8、邪智なる暴君、傲慢にして冷徹
滄月は、目の前の娘を「面白い」と思った。
孫家の娘にして滄月の義理の妹(妻の妹)である瑶華は、皇帝という肩書きに臆していない。
「皇帝と言ってもただの人間だ」と思っているのが、伝わってくる。
「平凡な人々には見抜けずとも、主上ならばわかってくださる」と甘言を吐いて、「平凡な人々と同じように主上も騙してやる」と考えている。それが、面白い。
へつらいではなく本心で滄月に対して「主上はなんでもお見通しだ」「全知全能、完璧な方である」と言う者のなんと多いことか。
『あの方は何もかも見透かしているに違いない。特別な方だから』
『何かお考えがあるのだ。凡人にはわからぬ深いお考えが』
『その判断は常に正しい。ゆえに、安心して我らの剣を捧げ、命を差し出そう』
『きっと良い世の中を作ってくださる。そう信じているのです』
そう思われるように国家を挙げて「皇帝は特別で、凡人とは能力が違っていて、とにかく凄いのだ。もうね、同じ人間じゃない。崇めよ、信じよ」と喧伝して民衆の意識にすりすりと刷り込んできるのだから、政策の勝利と言うべきか。実際は凡人の能力なのだが。
現実的な事情を言うと、夏国はここ十数年、十万大山と呼ばれる地域を拠点とする勢力と、その勢力と手を結んだ遊牧民国家を相手に戦をしていた。
戦で先代の皇帝と兄皇子と将軍を失い、留守を守っていた弟皇子が玉座に就いた。その「弟皇子」が滄月である。
戦はまだ終わってないが、頼れる指導者たちは死んでしまった。危機的状況だ。実は即位時点で敵勢力は国土深くまで攻め込んできていて国境は侵されており、このままだと都まで迫られて国が滅ぶ。
若くして君臨した滄月は内心で「どうしろと?」と絶望していたが、「聡明だ」「麒麟だ」「山を砕くほど強い」「千里を見通す」「ただの若造ではない」と嘘と大袈裟の限りを吹聴して傑物の偶像を仕立て上げ、種馬よろしく子作りをして兵を率いて城を出た。
とりあえず、手をこまねいていると国は滅ぶのである。
一秒ごとに滅ぶ確率が高くなるのである。
歴史書に名が残るなら、『少しでも救国の可能性を高めるために最善の手を打ち続けた』『国土と民を守るために勇敢に戦って倒れた』と記されたいものだ。
国主が前線に来ちゃったので、兵も死に物狂いで戦ってくれるだろう。皆、どうせ死ぬのだから持てる能力の最大を越えて戦って英雄死しよう。俺も一緒に死ぬので許せ。せめてもの慰めとか心の支えにしてくれ。無駄死にとは言わせないから。
そう思って前線で剣を振っていたら……。
◆◆◇◇◆◆◇◇◆◆
瑶華の話が続いていた。
「主上は白檀の香りがお好みと聞きました。それなのに、お姉様はそれを知っていてわざと沈香を纏うのです。夫であり、皇帝である方に何のご不満があるのかしら」
「ほう」
どうでもいい話だ。平和な証拠ともいえる。
情報統制を敷いていたので、ほとんどの都の民は「蛮族が遠方にいたが、立派な皇帝が華麗に蹴散らして土地が増えた。我が国は最強である」のようなくだらない子供だましの武勇伝でも聞かされ、危機感なく安穏とした日常を過ごして生きていたのだ。
それは、望ましいことではある。民が安心して暮らせているのは、素晴らしいことだ。
(まあ、目の前の娘は今、危機感を覚えているようだが)
瑶華の双眸には覚悟が満ちている。
その必死な心は、紅で彩られた瞳に、眉に、震える赤い唇に、握った拳に表れていた。
何もしないでいれば、立場は悪くなる一方であろう。ならば起死回生。何もせずに死ぬよりは、何かして死ぬ。……そんな必死な感情や企みがわかる。
(その気持ちは理解できる)
戦地では「何もしないより、するのだ」の一心で、罠にはめられても囲まれても負傷しても剣を握り、馬を駆った。
