曇天
1人の人間がある葛藤を克服して、平凡になるまでの物語です。
薄明りのなか、 大海原を眺めながら、僕は一人、砂浜で立ち尽くしている。まもなく凪を迎えようとしていた。
『はやく、雨が降らないかな……。 』
そんな僕の願いとは裏腹に、雲は無表情でいる。
『もう雨は降らないわ。』
その唐突な音に喉が奪われる。見遣るとセーラー服姿の少女が憂いた表情で天を仰いで立っていた。その可憐なポニーテールは風でゆっくりと靡いている。少女は少しも動かないで言う。
『天気はあまのじゃくなのよね。あなたが望む限り、ずっと雨は降らないわ。』
何もかも知っていそうな彼女の物言いに訝しく思いながら、僕は彼女に意見した。
『僕が天気に対して、何らかの影響を及ぼせるとは到底思えない。』
僕は自分に対しても、いないも同然なのだ。 水面を揺らしてこの世に生を受けてから、静かに沈み続けている。そこには上昇志向は一切ない。その状況が変わる期待はもちろんしていない。時折、僕の存在を認めて言葉を吐く人間があっても、それで、彼らが何か変わるわけでもない。
『そう考えるのは傲慢だわ。あなたは自分の存在を自在に隠すことはできないもの。』
それが事実だったとしても、一体彼女に僕の何がわかるというのだろうか。僕の生い立ちも知らぬ彼女に。
『君の言う通り、天気があまのじゃくだったとしよう。ならば、晴れるはずではないのか?』
予期していたような瞬発力で彼女は答える。
『それは、私が今晴れていてほしいと望んでいるからよ。』
まるで他人のことを話すような抑揚で彼女は静かに語った。僕は彼女の主張の不審な点に 気づき、ニヤリとしながら、脅すような口調 で言った。
『君はおろかだな。そこまでわかっているのなら、雨が降るように願えばいいじゃないか。』
彼女は言葉の上では分かった風にしていても、手なずけることができていない。そこに、根本的なおかしさが存在する。
『私は私である限り、晴れを望むことしかできないの。』
変更不可能な事実であるかのような響きがあった。彼女の頑とした姿勢を崩すため、僕は続ける。
『でもそれでは、望みをかなえるすべがない。』
彼女は悲しそうにうつむいて、虚空を見つめた。どうやら風が僕の思う方向に吹き始めたようだった。嫌いだった父の口癖を思い出しながら言う。
『だいたい君は雨の素晴らしさを分かっていない。雨が降っていれば、僕は慰められる。自分に降り注ぐ間は、他に何も考えなくてもいい。』
すかさず次の話題につなぐ。
『僕にはなぜ君が人々から安心感を奪う晴れが好きなのかが理解できない。』
彼女は瞳を閉じて、ゆっくりとした呼吸をおいて、憐れむように言った。
『あなたは雨が好きなわけではないわ。あなたのからっぽな容器を満たしてくれる錯覚が好きなのよ。』
僕は何も言い返せなかった。自分の肥大化した醜さを強制的に見せられているような不快感。脳が過去という触手にまとわりつかれ、暗闇に引き込まれ、現実からずんずん遠のく感覚。目の前には帳が下ろされ、外部からの刺激は徐々に輪郭を失っていく。また、あの檻の中に閉じ込められ、自傷する日々が始まるのか。完全に身をゆだねてしまいそうになった時、足元の冷たい感触に我に返る。そこには、真冬の海水が手招きをするように動いていた。
『日が差せば、あなたの色彩も鮮やかになるわ。あなたの色まで雨に溶かしてしまうのはもったいない。』
僕の水溶性の個性はどうだっていい。こみ上げる怒りに身を任せて言い放つ。
『雨に打たれた後、何が残るのかが重要なんじゃないか。雨に打たれて流れ去るものは、きっと僕ではないものなんだ。』
震えながら出した声には、言い訳のような切実さがこもっていた。
『きっと、それでは何も残らないわ。私たちを構成するものは、この時まで私たちを彩ってきた時間よ』
その時間が僕を傷つけたのではないだろうか。その悠久の時間が僕をここまで引きずり続け、尖らせてしまったのだ。僕を嘲る言葉に意味なんかこもっていなかったし、それは彼らが一つの共同体としての塊を再認識するために 放たれた言葉なのだ。所詮はかがり火で、身をやつし、焦がすのは羽虫の僕だけ。他人は自分が思っているより、自分に注目などしていない。それぞれの孤独な旅路は交差せず、エッシャーのだまし絵のように互いが互いの上にある錯覚を持っている。遠近感のある僕だけがいつも淵に立たされている。
『時間の色彩は混ざると同時に、心を濁していく。』
時間によって他人につけ入れられる隙が生まれる。
『あなたは勘違いしているようね。時間とはあなたが集める光そのものよ。混ざればまざるほど、白く美しく輝くわ。』
本能的に光を避ける人間には瞼がついている。光を何かの救いのように語る彼女はまぶしさの中に長居して、失明してしまったのかもしれない。苛立ちが高まり、語気を強めて言う。
『人は輝く必要がない。』
『そんなことないわ。実際、あなただって輝いているじゃない。誰よりも人生について真剣に考えて、人様を傷つけないように生きている。』
輝いているという音の響きが自分を示している現状を受け止めきれずに少女に背を向け走り出す。少女の声が背後から僕を追い越す。
『あなたは生きている限り素敵よ。』
誕生日でもないのに自分の存在が肯定されている。しかもその声にはぬくもりがある。うまれてはじめて確かに意味を持つ文章の主語になった僕は喜びのあまり転んでしまった。一瞬で目の前が真っ暗になり、肌には砂がまとわりついている。しばらく、重力の言いなりになっていると砂の塊を砕き歩く少女の着実な歩みが響いてきた。
『ほら、私の手をつかみなさい。』
僕は右手を空に突き出し、少女はそれを引き上げた。砂が僕の起きた軌跡を軽やかに示していた。もう僕は塊の幻影に惑わされたりは しない。 彼女と手をつないで海にむけて歩いていく。二人にはもう言葉がいらなかった。僕たちは、大きな海に小さな身を投げた。僕たちは、二人で冷たい波にのまれながら温かく幸せなあぶくを吐き出した。
その後の海は凪ぎ、雲一つない空から、大雨が降りしきっていた。
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