3、そなたをいただく
皇帝、滄月は、夜に後宮を訪った。
朔月の夜は昏く、微風にたなびく雲に隠れて、星も見えない。
夫であり皇帝である滄月という青年は、華凛にとって今宵の夜空のような人物だった。
民の間では「皇帝という至高の位に若くして君臨した英明な君主である」と敬愛と尊崇の声が謳われているが、妃にとっては謎と未知の帳で覆われていて、底知れぬ闇夜のようで、怖いのだ。
敵に回せば恐ろしく、味方に付けられればこの上なく頼もしい存在。
我が子の未来のためには、味方になってほしい。
「お、お、お……」
震える声は「おかえりなさいませ」と言おうとするが、うまく言葉が続かない。
皇帝の衣裳を当り前に着こなす美貌の夫は、身のこなしが颯爽としていて、冕冠の重みを感じさせない。
均整取れた肢体は背に板でも入っているかのように姿勢が美しく、紫龍の刺繡が施された至高の大衣の裾を翻して歩む足取りには迷いがない。
挙動不審な妻を観察する切れ長の瞳は理性と知性の印象が強く、感情の色が薄い。
その眼差しは、妻への愛情も好意も窺えないように思われた。
「子は」
冷たい印象の美声が響いて、一拍置いてから華凛は夫が問いかけてきたことに気付いた。
「よ、よ、陽奏は、眠っております、わ」
なんとか言葉を返すと、滄月は静かに頷いた。
「報告を受けている」
「な……」
――なんのでしょうか?
華凛は身を強張らせた。
「子の乳母は俺が手配しよう。そなたは乳母に任せるように」
「え……」
それは、自分から我が子を取り上げるということだろうか。
華凛は蒼褪めた。
言葉を返そうと紅唇を震わせて。
けれど上から射貫くような皇帝の眼差しに委縮して、喉が詰まる。
彼の果てなき夜のような底知れぬ漆黒の瞳は、生まれながらに人の上に立ち、他者に命じることを当然としてきた支配者の威がある。
「そなたは四年ぶりに帰った夫の相手をせよ」
子など、どうでもいい――そんな非情な心が伝わってくるよう。
歴史ある国家を統べる重責を負う君主としての威圧感と、氷のような冷淡さが、肌を刺すようだ。
戦場では槍を扱うという大きな手に細い肩を掴まれ、華凛は小さく震えた。
◆◆◇◇◆◆◇◇◆◆
(俺の妻が悪辣な妖婦という報せは、虚偽なのでは?)
遠征中の滄月には、定期的に報告が届いていた。
届けられた情報によると、皇帝妃、華凛は皇帝の不在を喜び、酒池肉林の贅沢三昧に加えて自分が腹を痛めた子や義理の妹を虐げている。
しかも、宦官と淫らな不倫関係にあると言う。
滄月は四年ぶりの妻を冷静に観察した。
華奢な首を小鳥のようにかしげる華凛は、華やかな刺繍が凝らされた襦裙に羽衣のような披帛を纏っていて、天女のように美しい。
滄月に礼儀を示す所作に合わせて、金細工の耳飾りと結い髪を彩る歩揺がしゃらりと音を奏でて耳を潤した。
肩は細く、痩せている。力を入れれば骨が砕けてしまいそうだ。
女性とは温かいと思っていたが、触れた部分の妻の体温は、ひんやりと冷えている。
『育児などわからぬだろうに、乳母の手から我が子を取り上げて次代を担う世子を昏君に育てようとしている』と、報告では言われていた。
真偽は、現時点ではわからない。
大事な我が子のことなので、まずは安全な乳母に任せ、妻については慎重に様子を探るべきだ、と滄月は考えた。
「そなた、寒いのか」
「……」
無口な妻は、麗しいかんばせを強張らせている。
(何を考えているのだろう? 俺が嫌いなのだろうか?)
滄月は、政治に明るく武術も卓越しているが、妻の心を掴む術だけは自信がなかった。
生まれながらの高貴な身の上と端麗な容姿を持つ滄月は、女性に好意を寄せられたことはあっても、厭われたことはなかった――華凛というただひとりの例外を除いて。
滄月は四年前の初夜を思い出した。
忠実な配下は、「優しい言葉かけをしましょう」だの「どれほど余裕がなくとも愛撫を」だの「寝所で肌を合わせれば心も通じます」だの献策してきたのだが。
何を話しかけても華凛は無反応で、木偶人形を相手にしている気分になった。
話しているうちに気持ちは冷めたので余裕はあった。
閨教育の師に見せたいくらいの模範的な愛撫を施したが、反応は薄かった。
しかし、反応が薄くてもすべらかで柔らかな女の肌は彼の雄を刺激したし、彼女の秘蕾もしっとりと蜜で潤い、受け入れる準備が整ったように思われたので、繋がるに至った。
滄月は挿入に高揚したが、腰を振りたくる間も相手は反応が芳しくなく、思い返せばひとりで興奮している己は滑稽に思えた。放ったのちは虚無感と羞恥心に襲われたものだ。
彼女も、もしかすると「ひとりではしゃいで、器の小さな男」と蔑んでいるのかもしれぬ。
そんな居たたまれない気分になった初夜は、密かに心の傷となっている。
遠征の間は、夜伽を献上されても断り、初夜を思い返して淋しさを紛らわしつつ、心の傷を自ら掘り返していた。思い出は苦痛を伴うが、滄月にとって唯一無二の宝なのである。
そして、四年。
二十二歳の男盛りにある滄月は、身の内で滾々と湧き出て切なく渇望する欲を持て余していた。
夫婦が再会して褥を共にするのは当然であろう。
初夜は失敗したが(子が出来たという点においては成功なのだが)今度こそ心も通じるのではないか。
熱の篭った眼差しで妻を見つめて、滄月は彼女を横抱きに運び、臥牀にて組み伏せた。
「きゃっ。ゆ、ゆ、夕餉の準備がございま……んっ……ンう……っ?」
知っている。
先触れの宦官が夕餉が済んでいないと伝えたのだろう。
「そなたをいただく」
「あっ……」
妻の紅唇を己の唇で強引に塞ぎ、滄月は四年ぶりの妻を獣のように貪った。
耳たぶ、頬、首筋に鎖骨と順に食べていき――妻は以前よりも反応がよかった。
まともに会話したことのない妻の甘やかな声に、彼は興奮した。
妻が悦んでいる。俺が悦ばせているのだ。
そう思うと、夫としては嬉しくなり、興が乗って大いに張り切るというものである。
「そなたは世子の母であり国母であるが、俺の妻でもある。俺に愛されるのが務めだと心得よ」
離れていた期間は長かったが、夫婦の仲はこれから深めればよい。
俺にはそれができる――確信した。あんなに愛らしく縋ってきたのだから。
(やはり夫婦は肌を合わせて心を通じ合わせるのだな)
早朝に後宮を後にする皇帝は、誰が見ても極上のご機嫌であった。