食えるものはなんでも食った。「とても貴重な霊薬です」と勧められた怪しすぎる献上物も受け入れて飲んだ。
結果、意外となんとかなってしまって帰還した現在に至るのだが。
滄月はしみじみと過去を振り返り、自分の妻である華凛妃を想った。
「不満か……やはり不満があるのだろうか」
華凛という妃は、雲をつかむように掴みどころがない。
ぎゅう、と抱きしめてもそこにいないような気がする。
虚しさを感じさせる。考えや感情もわからない。
祝言をあげて抱いて夫婦になっても、孕ませて父と母になっても、形式的な関係のようで、手ごたえや実感がない。何か思っても時間を置いて冷静になると「自分ひとりが思い上がり、勘違いしていた」と思えてしまって、穴に隠れて顔を覆いたくなる。
並み外れた傾城の美貌も相まって、「人間ではなく、天女なのかもしれない」という考えが脳裏をよぎる。
(いや……天女のようだが、人間だ)
子供と一緒にいる華凛は、普通の人間の母親みたいだった。
優しさや愛情といった、人間らしい情愛の温度があった。
そんな彼女を知れたのは、生きて都に帰れたからだ。
四年前、都を後にした時は、「自分は戦死して帰ることはないだろう」と思っていたし、それでよいと思っていたが、人生とはわからぬものである。
――滄月の思考を知らず、瑶華は囀り続けている。
「白檀の香りは本当に素敵ですよね、安心できますよ。それに比べて、沈香を好む感性はわかりません。すっきりしない感じがするんです。主上もそう思われませんか?」
(俺はなぜ香り談義に巻き込まれようとしているのだ?)
滄月は現実に立ち返って首をかしげた。
「孫瑶華。そなたは姉の趣味に難癖つけたいように思える。別に白檀が好きなわけではなく、沈香を貶めたいがために白檀を引き合いに出しているのでは? 白檀を褒めたいだけなら他を貶める必要はない――俺はそう考える」
己のことを平凡で騙しやすい男だと思って向かってくるのは面白いのだが、それはそうとしてこの娘はよろしくない。
華凛の妹ではあるが、明白な罪があり、悪意があるのだ。
「父である孫静風は、この娘についてどう思う? 俺は斬ってしまいたいのだが」
腰に挿した剣の柄に手をかけると、瑶華は「ひっ」と引きつった声をあげて仰向けにすっ転んだ。いい怯えっぷりだ。毒気が抜かれるようでもあり、嗜虐心が煽られるようでもある。
戦地で知り合った者が言うには、人の心には善性と悪性の二面が誰にでもあり、せめぎ合っている。
今、まさに「酷いことをしないであげよう」「もっと虐めてやろう」という二属性が衝突した気分だった。
舅でもある男に視線を向ければ、孫静風は謝罪を返した。
「娘の躾が行き届いておらず、大変申し訳ございません。再教育いたします」
「再教育だと? 俺の子を殺めようと画策した罪がそれで許されると思うのか?」
瑶華は陽春の乳母と結託しており、乳母に毒入りの茶葉を送ったことが判明している。
その罪は許されるものか。許せと言うなど、ありえない。その考えが罪だ――冷えて殺伐とした思いが腹の底から湧いて、残酷の限りを尽くしたくなってきた。
「皇子に毒入りの茶葉を送るのは謝罪で済むことではないが?」
「それが事実なら、でございます」
――事実ではないことにしたい、と言われている。
瑶華は、陽春の乳母と結託しており、毒入りの茶葉を送ったことが判明している。
孫家は「関わっていない、何かの間違いか、娘が勝手にしたことだ」と主張している――と、報告されていた。
そして本日、侍女として潜んでいた密偵が孫家に逃げ込んだのだ。
困った家である。これが、夏国を支える重鎮名族の家であり、妻の実家でもあるのだから頭の痛い話だ。
下手に「有罪」と認めると、華凛の立場も危うくなってしまう。
