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「吸血鬼?」
呆然とした顔で、夏樹は呟いた。
まあ、普通はそうなるよな。
「そうそう。吸血鬼」
どうやって説明しようか。とりあえず世界学のこと引き合いに出せば簡単なのだけど、こいつがそれを理解してくれるかはまた別の問題だ。
「あー、あー、あー、あれか。人の意識がどうこうっていうあれか」
「夏樹がなにを言っているかイマイチ自信はないけど、たぶん正解」
「へー、あれって本当だったんだな」
「ああ、今ぼくが一番驚いてるところ」
リゼはこの状況をどう思っているのだろう。ぼくにはそれを想像することもできない。もしかしたら、別になんとも思っていないのかもしれなかった。
吸血鬼です、なんてそんな突拍子も無い自己紹介をされたのにも関わらず、夏樹はそのままリゼの向かいに座った。ぼくはリゼと夏樹のあいだに座る。
「で? 夏樹、今日はどうしたんだ?」
夏樹は小ぶりなバッグを一つ持っていた。何かぼくに見せたいものでもあるのかもしれない。
しかし、夏樹の言う『サプライズ』というのは、もっと利己的なものようだった。
「いや、なに、ちょっと課題を写させてもらうと」
「自分でこなす努力をしやがれ」
夏樹がバッグから取り出したのは、英語のテキストだった。たしか、月曜日、つまり明後日に提出しなければいけない課題だった。夏樹からテキストを奪い、ページを確認してみる。
「なあ」
「なんだよ」
「どうして一ページもできてないんだよ。授業中とか、いろいろやる時間はあっただろ」
「俺がまずそんなことをするはずがない」
堂々と、恥ずかしげも無く、当たり前のようにそう宣言した。
「ちょっと見せてー」
夏樹の顔面に突き出した英語のテキストを、リゼが横からかっさらう。
「おー、これは簡単だね」
「本当か? ちょっと解いてみて」
「リゼは勉強できるんだ?」
「わたしは吸血鬼だよ? 勉強なんてする必要ないじゃん」
こともなげにそう言う。
隣で夏樹が本気でうらやましがっていた。
シャーペンをリゼに渡してやる。リゼは特に考える間もなく、解答欄を埋めていく。
「すげえな。おい拓、お前も負けてられねえな」
「お前に言われたくない。……リゼ、君にこの文字はどう見えてる?」
ぼくは「I have a dream.」という英文を指差した。
「読み上げるより、言葉で説明したほうがいいかな。ええと……線で書かれた文字だよ。四つの単語から成ってる、SVO文型の英文。訳は『わたしには夢がある』だよね」
「リゼは元いた場所の言葉はどこの国の言葉でもわかったのか?」
「うん、大体の国の言葉はわかったよ。ちなみに、これが母国語ね」
やっぱり。
どうやら、リゼはこの世界の文字などの視覚的情報、それから音声情報――この場合は言語――において、自分の世界の情報形態で得ているようだ。つまり、彼女にしてみれば、ぼくは日本語ではなく、彼女が知っているいずれかの言葉で聞えているということになるのだろう。
「いいか、リゼ。この文字は英語っていう言語の文字だ」
「へー、この世界じゃ英語っていうんだ。でもね、こっちでも同じ名前なんだよ」
そして、彼女が向こうの情報形態で発する視覚的情報や音声情報――この場合は言語――は、ぼくに伝わるとき、この世界の情報として変換されている。彼女が日本語を話していると思っていても、現実は全く違う言葉を話しているに違いない。英語の名前が同じなのには驚いたけれど。日本語も日本語って言うのかな?
いや、それこそあちらには『英語』や『日本語』とは聞えていないのかもしれない。
それこそ、世界に調整されているかのように。
世界に意思があるかのように。
歪みが生じないように、調整――変換される。
「なるほどね。うん。さっきの疑問も解けて一石二鳥だね」
「そうだな」
「さっきの疑問って?」
夏樹が、リゼが書いた解答を消して書き直しながら――筆跡が全然違うので、先生にバレてしまうから。ついでにわざと間違えて自力で解いたことを装っている――、そう聞いてきた。
「さっきね、どうして言葉が通じてるんだろうね、って話してたんだ」
「へー。確かに不思議だよな。自分の名前だって、お互いにどういう風に伝わってるもんかわかったもんじゃない」
そう言って夏樹が苦笑した。
言われて見ればそうだった。ぼくはこの少女をリーゼ・ブリュスタンだと思っているけれど、もしかしたらもっと違う名前なのかもしれない。ぼくが発音することすらできないような名前かもしれない。
「けど、どっちにしてもそれは別にいいんじゃないかな。タクやナツキは、ちゃんとわたしが二人の名前を呼んでるように聞えるんでしょ?」
「まあな」
だったら問題ないじゃない、とリゼはほほえんだ。
色々と不思議ではあるのだけど。
そう。
説明しにくいのだけど、鏡に映った人物が、現実の人物と違った行動をとっているような感覚。
実際そうなのだろうと思う。今目の前で起きている現象はそういうことなのだと思う。それは、ぼくが理解しなくちゃいけないようなことでもないのだろうけど。
理解しなければいけないのだろうか。
理解を放棄したことを、後悔する日が来るのだろうか。
わからないけれど、そうでないことを切に願う。