのだ。
「……そうですか。あなたは、信じてくださらないのですね」
私の声は、驚くほど静かだった。涙は出なかった。あまりの絶望は、涙さえも枯れさせるらしい。
「黙りなさい、この売国奴! 陛下、こやつの罪は万死に値します! 即刻、処刑を!」
義母の声に呼応するように、玉座に座る国王陛下が重々しく頷く。本来ならば正当な裁判が行われるべきだが、義母はあらかじめ根回しを済ませていたのだろう。あるいは、侯爵家の不祥事を早急に処理したい王家の思惑もあるのかもしれない。私の弁明を聞く耳を持つ者は、この会場には一人としていなかった。
「静粛に! ヴァイデル侯爵夫人の罪、許し難し。よって、極刑に処す!」
裁判官役の大臣が高らかに宣言する。
「しかし、ただ殺すだけでは生温い。古の掟に従い、『竜の谷』への投身刑を申し渡す!」
会場が息を呑む気配がした。『竜の谷』。それは王都の北に位置する、底知れぬ断崖絶壁。そこには人を喰らう魔獣や竜が棲むと言われ、落ちて生きて帰った者は一人もいない。実質的な死刑宣告であり、遺体すら残らない最も残酷な刑罰だった。
近衛兵たちが私の両腕を掴む。抵抗はしなかった。ドレスの裾が乱れるのも構わず、私はただ真っ直ぐに、かつての家族を見据えた。
義母は扇で口元を隠しているが、その目は三日月のように細められ、隠しきれない笑みが漏れている。邪魔者が消えて清々した、と言わんばかりだ。
夫は、相変わらず私から目を逸らしている。その横顔には、罪悪感よりも「これで母の機嫌が直る」「家は安泰だ」という安堵が滲んでいるように見えた。
愚かだ。本当に、愚かな人たち。
私が消えれば、誰が領地を管理するのか。誰が義母の浪費を止めるのか。私が必死に繕ってきたからこそ、侯爵家は体面を保てていたというのに。
彼らは自ら、破滅への道を切り開いたのだ。
「連れて行け!」
兵士に引きずられながら、私は一度だけ振り返った。
蔑みの視線を送る貴族たち、勝ち誇る義母、そして私を見捨てた夫。その光景を目蓋の裏に焼き付ける。
私は何も言わなかった。罵詈雑言も、命乞いもしなかった。ただ、その沈黙こそが、彼らへの最後の別れの言葉だった。
***
馬車に揺られること数時間。王都の喧騒は遠ざかり、冷たい風が吹き荒れる山岳地帯へと入った。窓の外は漆黒の闇だ。時折、雷光が空を裂き、荒涼とした岩肌を照らし出す。
護送馬車の中には、私と二人の兵士、そして見届け人として同行したジェラルドと義母の姿があった。
義母はわざわざ厚着をしてまで、私の最期を見届けに来たのだ。その執念深さには感服するほかない。
「ふん、やっと到着ね。気味の悪い場所だこと」
馬車が止まり、扉が開かれる。轟音と共に吹き付ける風が、ドレスを激しく叩いた。
そこは、世界の終わりのような場所だった。切り立った崖の先には、深淵な闇が広がっている。底からは、風鳴りとも獣の咆哮ともつかない不気味な音が響いてくる。これが『竜の谷』。罪人が捨てられる場所。
兵士に促され、私は崖の縁に立った。一歩踏み出せば、二度と戻れない奈落の底だ。
足元の小石が崩れ、闇へと吸い込まれていく。その音すら聞こえないほど、谷は深い。
「さあ、お行きなさいエリーゼ。これがあなたの相応しい末路よ」
義母が背後で嘲笑う。
私はゆっくりと振り返った。嵐のような風の中で、私の髪が乱れ、視界を遮る。それでも、私の瞳は揺るがなかった。
「……ジェラルド様」
名を呼ぶと、夫はびくりと肩を震わせた。
「最後に、一つだけお聞きします。あなたは、本当にこれで良いのですか? 私という『盾』を失って、この家を守りきれると?」
ジェラルドの顔が歪む。彼は何かを言いかけたが、義母がそれを遮った。
「何を偉そうに! あんたみたいな詐欺師がいなくなって、家はもっと繁栄するわよ! ジェラルド、こんな女の戯言に耳を貸すんじゃありません!」
「……ああ、そうだ。母さんの言う通りだ。エリーゼ、君が悪かったんだ……大人しく、罪を償ってくれ」
夫は最後まで、夫ではなく「母の息子」だった。
私はふっと息を吐き、口元に微かな笑みを浮かべた。それは自嘲であり、そして彼らへの憐れみでもあった。
「そうですか。……哀れな方々」
「なっ……何ですって!?」
激昂する義母を無視して、私はジェラルドの目を真っ直ぐに見つめた。かつて愛した、その淡い碧眼を。
「ジェラルド様。私の潔白は、いずれ天が証明するでしょう。けれど、その時に後悔しても遅いのです」
一歩、後ろへ下がる。踵が崖から外れ、身体がふわりと傾く。
重力が私を捕らえ、奈落へと引きずり込もうとする。
「後悔なさいませんね?」
それが、私が人間として彼らに残した、最後の言葉だった。
「あっ……!」
ジェラルドが手を伸ばしかけたように見えた。けれど、その指先が私に届くことはない。
私の身体は宙に投げ出された。
視界が一回転し、灰色の空と、小さくなっていく二人の人影が見えた。義母の勝ち誇った顔と、ジェラルドの引きつった顔。それが、この世で最後に見た光景。
風の音が鼓膜を打ち、内臓がせり上がるような浮遊感が私を包む。
ああ、これで終わるのか。
冤罪を着せられ、汚名をそそぐこともできず、こんな冷たい闇の中で砕け散る。
悔しい。憎い。けれど、それ以上に心が冷え切っていた。
私の人生はなんだったのだろう。
ただ真面目に、誠実に生きてきたつもりだった。家の為、夫の為、領民の為。
その全てが報われないまま、私はゴミのように捨てられる。
(私は、死ぬの……?)
闇が深くなる。意識が遠のく。
身体が岩肌に打ち付けられる激痛が走るかと思われたその時、谷底のさらに奥深くから、何か巨大な「気配」が立ち昇ってくるのを肌で感じた。
それは風よりも冷たく、そして溶岩のように熱い、圧倒的な何かの視線。
薄れゆく意識の中で、私は見たような気がした。
闇の中で怪しく輝く、一対の銀色の瞳を。
――ほう。随分と、誇り高い魂が落ちてきたものだ。
頭の中に直接響くような、重厚で威厳のある声。
それが幻聴なのか現実なのかも分からぬまま、私の意識は暗黒の淵へと沈んでいった。
これが、私の死。
そして――私の、新たな生の始まりだった。