そして、孫静風は(味方でいてくれれば)頼もしい存在でもあるのだ。
「孫静風。娘、瑶華は先ほど、『平凡な人々には見抜けずとも、主上ならばわかってくださる』と囀った」
「英雄にして聖君であらせられる今上帝の慧眼は全ての地上の影を照らし抜き、悪事の一寸も蔓延ること能わず。――主上はそのように伝えられておりますので」
「平凡ではない俺は、瑶華が嘘を申していると見抜いた」
「……」
ひえぇ、と情けない声をあげて、瑶華が床を這いずっている。
腰が抜けているが、逃げようとしている。
親しみが湧く――そうだな、俺も死にそうなとき、なりふり構わず生きようとした。怖くてたまらないだろう。
殺意が湧く――皇帝と妃、皇子に害を成そうとして、許されようとするな。俺が残虐に見える構図だが、そもそも誰が悪いのか。
心の天秤が傾く。
勝ったのは――殺意。
発せられたのは、底冷えのする声であった。
「妻と子に悪意を抱く者を許す夫はいない。まして俺は皇帝である」
皇帝は、瞳の瞳孔をぎらりと猟奇的に煌めかせた。
罪を裂くために抜剣されたのは、国宝でもある蒼き直剣。
剣閃の鋭さは飢えた狼牙のごとき勢いで、瞬きするほどの時間で二人が凶刃の餌食となった。
大上段から振り下ろした初撃で、瑶華を。
横一閃して、窓から逃れようとしていた密偵を。
致命傷に止めどなく血が溢れる。
誰も何もできなかった。それほどの鮮やかさで、命は刈り取られた。
「……」
濡れた剣身は邸宅の照明の光を照り返し、窓の外では花が夜風に散らされて舞っていた。
艶やかな花は、いかにも儚く、無力に見えた。
◆◆◇◇◆◆◇◇◆◆
「華凛が妃でなくなれば、そなたの首は長年の付き合いである胴体に別れを告げ、孫家は皇帝に反逆した忌まわしき邪悪の家として歴史書に記されるであろう。不満があればすぐにでも不満を感じないようにしてやってもよいが、そなたはどう思う?」
皇帝は剣を納め、無感動に目を伏せて流し目を送った。声は恐ろしく冷えている。
(……この皇帝は、地上を照らす聖君というより、邪鬼の類なのではないか)
孫静風は生唾を呑み下した。
呼吸が乱れて、汗で全身がぐっしょりと濡れている。生物が本能的に感じる恐怖に脳が、全身が支配されている。
恐ろしい。怖ろしい。――この御方は、ただ者ではない。
邪智なる暴君ではないか。
傲慢にして冷徹ではないか。
ならば、侮ってはいけない。逆らってはならない。
不興を買っては、生きていけない。
「臣下には不満がございません。孫家は忠臣名士の家門でございます。これからも、ずっと」
這いつくばり、額を床に押し付けて答えると、皇帝は「よろしい」と青年らしい声音で呟き、「そうそう」と付け足した。
「舅どの。我が子に爸爸と呼ばせるには、どうすればいいだろうか。経験者の意見を聞きたい。子育てに関する失敗談も思いつくだけ話してくれ。参考にしたい」
(これは、「お前のせいで瑶華が裁かれるような人間に育ったので自覚して反省せよ」と言われているのだろうか?)
孫静風は震えながら子育ての思い出を語り、過ちを振り返り、反省を唱えた。
皇帝が満足して帰って行った後、孫静風は安堵の涙を流し、立ち上がろうとして、足を滑らせてべしゃりと床に転がった。
床は血と、自分が恐怖して漏らした液体で濡れており、臭気もすさまじい。
よくこんな中、「俺はなぜ子に威嚇されたのだろう」だの「俺は閨の技が下手であろうか。実は自信がない」だの語っていたものだ。
しかも、そんな相談めいた声は年相応の若造のように青々としていて、直前の凶行を目の当たりにしていなければ「なんて純朴な。微笑ましい」と思ったかもしれない。
静風は「皇帝には敵対すまい」と胸に誓った。恐ろしくてたまらなかった。




