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ぶつかる

作者: 森野友弥子
掲載日:2024/08/29

「それはぶつかりさんやなあ」

そう、祖母は言った。

「ぶつかりさんて、なに?」

 蚊取り線香の煙が薄くのぼる縁側、祖母の膝でうつらうつらしながら意識がぼんやりしていた智樹は回らない頭でそう聞いた。座敷の向こう、廊下の奥の洗面所からは「なに、この茶色い染み、全然落ちないわよー」と、母・美和子のぼやく声が聞こえる。それに重なるように、縁側に面した庭からは、りーりーと虫の声が聞こえてくる。庭には向日葵、朝顔の鉢植え、プチトマトのプランター、南天や柿の木などが所狭しとひしめいていた。

ここはH県の山間の町、智樹の父の実家である。智樹の家族は夏休みを利用し、何年か振りに遊びにきていた。前に来たとき智樹は赤ん坊だったので、智樹にとってこの土地は今年が初めてのようなものである。


 智樹、一体なにして遊んできたの? と、少し怒ったような気色を含んでいる美和子の声も、祖母の膝枕に頭を押し付け、ごろごろと転がっている智樹には全く聞こえていない。

「知らなーい」

 そのあまりに適当な返事に、美和子は更に苛立ちの叱責を繰り出そうとしたが、その怒声が発せられる前に、智樹の頭を自分の膝から縁側の板の上に置き替えた祖母が洗面所に顔を出した。

「美和子さん、ええて。うちに貸してみ」という祖母の言葉に「え。お義母さん、でも……」と言いながら、美和子は水と洗剤で濡れたTシャツを手渡した。そのTシャツには確かにべっとりとなにかの茶色い染みが付いている。

「……これ、なんなんです?……」

「気にせんでええ……うちがもらっとくさかい……。やから……」


 小学二年生の智樹は、昼間、この近所に住む圭介と亜子とそこらじゅうを駆けずり回って遊んだ。あまり人見知りもしない智樹は、初めての田舎でも、年の近い二人とすぐ仲良くなり、毎日虫捕りやかくれんぼに興じていた。


 今日もたくさん遊んだ。

 山の上の神社の境内で亜子と隠れていたとき、圭介に見つかりそうになって、二人でそうっと反対方向に走って逃げた。そのとき、二人してなにかにぶつかったのだ。

「ぶつかっちゃったねえ」

と、その「なにか」は言った。

目の前の空間にいる、なにか――黒い靄のようなもの――が二人に手を伸ばしてきたように、見えた。

「わああああっ!」

 智樹と亜子は弾かれたように走り出し、二人を探していた圭介に見つかると、支離滅裂になりながらもさっきのことを伝えた。

圭介は「ぶつかりさんのこと?」と言いながら、亜子の腕を見てギョッとした。

「亜子ちゃん、腕」

 亜子の腕にはべったりと茶色い染みが、それと同じような茶色い染みが智樹のTシャツにも付着していた。


ぶつかりさん? さっきもおばあちゃん、言ってた。それってなに……。

「おばあちゃん……ぶつかりさんってなに?」

瞼と瞼がくっつきそうになった目で智樹は祖母を見つめる。

「ぶつかりさんっていうのはな。昔っからこの辺におっての……じゃ」

「……?」

 祖母の手が優しく智樹の頭を撫でる。

「大丈夫や。智樹はなんも心配せんでええ。ばばが守ったるさかいな」

「……え……?」

「心配せんで、眠りぃ」

 祖母の温かい手が智樹の瞼をふわっと下ろす。

 智樹はそのまま心地いい眠りに誘われ、今日あったこと、ぶつかりさんのこと、考えること、自分の体の意識を手放した。


 10年後。

 智樹は今また祖母の家にいた。

 10年前と違うのは、家の周りに鯨幕が張られ、玄関には「忌中」の文字。祖母の身体はお棺に入れられ、黒いリボンのかかった写真立てが祭壇に飾られていることだろうか。

 虫捕り用ではない、線香の匂いが鼻腔をくすぐる。


祖母が死んだ。

 病気ひとつせず、元気に一人で暮らしていた祖母は突然の心筋梗塞により、あっけなく逝ってしまった。


 檀家になっている寺の住職の読経も会葬者のための通夜ぶるまいも済み、座敷には祖母の入った棺と智樹だけ。

智樹は座敷に散らばった弔問客用の座布団の上で大きく息を吐いた。

「おばあちゃん」

 記憶はおぼろげだが、優しい温かい皺だらけの手を覚えている。

 打ちひしがれるような悲しみではないが、ひたひたと寂しい気持ちが溢れてくる。

 そのとき、玄関のベルが鳴った。

母の美和子が応対している声が聞こえてくる。「智樹」と呼ばれ、玄関に顔を出すと圭介がいた。


「久しぶりやな。なんか……再会が葬式て、アレやけど」

圭介は祖母に手を合わせると、智樹を外に呼び出した。家の前、街灯の下で、はにかむように申し訳なさそうに智樹を見る。昔の面影はそのままだ。

「ううん。わざわざ来てくれてありがとう。亜子ちゃんは? 圭介ひとり?」

 亜子の名前が出た途端、圭介の頬の筋肉がぴくりと動いた。表情が固まる。

「圭介?」

 圭介は大きく息を吸うと、気持ちを落ち着かせるように拳を握った。

「あー……智樹はあの後、すぐ自分の家に帰ったもんな。亜子のことは知らんのやんな」

「え。なにが?」

 言おうか言うまいか、口を開きかけては閉じ、圭介が迷っていることが分かる。だが、しばらくして圭介は話し始めた。あの後、「なにか」にぶつかった後の亜子のことを。


 亜子は、あれから様子がおかしくなったという。

 腕についた染みが全身に広がり、それからは自ら家の壁やドア、柱、テーブルの角、冷蔵庫、テレビ洗濯機、ありとあらゆるものにぶつかるようになってしまった。あまりにすごい勢いでぶつかるため、流血し、身の危険に及びそうな行為まで平気でするようになった。

 もちろん両親や教師はそんな亜子を止めようと必死だった。だが、亜子は日を追うごとに正気を失い、獣のように吠え、「なにか」にぶつかることをやめようとしなかった。

 四六時中見ているわけにもいかず、両親は亜子を手錠と縄で縛り、ドアに鍵をかけ、監禁状態にすることを余儀なくされたのだった。

 だが、事件は起きてしまう。

 ある日の晩、亜子は自らの縄を引きちぎり、手錠がかけられたまま、部屋の窓からガラスを突き破って飛び出したという。


「え」

「信じられるか。8歳やそこらの女の子が、部屋のガラス割って、血ぃ出して傷だらけになりながら国道まで走って行ったんや」

 亜子は両親が追いつけないほど恐ろしいスピードで国道に飛び込み、走ってきたトラックにぶつかって亡くなったという。

「うそだろ……」

「ほんまや。ほんで……」

 圭介は苦しそうに顔を歪めると、言った。

「そのトラックの運転手が言うてたらしいんやけど。亜子な、笑っとったんやって」


 信じられない。あの亜子が……。

たった数日だったけれど、一緒に遊んだ亜子の思い出は優しくて可愛い女の子のイメージしか残っていない。その亜子が悲惨な死を遂げたことも、圭介の言葉も心に小さな棘を突き刺した。

「あれは、ぶつかりさんや」

 ぶつかりさん……。昔、祖母がそんなことを言っていた気がする。


動揺しながら智樹が座敷に戻ると、美和子が仏壇の引き出しや押し入れの中の箪笥を開け、祖母の遺品を整理しているところだった。

「あ、智樹。もしおばあちゃんのものでなにか欲しいものあったら、言って」

美和子は踏み台を使って、押し入れの上段の奥からぐいっと衣装ケースを引き出した。

ことん、と何かが畳に落ちる。

「なにかしら、これ」

 美和子が踏み台から降りる前に智樹が拾う。

それは白っぽい木の箱だった。それに巻かれた白い紙には、なにか不思議な絵と文字が書かれている。なにか……神社かなにかでもらうお守りのような、そんな。

 だが、落ちた衝撃だろうか。その白い紙は剥がれ、木の箱からなにかがのぞいていた。

「なんだ、これ」

 智樹が手に取ったそれは、白い布地に茶色いどす黒い染みが付いていた。広げると子どもが着るような大きさのTシャツ。あのときのTシャツ。

「ばばが守ったるさかいな」

 祖母の声がリフレインする。

「ばばが守ったる」

 染みの付いたTシャツ。染みの付いた亜子。

 亜子は死に、自分は生きている。

 祖母が死に、Tシャツを入れていた箱のなにかを守っていた紙は剥がれ落ちてしまった。

 これは――。


「うわあああああああ!」

 智樹はTシャツと仏壇の蝋燭用の着火ライターを掴むと一目散に走りだした。驚いて制止しようとした美和子の声も耳には入らない。

 家を抜け、田んぼを抜け、道路まで走り出ると、街灯の下で着火ライターを何度も押した。だが、手の中にあるTシャツに火は移らなかった。何度やっても燃えてくれない。焦る智樹の手は汗で滑り、着火ライターを落としそうになったころ、智樹は気付いた。

「そうだ、おばあちゃんの棺桶に入れてもらったら、燃やせる」

 自分の思い付きに安堵し、戻ろうと振り返ったとき、「なにか」にぶつかった。

「また、ぶつかっちゃたねえ」

 そう、その「なにか」は言った。

 智樹は足が震え、顔を上げられない。けれど、道路の向こう側から走ってくる大型トラックのライトだけは目の端で捉えていた。


             



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